第2話 誕生
真っ暗だった。
心地よい闇の中に、オレは浮かんでいた。
温かく、やさしい。まるで温泉につかって、ちょっと酔っぱらったときのような――そんな恍惚とした感覚。
「極楽、極楽……」
思わず、そうつぶやきたくなるほどの安心感に包まれていた。
だが、その“極楽”は突然、恐ろしいほどの圧迫感と共に崩れ去る。
頭が締め上げられるように痛み、息が詰まりそうになる。
手足を動かそうとしても、まるで動かない。
全身が何かに押し潰されていくような、抗えない力に襲われた。
しかも、訳がわからない。
目は見えない、耳も聞こえない、ただ全身がきしむような苦痛に襲われる。
「な、なんだこれ……!」
パニックになりかけたその瞬間――
苦しみは、あっけないほど唐突に終わった。
周囲が、急に明るくなった。
何か巨大な手に抱き上げられた感覚。
気づけば、誰かの腕の中にいた。
「Let me see the child, and die.」
心に直接響くような、優しく、どこか切ない女の声だった。
うっすらと目を開けると、そこには…とても美しい女性がいた。
女優のソフィー・マルソーの若い頃によく似ているが、病的な青白い顔をしていた。
彼女は微笑んでいた。いや、微笑もうとしていた。
「Oh, you must not talk about dying yet.」
今度は男の声。
彼女の傍らにいた誰かが、そう言った。
その女性は涙を一筋だけ流し、オレの頬をそっと撫でた。
その手のぬくもりに、なぜか胸が締めつけられるような悲しさが込み上げてきた。
それはこれまで感じたことのない――言葉では言い表せない、愛しさと喪失の予感だった。
激しい喪失感に襲われて息が詰まった。
そして次の瞬間、オレは堰を切ったように大声で泣いた。
言葉の意味は分からない。英語だったはずだ。
でも、なぜかはっきりと理解できた。
ああ、オレはいま、何か大切なものを、失おうとしているんだ。
そしてその瞬間――
【言語最適化を開始します。対象言語:ビクトリア時代英語。最適化完了しました】
まるで脳に直接響くナレーションのような音声が流れた。
…誰だ!…
直後、中年の女の声が耳に届く。
「そうさ! まだ死ぬなんて言っちゃいけないよ!あたしなんて、子供を13人も産んでさ――残ったのは2人だけさ。母親になるってのはね、それがどういうことか、あんたも考えてごらんよ。……かわいい子がいるんだよ。」
…なぜだ。…
英語のはずなのに、オレには意味が分かってしまう。
翻訳でも機械音声でもない、直感的な理解があった。
女はオレを見下ろして微笑み、再び頬を撫でる。
「ごめんね……あなたに、なにもしてあげられない……ごめん……!」
そう言って、女はその白く冷たい唇で、オレの額にそっとキスをした。
そして、彼女の呼吸が止まった。
…えっ!死んだのか?…
強い衝撃に胸が締めつけらる思いがした。
周囲では、誰かが慰めの言葉を呟いていた。
「もし子供が泣いたら、遠慮なく私のところに来てください、看護師さん」
と医者らしき男は、慎重に手袋をはめながら言った。
「きっと面倒なことになるでしょう。もしそうなら、少しお粥をあげてください。」
帽子をかぶり、ドアに向かう途中、ベッドサイドで立ち止まり、付け加えた。
「彼女はとても美人だったね。どこから来たんだね?」
「昨晩ここに連れてこられました」
と老婦人は答えた。
「監督官の命令で。路上で倒れているのが発見されました。靴がすり減っていたので、かなりの距離を歩いてきたようですが、どこから来たのか、どこへ向かったのか、誰も知りません」
中年の男女――その者たちは、形式的な優しさで場を整えようとしていた。
だが、オレの心には、ただ虚しさだけが残った。
それに、彼らが何の延命措置も取ろうとしなかったことに、言いようのない怒りが湧き上がる。
…なんだよ……もっと早く、誰か、なんかできただろ!…
彼女の正体はわからない。
けれど、彼女はオレにとって、何者にも代えがたい存在だった──そんな直感があった。
同時に、冷酷な理性がそれを否定する。
「会ったばかりじゃないか!生まれたばかりじゃないか」
はたとオレは気がついた。オレはたった今誕生したのか?
そして、オレを生んでくれた母親が死んだ?
…バカな!…
だが、そういった言葉で片づけられる感情ではなかった。
胸の奥に、理解不能なまでの悲しみが渦巻いていた。
少し冷静になると、この異常な状況は「夢」として説明できる気もした。
……が、次の瞬間、頭の中に声が響いた。
【状況説明が必要でしょうか?】
ぞわりと背筋が冷える。
だが、不思議なことに違和感はなかった。
この音色──オレはそれを知っている。
最近もよく耳にしていた、音声チャットボットのAIヘルパーと酷似していたからだ。
≪簡易プロファイル構築を開始します≫
●時代:ビクトリア朝中期(西暦1830〜1850年想定)
●場所:ロンドン近郊、治外法権に近い私設救貧院
●立場:非嫡出子。父親:記録上「不明」。母親:通称「アグネス・フレミング」。登録記録:なし。
●死亡者:アグネス・フレミング(推定16〜18歳)、死因:分娩後の大量出血および栄養失調による衰弱
●周囲の対応:産婆・医師の立ち会いなし。衛生知識ゼロの部外者による立会い
●生存率:この状況下での生後24時間以内の乳児生存確率 → 5.7%(前回統計値:1842年)
●現在の生存要因:医療的介入がなかったこと(感染源不在、暴力的処置の回避)
●推測される今後の待遇:「社会的負債」として登録済。慈善記録の帳尻合わせにより当面は「生存継続」が選択されます。
…ちょっと待て、その生存率ってなんだよ?…
【良い質問です。あなたの現在の免疫状態、環境汚染、周囲の感染源、および給食頻度の不確定性を考慮した結果、1週間以内の死亡確率は94.1%と算定されました】
【以降、死亡率は年単位で漸減し、生存率が50%を超えるのは推定60ヶ月後(≒5歳時点)と見積もられます】
…で?医療的介入がなかったことが、生存要因ってどういうことよ?普通、医者とか産婆とかいないと死ぬんじゃねぇの?…
【よくある誤解です。実際には「医療的介入」が当時の最も致命的なリスクファクターの一つでした】
【助産師は衛生教育を受けておらず、出産の前後で同一の布巾と器具を複数の患者に使い回すのが通例です】
【その結果、新生児は極めて高確率で壊死性腸炎、破傷風、梅毒、敗血症などの感染症に曝されました】
【なお、医師の関与があった場合、死亡率は統計的に上昇する傾向が確認されています】
…つまり、放っとかれた方が助かるってことか?…
【はい。実際、手を出さなかったことこそが、唯一の“近代的”な医療処置だったと評価されます】
【あなたが生きているのは、「医療がなかった」という幸運と、たまたま酔っ払っていた看護係が“うっかり”何もせずにいたという偶発的奇跡の積み重ねです】
…なんで……嘘だろ?…
【お気持ちは理解できますが、これが現実です】
【さらに付言すれば、あなたの生存は「人道主義の勝利」ではなく、教区議会の帳簿上、支出項目の名目を成立させるためのものです】
【つまり、あなたは「生かされている」のではなく、「予算処理上、生かすしかなかった」だけです】
【今後あなたに割り当てられる食料と寝床は、慈善記録における実績数値として計上されますが、労働力として回収されない場合、計画的廃棄(自然死の容認)が検討される可能性が高いことを申し添えます】
「……」
本来ならば手当を受けるべきところを、放置されたことが幸運だったという逆説。
まるでブラックジョークだ。
●出生に関する補足:
母親アグネス・フレミングは、数カ月前に地方から流れてきた貧困層の少女。
父親は特定不可能……だが、遺伝的照合により、英国上流階級の血統との一致率:82.3%
記録上、某有力伯爵家の長男が当時該当地域に滞在。
…は?…
こっちの世界、情報管理どころか、下手すりゃ戸籍もねぇじゃねぇか。
それを、この謎AIアシスタントもどきはなに食わぬ顔で分析してくる。
これはやはり……ただの夢ではない。
…じゃあ、オレは一体…
【あなたは、推定値99%で "オリバー・ツイスト"と名付けられ、この世界で一生を送るように設定されています。】
…オリバーって、あのディケンズの…
【はい、その通りですが、これは単なる再現ではなく、今後の人生はあなたの選択と環境との相互作用により適宜確定します。5次元管理官による認識シフトの実行理由は不明です。プロジェクト名は名作トリッパーと命名されました。】
…言ってることがよく分かんねぇのだが。…
【表現方法をあなたの水準レベルに調整します。】
【あなたは異世界転生をしたと言えます。従って、ここはあなたの世界の過去に存在するイギリスのパラレルワールドであると言えます。】
…で、なんでオレは生まれたばかりの赤ん坊でオリバー・ツイストなんだよ?…
【もっともあなたが理解可能な概念では一種の社会実験とです。その実験素材としてあなたの存在が必要であると言えば理解していただけますか?】
…いや!もっと分かんなくなった。そもそも、名作トリッパー?あの女子中学生は何者だったんだ?…
…それよりオレの土日の休暇はどうなるんだよ?…
…てかオレ死ぬの?…
【詳しい解説は追って提示します。ですが、ディケンズ氏の表現を引用すれば、教区の子、救貧院の孤児、貧しく飢えに苦しむ労働者、そして手錠をかけられ、叩きつけられながらこの世をさまよう者、誰からも軽蔑され、誰からも同情されない者、それがあなたです。そして、救貧員とはあなたを助けるものではなく弾圧するものであることを肝に銘じてください。まずは……生き延びてください】
…うそだろ!…
オレは自分の運命が残忍な教会の守護者や監督官たちの慈悲に委ねられていると知って大声で泣いた。
そして、このポンコツAIヘルパーもどきが言っていることが、現実であることをオレは直ぐに思い知らされることとなる。
そうだった。