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第168話 疑惑

ファイギンのもとに、大きな依頼が舞い込んだ。

もし受ければ、数年間はイギリスを離れることになる。

「それも、悪くはないか……だが、ガキどもはどうする?」

ファイギンは孤児を集め続けていた。

スリをさせ、生き残った者だけを選別する。

そして、生き残った者は暗殺者になる。

今でも三十人近い孤児が、彼のもとにいた。

行き先はビルマ。

人数は最低でも二十名。

つまり、鍛え上げた暗殺者のほぼ全員だ。

試しにサイラスへ話を振ると、案の定、彼は顔を曇らせた。

だが条件を聞いた途端、その表情は一変する。

報酬はイギリス国内の指定場所へ定期的に振り込まれる。

さらに現地での手当も、破格と言っていい額が約束されていた。

どんな事情があるのか、詮索する気はなかった。

だが、サイラスはこの話に飛びついた。

うまい話には裏がある。

それを承知の上で黙る程度には、彼もこの稼業に慣れている。

暗殺者が死と隣り合わせなのは、どこへ行っても変わらない。

ほぼ全員が同意する中で、一人だけ頑強に拒んだ者がいた。

ピエロだった。

この女だけはおいていけない事情がある。

だが、どうする。

無理に連行し、争いになった瞬間……

例の変容が起きたらどうなる。

ファイギンはすでに気付いていた。

ピエロは、自分の身が脅かされたとき、別人格へと変わる。

もしそれが暴走すれば、自分たちは皆殺しになる。

「ちぃ……この話、断るか……」

そう思いかけたが、依頼主はレディ・モントローズだ。

しかも、海軍一の実力者と名高いレイヴス提督が絡んでいるのは、ほぼ確実だった。


大英帝国は、いまだビルマのコンバウン朝を完全には支配できていない。

その支配は、南部に留まっていた。

第二次英緬戦争後、王位を継いだミンドン王は英邁な統治者であり、

ビルマは復興の途上にあった。

つい先日、レイヴス提督自身がビルマへ向けて出港したという報も入っている。

ファイギンは回答を保留したまま、年を越した。


ロンドン・タイムス社会部に所属するジェームズが書いた小さな記事は、

やがて大きな波紋となって世間へ広がっていった。

“入れ替わった悪魔”と呼ばれ、嫌悪されていた人物……オリバー・ツイスト。

だが一方で、ウィットフィールド村やハムステッド村での功績、さらに彼が築いた運営モデルが、周辺の村々へ静かに伝播し始めていた。

加えて、コレラ発生ゼロを達成した実用マニュアル。

その製作者として、はっきりとオリバーの名が記されていた。

相反する二つの世論は拮抗しながら、次第に大きく膨らんでいく。

そこへ、新たな噂が加わった。

女王が刑の執行判断をためらっている……というものだ。

事実、刑は執行されていなかった。

噂は噂を呼び、街角や酒場で囁かれるようになる。


やがて、ロンドン・タイムスが決定的な記事を掲載した。

事件を取り巻く状況証拠と関係者の証言が、淡々と並べられていた。

人々の目を引いたのは、

証言者の中にオリバーの犯行を明確に肯定する者が、一人もいないという点だった。

むしろ、強く否定する証言すら含まれている。

記事は、こう締めくくられていた。

『仮にこれが冤罪であったなら、英国は将来、国の至宝となるべき若者を一人失うことになるのかもしれない……』


クリミア戦争で名を馳せたナイチンゲールの門下生、キャンディスとアニー。

二人の看護師によるコレラ対策での活躍も、新聞に取り上げられた。

その記事の中で、キャンディスはこう語っていた。

『このコレラ対策マニュアルのお陰です。それを書いた人物が、重大な罪を犯したとされていることは承知しています。それでも……残念です、とだけは言わせてください』


エリザベス・チャドウィック氏を発起人とする再審嘆願の署名は、

静かに、だが確実に数を増やしていった。

スコットランドヤードは沈黙を守り、

刑の執行は女王のもと、異例の長期間にわたって保留された。

その沈黙が、さらなる憶測を生む。

「こりゃ、もしかすると本当に冤罪だったんじゃねぇか?」

「ヤードの勇み足ってやつか?」

「聞いたぞ。証言ってのは、ナイフを引き抜いたところを見ただけらしい」

「つまり、誰も刺した瞬間は見てねぇってことだ」

酒場では、そんな会話が飛び交っていた。

同じ光景が、ロンドン各所で見られるようになる。

この事件は、街の話題を独占していた。


スコットランドヤードのコミッショナーは、内務省へ召喚された。

事件担当のジャバートも同行する。

有罪を裏付けるとされる状況証拠が説明された。

三名の捜査官と一人の民間人が、オリバーがナイチンゲールからナイフを引き抜く場面を目撃したこと。

また、ナンシーの孫を殺害し、埋めた件については、ダンカンの証言を得ていること。

ナンシー死亡時、現場にはオリバーとエンマ・ケインズという少女が気絶した状態で倒れており、その近くには首を失った、ミイラ化した何者かの遺骸があった。

「それで、そのダンカン氏はどうなったのだ?」

「同じくハムステッド村で、何者かに殺害され発見されました」

「君らは、それにもオリバーが関与していると?」

「……推測の域を出ません」

「では、孫の殺害について、物証はないということか?」

「証言はあります」

「だが、その証言者は死亡している。物証はなく、裏付けもない……それで間違いありませんな?」


数日後、内務省から異例の発表がなされた。

『本件は内務省預かりとする。これ以上のコメントは差し控える』

刑は執行されるのか、という問いに対して、報道機関が得た答えは「否」だった。

理由は、法的措置が未確定であること。


世論における政権と王室への評価は、大きく上昇した。

「内務省の判断は、法の威厳と人道的配慮の微妙な均衡を示すものだろう」

そう報じられ、王室の慈悲は称えられた。

やがて、この件は急速に人々の記憶から薄れていく。

その裏で、何が行われたのか……

それを知る者は、ほとんどいなかった。

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