第161話 予感
獄中の生活は、オリバーにとってそれほど苦痛ではなかった。
寒さも熱さも、固いベッドも、『限界生存』スキルの効果でまったく苦にならない。
オリバーにとって快適の最低条件は、極端なほど低かった。
手足を伸ばせるベッドが一つあれば、それだけで十分だった。
しかも個室である。
騒音もなく、他人に気を遣う必要もない。
『救貧院』の雑魚寝に比べれば、はるかに快適な環境だった。
ロンドン市内の散歩と食べ歩きは、いつしか日課となっていた。
見方を変えれば、観光客のようなものだ。
十九世紀のイギリスを、気ままに観光しているような感覚すらある。
潤沢な資金もあった。
以前、ダンカンの秘書アンセルから奪った五百ポンドを、惜しみなく使った。
うまい酒を飲み、有名なレストランに通い、劇場で演劇を観る。
オペラにも足を運び、会員制クラブでは裕福な貴族の若様として扱われた。
ホステスたちにも、自然と可愛がられる。
何かをしていれば、ナンシーの死を忘れることができた。
時間の経過が、少しずつ、しかし確実に心の傷を薄めていく。
「もう……遊びには飽きたな……」
一度そう感じてしまうと、虚しさだけが胸に残った。
その夜、オリバーは人気の少ない公園を歩いていた。
夜露に濡れた芝生が月光を反射し、白銀のように輝いている。
湖は風もなく、鏡のように月を映し出していた。
遠くで木々がざわめき、街の喧騒は嘘のように消えている。
そして、オリバーの心は突然......
なにかの予感にときめいた。
その静寂の中、風に乗って、かすかな歌声が届いた。
…….すぐに分かった。
あの夢の中で聴いた、あの少女の声だ。
オリバーは、吸い寄せられるように歩き出した。
懐かしく、愛おしい。
理由は分からない。ただ、心がそう感じていた。
気まぐれに歩いていただけだった。
だが、広大な潜在意識の世界では、そうではなかったのかもしれない。
表層の意識では偶然でも、出会いそのものは必然だった……
そんな予感だけが、確かな感触として残っていた。
オリバーは、壊れやすい何かに触れるように、そっと声をかけた。
「また、会ったね」
歌声が止まり、少女が振り向く。
「やっと来た……」
親しみを込めた笑顔だった。
「探していたわけじゃない。偶然だ」
「あんた、日本から来たっちゃろ?」
「いや、俺はイギリスで生まれた」
「なんで、そげんな嘘ばつくと?」
「嘘じゃない。本当にロンドンで生まれたんだ」
「でも、日本語ば話しとる……懐かしか」
オリバーは、はっとした。
いつの間にか、日本語で話していた。
しかも少女の言葉は、はっきりとした九州弁だった。
「おまえ……九州の出身なのか?」
「うん。私は長崎。あんたは?」
「俺は山口だ。いや、だから……」
「山口!それはどこね?聞いたことなかね」
「ああ、そうか……つまり、周防のことだよ」
「周防ね。そしたら近かね。でも、やっぱり嘘つきやった」
そう言って、少女はクスリと笑う。
「でも、おまえは日本人には見えないぞ」
「ああ。母ちゃんは出島の花魁や。父ちゃんはオランダ人やけん。あんたもそうやろ?」
「俺の母親はイギリス人だった。だけど、父親が誰かは知らん」
「そう……辛かったね」
父親のいない子の境遇を、身をもって知っているのだろう。
少女の顔は、心底悲しそうに曇った。
その表情に、オリバーは全身が痺れるような感覚を覚えた。
前世では山口で生まれ、九州で育った。
ここで、この九州弁は反則クラスに心に響く。
それにこの少女は、間違いなく善良な人物だ。
暗殺者という現在の職業とは、似ても似つかない。
胸がときめいた。
どうしようもなく荒れ狂う感情を、『平静』スキルを使って強引に沈める。
すると、ふと思いついた。
「なあ……餅、食いたくないか?」
「えっ!? 餅って、お餅のことね?」
「ああ、餅だ」
「食べたい! 絶対食べたい!」
その反応に、オリバーは小躍りしたい気分になった。
「そうか。じゃあ、今度会うときに食わせてやる。きな粉もあるぞ。砂糖もだ」
米は手に入らないわけではない。
オーツ麦で、ほぼ米餅に近い食感を再現できることは実証済みだった。
きな粉も、大豆と道具があれば簡単に作れる。
砂糖も……金さえ出せば、どうにでもなる。
「嘘やろ! 嘘やったら許さんからね。絶対やけん。約束や」
「ああ。絶対だ。だから……また会おう」
次の約束が自然にできたことに、オリバーの胸は明るい喜びで満たされた。
「私はルナ。あんたは?」
「俺はオリバーだ」
「またね、オリバー……」
夜も更けていたため、途中まで彼女を送り、そこで別れた。
だが、また会える。
去っていく少女の背中を、しばらく見送る。
数時間前の自分と、今の自分……
別人のような心の変化を、オリバーはまだ理解できずにいた。




