第30話 闇落ち
屈強な男たち3人に囲まれ、ジャックは思わず身をすくめた。
そのうちの一人が短銃を抜き、こちらに銃口を向けている。
あの日、街道を通る馬車を襲撃するのがジャックに与えられた仕事だった。
前金は5ポンド。この手の汚れ仕事は初めてではない。もう何度となくやってきた。
村の路上でたむろしていた宿無しども5人を雇い、依頼人から指定された馬車を尾行する。
人気の少ない街道に出たところで6人で取り囲み、御者を殺し、荷は自由にしていい——という、簡単な段取りだった。
ジャックにしてみれば、恐れ入った話だ。
ハムステッド村が廃村となり、この周辺の治安は目に見えて悪化していた。
護衛の一人や二人は同乗しているものと思い込んでいたが、乗っていたのは……子供一人。
しかも御者台に座るのは、まだ10歳ほどの少年だった。
拍子抜けするような状況に、ジャックは舌打ちする。
「こんなところを一人で荷を運んでる方が悪いんだよ……」
気の毒ではあった。だが、これも神の思し召し。
分け前を渡すのが惜しくなった。
銃は高くて手が出なかったが、弓なら得意だった。
少年一人を仕留めるには、それで十分だった。
——一射目。
矢はかすっただけだったが、少年は馬に鞭を入れて逃げ出した。
「グズグズすんなッ!」
苛立ったジャックは、雇った連中を怒鳴りつけた。
だが誰一人として動こうとしない。
——二射目。
今度は見事に命中。馬車は制御を失い、大きな石に乗り上げて転倒した。
ジャックはニヤリと笑い、勝利を確信する。
少年は馬車から投げ出され、太腿の付け根と肩口から血を流して呻いていた。
「こりゃ、助からんな……」
死にゆく人間を見るのは慣れている。
ジャックはかつてワーテルローの戦いに参加した老兵であり、死臭には馴染んでいた。
——だが、そこで記憶が途切れる。
急に意識が飛び、気がついたときには寒空の下、路上に一人横たわっていた。
側頭部がずきりと痛む。
馬車も、仲間も、武器も、前金の5ポンドさえも消えていた。
「……あの野郎ども……裏切りやがったな」
状況は明白だった。
雇った5人が結託し、ジャックを気絶させて金と荷を奪って逃げたのだ。
復讐してやりたい——だが、今はその力も手段もない。
ワーテルローから帰還したとき、ジャックは間違いなく英雄だった。
人々は彼を称賛し、街は歓声で迎えた。
だが、栄光は続かなかった。
深手を負ったジャックは片足が不自由となり、軍人の道は閉ざされる。
職も技もない元兵士が、生き残るのは至難だった。
職人を目指して足掻いても、技術は身につかなかった。
そして彼は徐々に、酒と阿片に溺れ、裏の仕事に手を染めていった。
裏切られた怒りに震えながらも、ジャックはある一点に希望を見出す。
依頼の対象は確かに死んだ。
ならば、残りの報酬を受け取る権利はある。
そうしてダンカンの屋敷を訪れた彼を待っていたのは、さらなる裏切りだった。
数人の私兵に殴られ、中庭へ引きずられる。
そこにダンカンが立っていた。
「おい、ダンカンさん、どういうことだ? オレは仕事を果たしたぞ!」
抗議するジャックを、さらに拳が襲う。
口から血を吐きながら、倒れこむ。
「命があるだけでもありがたいと思え。……こいつは船に送っておけ」
訳もわからぬまま、貿易船の下働きとして船倉に放り込まれた。
ダンカンへの怒りが、骨の髄まで染み渡っていく。
だが、その記憶の中でふと脳裏に浮かんだ。
——あの男が持っていた写しの遺書。
かつて、ダンカンが依頼してきた汚れ仕事だ。
依頼内容は、「その遺書を奪え」だった。
ジャックに殺された男は確かナンシーとか言う元領主館の女中頭だった婆の息子だったと記憶していた。目的はジャックには分からない。
だがジャックは、遺書を密かに持ち帰り、秘密の場所に隠していた。
汚れ仕事を依頼する奴は例外なく、何かを隠している。
その臭いを、彼は嗅ぎ分けていたのだ。
いずれ役に立つことがある。そう思った。
東インド会社の貿易船は、マラッカに停泊した。
積み荷は阿片——向かう先は香港と上海。
帰路では香辛料とゴムを積む。
紳士たちは現地の女を囲い、贅沢三昧だ。
だが、ジャックのような水夫に与えられるのは、カビの浮いたパンと腐臭を放つ水だけだった。
「……絶対に許さねぇ……」
胸の奥に、復讐の火がふたたび灯る。
今は耐えろ。
次にテムズ川へ入った時——それが脱出の時だ。
ジャックは陰鬱な笑みを浮かべ、低く呟いた。
「……まだ、やるべきことが山ほどあるんでな……」
その瞬間——
船倉の暗がりに、かすかな音が響いた。
ぎし、と腐った木材がきしむような音。
続いて、どこからともなく囁き声が届く。
「……力が欲しいか……」
しゃがれた声だった。
どこか神経を逆撫でする、不快な響き。だが、どこか心地よい毒のようでもあった。
ジャックは濁った眼で虚空を見つめ、薄く笑った。
「ああ……欲しいね。」
その瞬間だった。
なにか不快なものが、ぬるりと身体に入り込む感覚が走った。
冷たいものが背骨を這い上がり、脳の奥に直接触れる。だが、それはやがて奇妙な快感へと変わる。
ふと、笑い声が響いた。
へらへらと、どこまでも気味の悪い笑い声——
それが自分自身の声であることに気づいた時、ジャックは一瞬だけ我に返った。
だが次の瞬間、意識はねっとりと濁り、すべてがどうでもよくなっていく。
そして、その夜、マラッカの空には、不気味な赤い月が昇っていた。




