第167話 小さな奇跡
イブの夜。
(少し酔ったようだ)
祝いの夜であった。
女房は腕を振るい、食卓を見事に飾ってくれた。
「少し酔いを醒ましてくる」
トムはそう告げて、外へ出た。
既に日は変わり、夜は朝へと向かい始めている。
雪の降る中、あてもなく歩く。
雪の夜も、悪くない。
そんなふうに思えた。
オリバーと約束した通り、村を守っていく。
その覚悟はできたはずだった。
だが時折、胸の奥に刺さった棘が、チクリと心を痛める。
死んだナンシー。
そして、罪なく囚われたオリバー。
(なぜだ!)
空を見上げ、叫びたい衝動に駆られる。
トムの人生の中で、この二人ほど信頼に値する人間はいなかった。
あんな不幸が起こっていいはずがない。
オリバーは、村の誰かと結ばれ、家族を作ることだけを切望していた。
それはきっと、ナンシーをも幸福にしたはずだった。
だが、すべては儚い雪のように溶け、消えた。
衝動に駆られ、雪をかき分けてナンシーのコテージへ向かう。
(幻覚か?)
目を疑った。
窓にはぬくもりある灯り。
煙突からは、かすかに煙が上がっている。
まるで、ナンシーとオリバーが暮らしていた、あの頃のままのようだった。
微かに歌声が聞こえてくる。
美しい讃美歌だった。
歌は『O Holy Night』。
今では誰もが知る讃美歌である。
――長い間、世界は罪と誤りに苦しみ、
ついに主が現れ、魂は自らの価値を知った。
その歌声は、深く心に染み入った。
あの日、農地を失い、罪に身を染め、絶望に囚われていたトムの前に、オリバーが現れた。
歌声は、なおも続く。
――まことに主は、互いに愛し合うことを我らに教えられた。
主の律法は愛であり、主の福音は平和である。
(この俺が……)
あれほど荒み、罪深い魂となったこの俺が、
今、愛する女と共に生きている。
これが、主の律法なのか……それとも、奇跡
――鎖を断ち切りたまえ。
奴隷は我らの兄弟なり。
御名のゆえに、あらゆる抑圧は止み去らん。
だが……何もかもが変わった。
(俺は決して切れることがないと信じていた苦しみの鎖を断ち切った)
オリバーは……。
(馬鹿な……)
だが、はるか昔のこの日……この世に救世主が現れた。
その教えは、今も広がり、人々に愛を伝えている。
それを、奇跡と呼ぶのだろうか。
トムは恐る恐る、コテージへ近づいた。
「なっ……!」
中を覗いた瞬間、思わず後ずさり、尻もちをつく。
オリバーが、楽しそうに笑っていた。
その隣で、愛らしい少女が微笑みながら讃美歌を歌っている。
(ま、幻を見ているのか?)
這うように近づき、窓枠に縋りつく。
何度も目を擦るが、間違いない。
オリバーだった。
(釈放されたのか?)
いや、そんなはずはない。
もしそうなら、村中が大騒ぎになっている。
「一体……何が起こっている?」
小さく呟き、耳を澄ます。
歌が終わり、二人は互いを愛おしそうに見つめ合った。
交わされる言葉の一つ一つ……。
(なんなのだ……)
不思議な言葉だった。
理解はできない。
だが、それらは確かに、愛に満ちていた。
二人は互いを求め合っている。
トムは直感的に、それを悟った。
神聖な気持ちが胸を満たす。
心がぬくもり、胸に刺さっていた氷柱が溶けていく。
「神よ……感謝します」
それはつまり、オリバーは望みを叶えたのだろうか。
愛する者と結ばれ、この場所で暮らす。
息が詰まりそうになる。
(まさか……!)
部屋中を見回す。
淡い望みを託し、ナンシーの姿を探す。
だが、その姿は、どこにもなかった。
やがて二人は、暖炉の前に並び、何事か語り始める。
トムは再び耳を澄ました。
不意に、心の中にナンシーの姿が浮かぶ。
「トム……二人を祝福してやっておくれ……」
(ナンシー……あんたは?)
「私は、最後まで幸せだったよ。ありがとう、トム……」
その姿は、静かに消えた。
涙が止まらなかった。
人の魂は、永遠なのかもしれない。
そして、ナンシーの愛は消えてないなかった。
今、初めてそれを悟った。
オリバーを祝福しよう……そう思いかけて、思いとどまる。
二人の幸福を、邪魔したくなかった。
雪の中、トムはひたすら待った。
二人は暖炉の前で、寄り添うように眠っていた。
夜が白み始める頃、厚手のオーバーコートを纏い、二人が外へ出てくる。
扉が開いた。
オリバーが驚いた顔でトムを見る。
「と、トムなのか?」
「ああ……俺だ、オリバー……」
オリバーが言葉を発する前に、トムは跪いた。
「私は、あなたが進もうとした道を、この村で、命を賭けて守ります。この先、命が尽きるまで……」
首を垂ち、言葉を待つ。
「トム、立ってくれ」
オリバーはそう言い、トムを立たせた。
「ありがとう……感謝する」
トムの肩を、ぽんと叩く。
儀式は、終わった。
「オリバー……おまえ、一体……」
「聞かないでくれ。それより、お前、大丈夫か? 寒かっただろ。どうして中へ来なかった?」
「いや……おまえ、その娘と……」
「いや、それ言うかよ」
オリバーが顔を赤らめると、ルナがくすりと笑う。
「オリバー、お前、幸せなのか?って訊くのも変なんだが」
「ああ、見ての通りだ」
「そうか……」
言葉を終える前に、トムは涙ぐむ。
「さぁ、もう家に帰れ。かみさん、もうすぐ出産なんだろ」
「お前たちは、どうする?」
「俺たちはロンドンへ帰る。朝までには着かないとな」
「まさか……歩いていくつもりなのか?」
「いや、走る」
そう言って笑うと、仏頂面に戻ったトムが叫ぶ。
「ダメだ!」
「なにがだよ?」
トムは相変わらず、言葉が足りない。
そのやり取りが、今では懐かしい。
「馬車を用意する。それに乗っていけ」
「それはダメだ。馬も馬車も返せないだろ」
「いいから、乗っていけ!」
譲らぬトムに根負けし、二人は馬車を借りてロンドンへ向かった。
振り返ると、トムはいつまでも、雪の中で手を振っていた。




