第34話 後悔
あれから何日が過ぎたのか。
トムは森の暗い虚空を見上げ、あの日のことを思い出した。
ジャックに唆され、わずか1ポンドの報酬でナンシーの孫、オリバーを襲った。
とんでもないことをしてしまった……。
オリバーはどうなったのか。
最後に見た彼は、血を流して蹲っていた。
それよりも、あの化け物は何だったのか。
恐ろしい容貌――獣のような咆哮を上げ、闇に溶けた影。
思い出すたび、身震いが止まらない。
1ポンドでロンドンへ逃げるつもりだったが、もうそんな気力は消えていた。
こんな俺は、神に見捨てられたんだ。
祈ることすら許されず、生きる意味も失った。
森の木の実と川の魚で飢えを凌ぎながら、トムは呟いた。
「俺は死んだほうがいい……。」
農地を失ってしまった農民に生きる意味など見いだせるわけもなかった。
ロンドンへ行ったからと言って辛い人生が待っているだけだ。
だが、死ぬ前に、ナンシーに一言謝りたかった。
許しを求めるのではない。
彼女が「死ね」と言えば、その場で死ぬ覚悟だった。
何度もコテージへ足を運んだが、いつも気が挫けた。
もう限界だ。
トムは再びコテージへ向かった。
コテージには、淡いランプの光が漏れていた。
あの扉を叩けば、全てが終わる。
だが、またしても足が竦む。
何日もこの繰り返しだ。
その時、扉が開き、杖をついたナンシーが現れた。
トムは息を呑み、踵を返そうとした瞬間、枯れ枝を踏んだ。
「バキッ!」
静かな森に、音が異様に響き渡る。
「誰かいるのかい?」
ナンシーの見えない目が、周囲を彷徨う。
ありがたい……これも神の思し召しだ。
勇気のない自分に、最後の情けをかけてくれたのだ。
「あ……。」
声が出ない。
「あの……。」
今度はかろうじて声になった。
「その声……トムじゃないかい?」
「はい、ナンシーさん、トムです。」
「おや、驚いた! 村の衆は皆いなくなったと思ってたけど、あんた残ってたんだね。」
「あの、ナンシーさん、オリバーは?」
「オリバーかい? 今日、ウィットフィールド村へ行ってるよ。少し遅くなるってさ。」
オリバーが生きてる!
トムは驚きと感謝で目を見開き、呆然とした。
涙がボロボロと流れ落ちる。
その頃、オリバーは上々の成果に満足していた。
ダンカンの井戸への仕返しで、当分の間、嫌がらせは止むだろう。
だが、この隙に次の対策を立てねばならない。
馬車をコテージに寄せ、馬を納屋へ入れる。
「ばあちゃん、帰ったよ!」
「おや、遅かったね。疲れたろ? 晩飯ができてるよ。」
台所に入ると、見知らぬ男に目が止まる。
乞食のように薄汚れた、痩せた背の高い男が座っていた。
「トムが来てくれたよ。あんた、よく遊んでもらっただろ?」
男がゆっくり振り返る。
【この男は『状態スキャニング』のデータログに一致する情報を確認しました】
...状態スキャニングした対象者ってことか?...
【はい、孫のオリバー君を襲撃しした男の中の一人です】
...なんだと!?...
トムが振り返った先には、確かにオリバーに似た少年がいた。
だが、その顔は見知らぬ者のものだった。
声を上げようとした瞬間、少年は音もなく近づき、トムの口を塞ぎ、腕を捻り上げた。
「ばあちゃん、トムに見せたいものがあるから、ちょっと外に出るね。」
何事もない口調で告げる。
「スープが冷めるだろ!」
「すぐ戻るって!」
トムが抵抗しようとした瞬間、少年の目に釘付けになった。
燃えるような怒りに、金縛りに遭ったように体が動かない。
少年の力は、オリバーと同年代とは思えないほど強かった。
捻り上げられた腕は、まるで鉄に締め付けられたように動かない。
「お前、誰だ?」
トムは苦しい息を吐きながら尋ねた。
少年は答えず、逆に問う。
「お前、ナンシーさんの知り合いか?」
「俺はハムステッド村で農夫だったトムだ。お前こそ誰だ?」
「ハムステッドの農夫が、なぜオリバーを襲った?」
「なんでお前がそれを知ってる!?」
トムは激しく狼狽し、息が荒くなる。
「そんなことはどうでもいい! お前たちのせいで、ナンシーさんがどんな思いをしたか分かってるのか!?」
「オリバーはどうなった!?」
「死んだ。」
悔悟と自責の念が、トムの心を締め付けた。
オリバー、すまなかった……俺は知らなかったんだ!
叫びながら、涙が溢れる。
少年は冷ややかな目でトムを見下ろし、やがて口を開いた。
「もういい。二度とここに来るな。ナンシーさんをこれ以上傷つけるのは許さん。行け!」
トムは立ち去るよう命じられた。
「待ってくれ!俺はどうすればいい!?教えてくれ、頼む!」
殺されてもいい、そのほうが楽だった。
オリバーは、すがりつくトムを冷たく見下ろした。
事情は察せた。
ダンカンの「囲い込み」で農地を失い、食い詰めたトムは盗賊に身を落とし、馬車を襲った。
たまたまそれが、知り合いのオリバーだったのだ。
「教えてくれだと? なら、教えてやる。二度とここに近づくな。それだけだ! 分かったか!」
「せめて、一言謝らせてくれ……。」
その身勝手な言葉に、オリバーはカッとなった。
「勝手なこと言うな! ナンシーさんの中じゃ、オリバーはまだ生きてる。それを、お前の都合で壊す気か!?」
【「筋力強化レベル10」発動中です。注意してください。】
トムの襟元を締め上げていた手に気づき、オリバーは我に返る。
解放されたトムは、荒々しく息を吐いた。
すごすごと森の闇に消えていく。




