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第24話 旅立ち

サワベリー葬儀店への注文は急激に減っていた。

一度落ちた信用は、簡単には回復しない。

ウインザー家の葬儀の一件でサワベリーを直接咎める者はいなかったが、不信感を抱く者は多かった。

悪いうわさは、まるでロンドンの霧のように広がる。

金払いの良い上客たちは、次々とサワベリーのもとを去った。  

「親方、この帳簿を見てください。」  

ウインザー家の葬儀以来、オリバーは不思議とサワベリー葬儀店を再建したいと思うようになっていた。

ブラウンロウという老紳士に評価されたことが、初めての温もりのように胸に響いた。

この世界で生まれ、誰かに褒められた記憶はほとんどない。愛された記憶も、母の僅かな温もりを除けば皆無だった。  


きちんとした帳簿がない中、出入金を整理するのは骨が折れたが、コツコツとまとめた。

収支は予想以上に厳しく、改善点は山ほどあった。

だが、やり方次第では赤字に転落した収支をV字回復させ、黒字化できると確信していた。

まずはサワベリーに理解してもらわなければならない。  

オリバーは、紙に転記した複式簿記でつけた帳簿を差し出した。

実際には、ヨーダが表示する仮想パネルに入力するだけなので、前世のExcelを使うような感覚で簡単に分析できる。

それを紙に転記するのは、かなりの手間だった。  

「なんだ、そんなもん役に立つかよ。」  

サワベリーは吐き捨てるように言った。

このところ酒ばかり飲んでいる。

一度は掴みかけた成功が手の隙間からこぼれ落ち、自棄になっているのも無理はない。

だが、ここは経営者として踏ん張ってもらうしかない。  

「いいですか? 国が定めた棺桶の単価はこれです。そして、原材料費はこちらになります。」

オリバーはヨーダの分析データを基に、落ち着いて説明を始めた。

「経費を圧迫している主な要因は、バーミンガム製の鉄の金具とライムウッド材です。金具をやめ、革巻きの木製芯にすれば、コストは半分以下で済みます。さらに、ライムウッド材をパイン材に切り替えれば、大幅なコスト削減になります。」  

「見栄えが落ちるんじゃねぇのか?」  

「いえ、今後ターゲットを庶民葬に絞るなら、棺は黒塗りです。パイン材とライムウッド材では、見た目にほとんど違いはありません。」  

「そんなので、儲けが出るのか?」  

「はい。考えてください。残念なことですが、今のイギリスでは葬儀の需要が拡大しています。葬儀業界には追い風です。その大半が貧民層に集中していることは、親方もご存知でしょう? 時間と手間のかかる特別葬を1件行うより、簡便な低価格のスピード葬を3件こなした方が、売り上げも利益も安定します。」  

「スピード葬だと?」  

「はい。従来3時間かかっていた葬儀を1時間に短縮し、料金を3分の2に抑えます。時間が短ければ、親族や参列者の負担も減ります。潜在的な需要が高いビジネスモデルなんです。」  

オリバーは仮想パネルを指でなぞり、ヨーダのシミュレーション結果を読み上げた。

「ご覧ください。1月の売上予測はこうなります。経費はこちら。黒字が見込めますよね?」  

意外にも、サワベリーの反応は悪くなかった。

オリバーの渾身の事業再建計画には、かなりの自信があった。

もちろん、ヨーダのサポートがあってこそだが、それは内緒だ。  

事業が軌道に乗れば、オリバー、ノア、シャーロットの給金アップも要求するつもりだった。

この時代の年季奉公契約は、実質的に奴隷契約に等しい。

労働者の権利など認められておらず、人材の価値はまるで理解されていない。  

今後のことを考えると、資金が必要だ。

今は給金どころか、犬と同じものを食べて「それが給金だ」とされるのだから、悪い冗談にしか聞こえない。

これでは独立など夢のまた夢だ。

こんな雇用関係はあってはならない。絶対に改善すべきだ。  

ジョーイの「立派な親方になってくれ…」って言葉、絶対に叶える。  

死んだ親友の願いを胸に、オリバーは気合を入れた。  

「ふむ……。」  

サワベリーは唸り、しばらく考え込んだ。

「わかった。考えてみる。だが、簡単には決められねぇ。女房とも相談せんとな。」  

サワベリーは事業再建計画書を受け取り、「用事がある」と言って外出した。

反応は悪くない。

あとは返事を待つばかりだ。

サワベリーが同意すれば、夫人やノアも従うだろう。

これは彼らのためでもある。 

…うまくいくと思ったんだがな…。  

だが、その考えは長く続かなかった。すぐに自分の考えが空気を読めない独りよがりな傲慢だったと痛感した。

計画は破滅的に崩壊していく。  


オリバーが厨房で昼食をとっていると、サワベリー夫人が下りてきた。

「この下らないものを書いたのはあんたかい、オリバー?」  

「はい、そうです。」  

「何をどや顔で偉そうにしてるんだい! 字が書けるってのを自慢したいのか? 葬儀屋の小僧に字なんか必要ないよ。そうだろ、ノア?」  

ノアが厨房の隅から顔を上げた。

その声には、今にも暴発しそうな怒りが込められていた。

「オリバー、それは何だ!」  

「サワベリー葬儀店の再建計画です。」  

「再建計画だと? お前、それで親方に相談したっていうのか?」  

「はい、そうです。」  

「ふざけるな! 調子に乗るんじゃねぇ! お前、なんのつもりだ!」  

「そんなつもりじゃ……!」  

ノアが胸倉を掴み、怒鳴りつける。

「俺への当てつけだな! なぜ俺に相談しなかった! 俺を通せよ!」  

「それは、気が付かなかった……。」  

「気が付かなかっただと? それが俺をなめてる証拠だ! お前、俺が字を読めないのをバカにしてるんだろ!」  

シャーロットが空気を読まず、口を挟む。

「ノアの言う通りだよ! オリバーはあんたをバカにしてるんだ!」  

ノアが暴発した。

「この野郎、なめやがって! 字が書けるのがそんなに偉いのかよ!」  

いきなり拳が飛んできて、オリバーの頬を打つ。

せっかくの昼食がひっくり返り、オリバーは床に倒れた。  

サワベリー夫人が素知らぬ顔で言った。

「あんたが悪いね、オリバー。この計画書、要らないよね。」  

彼女は計画書を暖炉の火に投げ入れた。

炎が紙を飲み込み、灰に変える。  

「なんで……!」  

オリバーは怒りより深い悲しみに襲われた。

何日もかけ、市場を調査し、ヨーダと作り上げた計画だった。

それが一瞬で燃え尽きるのは、あまりにも酷い。  

「なんだ、その目は! 大体、お前は何者なんだ! 貧乏人の孤児のくせに、生意気なことばかりしやがって!」  

ノアが無抵抗なオリバーを殴り続ける。シャーロットも加わり、容赦なく蹴りを入れる。  

「お前のおふくろの話をしてみろよ! 俺は知ってるぞ! お前は父無し子で*売の息子だ! あば*れのどうしようもない女から生まれた化け物だ!」  

「やめてくれ……!」  

恐ろしいほどの悲しみが、オリバーの胸を締め付けた。

母とは一瞬しか一緒にいられなかったが、彼女が命を懸けて愛してくれた実感がある。

そんな人を侮辱するのは、絶対に許せない。  

「かあさんは、そんな人じゃない!」  

「何が違うっていうんだい!? ノアの言う通りだろ! いや、それよりもっと悪い女に違いない!」  

サワベリー夫人が歪んだ笑みを浮かべる。  

「その通りだよ、この化け物!」  

シャーロットが調子づき、オリバーを踏みつける。  

ノアも苛立たしげに蹴りを入れる。

「お前は父親にも母親にも捨てられたんだよ!」  

オリバーの中で何かが切れた。

その言葉に怒りでオリバーの目の前に黒い靄が広がり、視界が揺れる。  

…許さねえ!…

ギロリとノアを睨みつけた瞬間、しまったと思った。

レベル5の「威圧」スキルが勝手に発動してしまった。  

「ひっ!」  

ノアの顔が恐怖に歪む。

シャーロットとサワベリー夫人が悲鳴を上げ、尻もちをついた。  

「オリバーに殺される!」  

夫人が泣き叫ぶ。厨房はパニックに陥った。 


オリバーは3人を残し、棺の倉庫兼寝床に引きこもった。  

【やってしまいましたね。幸い「威圧」のレベルが5だったのが救いです。それでも、彼らはあなたの顔を見るたびに軽いPTSDの症状を引き起こす可能性が高い。ここにはもういられませんよ】

…そうだな。…

ノアの「調子に乗るんじゃねぇ」が胸を抉り、母への侮辱が許せなかった。

だが、何かするつもりはなかった。ただ、二度とあのような言葉を聞きたくなかっただけだ。  


しばらくすると、救貧院で聞き慣れた男の声がドアの外から聞こえてきた。

「オリバー、わたしだ。」  

バンブルだった。  

「私の声が分かるな。大変なことをしてくれたな。サワベリー夫人を殺そうとしたそうじゃないか。警察を呼んだ。覚悟しておけよ。」 

…何を言ってるんだ、こいつ?…

相変わらず高圧的で一方的な主張しかできない男だった。  


サワベリーが店に戻ると、警察がバンブルと話していた。  

「おお、サワベリーさん、良いところへ戻ってきた。」  

「何かあったんですか?」  

「何かあったじゃない! オリバーがあんたのご夫人を殺そうとしたんだ!」

「なんですって? それで女房は?」  

「幸い無事じゃ。」  

若い警察官が困惑した表情で夫人に尋ねる。

「それで、どのように殺されそうになったのですか? 包丁や金づちで殴りかかられたのですか?」  

「いえ、殴ったのはノアのほうで。ええ、当然です。生意気な口をきいたんですから。」  

「ですが、殺されそうになったなら、何かされたのではありませんか?」 

「もちろんですよ。」  

「ご夫人、具体的に何をされたか話していただけますか?」  

「オリバーが新米の分際で、うちの亭主に何か吹き込んだんです。帳簿とかいうものを作って、そそのかそうとした。それを燃やしてやりました。」  

「ほぉ、それで殺されそうになった? どんなふうに?」  

「怖い顔で睨まれました。」  

「それで、暴力を振るわれたのですか? 殴られたとか? 見たところ怪我はないようですが。」  

「いえ、殴ったのはノアとシャーロットです。貧乏人のあばずれの息子ですから。それくらいはやらないと示しがつきません。」  

「では、暴力は振るわれていないと?」  

「それはそうですが、殺されそうになったのは確かです!」 

警察官は呆れたように肩をすくめ、バンブルに言った。

「どうもご夫人は少しパニックになっていますな。これは警察の管轄ではありません。教区で処理していただけますか?」  

バンブルは力なく首を振る。

「訳が分からん。サワベリーさん、あんたには分かるか?」  

「さあ、俺も今帰ってきたばかりで。バンブルさん、すまんが今日のところは帰ってもらえるか?」  

「なんじゃと? だが、オリバーには罰を与えんとな。」  

バンブルが杖を振り回し、唸る。

「オリバーを牢にぶち込むぞ!」  

「それは俺のほうでやっておく。バンブルさんの手を煩わせるまでもない。」

バンブルは「また来る」と言い残して帰っていった。  


「オリバー、いるか? 入るぞ。」  

サワベリーが棺の倉庫に入り、空の棺桶に腰を下ろした。  

「何があった?」  

「おかみさんが俺の作った事業計画が気に食わなかったようで、燃やしてしまいました。ただそれだけです。」  

「お前に殺されそうになったと言ってるが。」  

「そんなことはしていません。」  

サワベリーはしばらくオリバーの顔を見つめ、やがて口を開いた。

「そうか、ならいい。だが、お前はもうここを出ていけ。俺の手には負えん。」 

…ついに来たか。…

いずれこうなると思っていた。

サワベリーもそう思っていたに違いない。  

「わかりました。俺もここにはいられないと思っていました。」  

「救貧院に戻りたいなら、バンブルに話してやる。」  

「すみません、救貧院には戻りません。」  

「行く当てはあるのか?」  

「何とかなると思っています。」  

「世の中、そんなに甘くねぇぞ。」  

「わかっているつもりです。」


長い沈黙の後、サワベリーが深々と頭を下げた。

「オリバー、ウインザー家のことで、本当にすまなかった。だが、厳しい世の中だ。生きていくには何でもせにゃならん。あのじいさんの言う通り、あれは大人のすることじゃなかった。」

サワベリーは言葉を切る。

「だけどよ。……お前の計画、俺はいいと思った。」 

…えっ!?… 

オリバーは突然のその言葉に驚き狼狽する。

「お、親方……。でも、俺は...」  

「大丈夫だ。お前がいなくなっても、俺は地道にやってみる。お前はお前で頑張れ。」  

親方のその言葉が嬉しかった。この葬儀店での生活が、すべて無駄ではなかった。そんな気がした。   


その夜、オリバーは一晩かけて事業再建計画と人事計画書を書き直し、サワベリーの部屋の前に手紙と共に置いた。

無駄かもしれないが、これがオリバーのケジメだった。  


翌朝早く、寒い朝だった。白い息を吐きながら、オリバーはサワベリー葬儀店を出発した。 

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