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第27話 楽園

「あんた、疲れただろ。汚れを落としてきな。ちょっと臭うよ。お前が帰ってくると思って、湯を沸かしておいたから。湯を浴びてすっきりしてきな。」

...湯だって!?...  

オリバーは目を丸くした。

救貧院やサワベリー葬儀店では、水をかぶるのがせいぜいだった。

薪はただじゃない。

社会の「ごくつぶし」の孤児に、湯の風呂など贅沢の極みとされていた。

夢にまで見たお湯で体を洗うなんて、想像もできなかった。

そんな楽園が目の前に転がっている。

抗いがたい誘惑に駆られた。 

...いや、ダメだろ...。...  

その湯は、死んだ少年のためにナンシーが用意したものだ。

横取りするわけにはいかない。

早く真実を伝えなければ。  

「ナンシーさん、話があるんですが。」  

台所で晩飯の支度をするナンシーに声をかけた。

彼女の背中は、前世の日本で、団地の台所に立つ母の姿を思い出させた。

あの頃の幸福を、子供だった自分は気づかなかった。

今、胸が締め付けられる。  

...このまま孫のふりをしてしまえばいい。バレたらその時だろ。まさか殺されるわけじゃねえ。... 

ブラックオリバーの囁きが頭をよぎる。  

【このまま孫のオリバー君のふりをするのも悪くありません。バレた時はその時、対処すればいいのでは?】 

...ヨーダ、お前もか!...

「オリバー、グズグズしてないで早く入りなさい。いつまでも手がかかるんだから、しょうがないね。」  

ナンシーの笑顔に促され、オリバーは強引に服を脱がされ、樽のある部屋に押し込まれた。

壺の温かい湯を桶に移し、手ですくう。じんわりとした温もりが全身に広がった。  

湯の入った樽に身を浸すと、まるで天国が現れたような錯覚に陥った。

そばにあった布の袋を湯につけ、体を擦ってみる。大正解だった。  

【ソープワートのようですね。石鹸のようになるハーブです。おそらく他の成分も混ぜてあり、洗浄力は石鹸並みですよ。】  

ヨーダの解説が響く。10年分の垢が落ちていく。  

...幸せって、こんなところにあるんだな...。 

垢で濁った湯を流し、残った湯で体をすすぎ、部屋を出ると、乾いたタオルと清潔な服が用意されていた。

胸が熱くなった。  

人間らしい扱いなんて、生まれて初めてだ。  

ビクトリア時代のイギリスは、なんてディストピアなんだと改めて思った。

ダイニングに入ると、暖炉の火で部屋が温まり、テーブルにはスープが湯気を立てていた。

それを見た瞬間、張り詰めていた心がプツンと切れた。  

...俺は...  

過酷な世界を当たり前と受け入れてきた。

でも、それは心を押し殺していただけだった。弱さを認めないことで、かろうじて自分を守ってきたのだ。  

オリバーは泣いていた。  

「どうしたんだい、オリバー?」 

ナンシーが近づき、髪を優しく撫でてくれた。  

「泣いてるのかい? 何があったか知らないけど、さあ、食べなさい。」  

「ありがとう、おばあちゃん。」  

言ってしまった。嘘をつくつもりはなかったが、誤解を招く一言だった。  

スープを一口すする。  

「うまい!」  

思わず声が出た。  

「今日はカブがいい出来だったからね。どうだい、いい食感だろ?」  

ナンシーはいたずらっぽく笑い、ちょっと誇らしげだった。

スープは鶏ガラの出汁に、野菜とキノコ、鶏肉がたっぷり入った絶品だった。

前世のレストランでも出せるレベルだ。  

「あんた、このスープ好きだろ。パンも食べな。」  

ナンシーは嬉しそうに笑った。

パンはふっくらしたものではなく、ナンやトルティーヤのような無発酵の食感だったが、これも絶品だった。  

もう止まらなかった。

ひたすら料理と幸福をむさぼった。

久しぶりに感じる「満腹」に、忘れかけていた感覚が蘇った。  

だが、これ以上はダメだ。死んだ少年に申し訳ない。 

「あの、ナンシーさん、話があるんですが。」  

「なんだい、改まって。今日はなんだか変だね。」  

勇気を振り絞り、オリバーは切り出した。  

「俺はオリバー・ツイストです。本当にごめんなさい。あなたのお孫さんのオリバー君とは別人です。道でオリバー君に会い、馬車と荷物をここに届けるよう頼まれました。食べた料理の代金は払います。出て行けと言うなら、すぐに出ていきます。本当にすみませんでした。」  

オリバーは両手をつき、深々と頭を下げた。

ナンシーの顔に深い悲しみと憂いが浮かんだ。  

「オリバーじゃない?」 

不思議そうに首をかしげた。  

「何を言ってるんだい。そんなバカなことを言うんじゃないよ。オリバーじゃないなんて、なんでそんなこと言うんだい?」  

言葉に詰まる。少年の死を伝える勇気が挫け、顔を伏せた。  

ナンシーの震える手がオリバーの頬に触れた。  

「オリバーはどうしたんだい? 死んだのかい?」  

「すみません。本当に残念ですが、助けられませんでした。」  

盗賊に襲われ、太ももに重傷を負っていた少年を見つけた時には手遅れだった。

通りかかった商隊の護衛に助けられたが、護衛の一人が怪我をし、オリバーが馬車を届けることになった――嘘だった。

気が咎めたが、仕方ない。  

少年の遺品と所持金をナンシーに渡す。

彼女はそれを受け取り、オイオイと泣き始めた。  

目の悪い老婆を一人置いて去るのは心苦しかったが、居座るわけにもいかない。  

「これで失礼します。食事のお礼です。」  

盗賊から奪った5ポンドのうち、1ポンドをテーブルに置いた。

大金だが、それに見合うものをもらった。  

コテージを出ようとすると、ナンシーに手を掴まれた。  

「待ちなさい。夜は危ない。今日は泊まっていきな。」  

立ち去りがたい気持ちもあった。

オリバーはその申し出を受け、今夜はここに泊まることにした。  


ナンシーの孫、オリバーの屋根裏部屋に通された。

ナンシーは「ゆっくりしていってくれ」と言い残し、はしごを降りていった。  

粗末だが快適なベッドに、清潔なシーツが敷かれていた。

思わずシーツに顔を寄せ、その柔らかさを味わった。

屋根の傾斜に小さな木枠の窓があり、押し開くと、冬枯れのブナの林を月が滔々と照らしていた。 

大きく息を吸う。

ひときわ大きな古木が風に揺れ、静かにきしむ音が心を癒した。  

静かだった。

こんな安らぎは、いつ以来だろう?  

生まれてからずっと、慢性的な栄養失調、不潔な環境、感染症との戦い。

5歳から危険な工場で使い捨ての労働者として命がけの日々を送った。

機械が故障すれば、体の小さい子供が押し込まれ、部品交換をさせられる。

機械に挟まれて大怪我する子も珍しくなく、死んだ子もいた。  

10歳で年季奉公に出され、無給の労働者として働く。

運が悪ければ、親方に殴り殺されることもあった。

それほど孤児の命は安かった。  

サワベリー葬儀店はまだマシだった。

それでも犬の飯を食わされ、毎日必死に働き、「ごくつぶし」扱いだ。

サワベリーを出てからは、野生動物のようだった。

人間の食べ物とは思えないものを常食し、飢えをしのいだ。  

生きることだけを考え、ゆっくり考える余裕などなかった。

母の死、親友ジョーイとの別れ、様々な記憶が浮かんでは消える。

ここでは、すべてが浄化されるような安らぎがあった。 


いつの間にか眠っていた。

こんな熟睡は久しぶりだった。  

朝、小窓から差し込む光で目が覚めた。

鶏の鳴き声が長閑に響く。

一瞬、どこにいるのか分からず困惑した。  

「オリバー、朝だよ! 今日はキノコを採ってきておくれ。ヒラタケがいい具合に採れそうだからね!」  

階下からナンシーの声が聞こえてきた。  

……どういうことだ?  状況が掴めず困惑が深まる。

だが、この日を境に、オリバーの生活は急激に変わっていくことになる。

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