表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/118

第15話 エバンス商会

灰色の石畳にそびえる煉瓦造りの屋敷。

“エバンズ商会”と刻まれた真鍮の表札は、ロンドンの濃霧すら弾き返すような重厚感を漂わせていた。

ノアは緊張の面持ちで中へ通された。

サイラスは何の挨拶もなく応接間の扉を開けた。

椅子にふんぞり返っていた小太りの男が顔をしかめる。

「……なんの用だ」

エバンズと呼ばれた男は、ぶっきらぼうに言い放った。

だが、サイラスが一歩脇に退いてノアを前へ押し出すと、その表情が一変した。

「サワベリーのところの小僧だ。聞きたいことがあるんじゃなかったのか?」

「ほう……」

エバンズの目が細まり、口元がにやりと歪む。

「ふむぅ、君は腕の良い棺桶職人と聞いておるよ」

「え、あ、その……」

ノアは場違いな空気に飲まれそうになりながらも、かろうじて声を絞り出した。

「まあ、いい。率直に言おう。——サワベリー君のところは、いかんねぇ」

「その……」

「ふむ、給金はもらっておるのかね?」

「いえ……給金なんて……その……」

「なんと! 無給とは、驚いたね。

それは立派な搾取だ。労働には正当な対価が支払われるべきだよ、まったく」

エバンズは芝居がかった調子で首を振って見せる。

「どうかね、ノア君。我がエバンズ商会で働いてみる気はないか?」

「……えっ?」

ノアは耳を疑った。

エバンズ商会といえば、サワベリーのような町の小商いとは比べものにならない、王侯貴族を顧客に持つ一流の商会である。

そこで働くなど、夢のまた夢——いや、夢にすら見たこともなかった世界だった。

「もちろん、いきなりとは言わん。だがね、我々も有能な若者を探しておるのだよ」

エバンズの声は甘く、まるで蜂蜜を溶かした紅茶のように耳に染みた。

「だが、一つだけ——頼みがある。その話を、聞いてみる気はあるかな?」

ノアが戸惑いがちに頷こうとしたその瞬間、背後から冷たい声が落ちた。

「言っておくが、話を聞いた以上、後戻りはできない」

それはサイラスの声だった。低く、重く、背筋に鋭い刃を立てるような声音。

「まあまあ、サイラス君。君のような怖い声を出されたんじゃ、彼も怖がって返事ができんじゃないか」

サイラスはそっぽを向き、肩をすくめて黙り込む。

「なにをすれば……」

「ほぉ! 興味があるのかい? 若者はそうでなくてはいかん」

エバンズは朗らかに笑いながら、ノアの顔を覗き込んだ。

「では、聞こう。サワベリー君のところで、最近分不相応な注文を受けていると聞くが、そんなことが本当にあるのかな?」

「えっと、分不相応と言いますと?」

「例えば、貴族様のご葬儀などがそれではないかな?」

ノアは一瞬、口を噤んだが、エバンズの目が彼を逃がさなかった。

「あ……」

「なにかあるのかな?」

「はい。急な話なんですが、明日、ウインザー様のところへ棺を届けるように言われました」

エバンズの顔が動いた。

「ウインザー? ハイド・パーク近くにある由緒ある旧家、あのウインザー家のことか?」

「……たぶん、そうです」

「注文の内容は?」

「子供用の棺です。白い上塗りのペンキで仕上げた、上物を……」

「……なるほど」

エバンズの目が細まり、夜目の獣のように鋭さを増した。

「届けるのは、いつだ?」

「明日の早朝だと……聞いてます」

しばしの沈黙。

空気が変わる。何かが、決まった。

「——サイラス」

「……ああ、小僧、一緒に来てもらおう」

有無を言わせぬ口調に、ノアは思わずコクリと頷いた。

彼は窓のない小部屋へと連れて行かれた。

そこには、若い女が一人座っていた。

「ルナ、すまないが席を外してもらえるか?」

サイラスがいささか遠慮がちに言った。

ノアは、その声に不自然な緊張を感じた。

若く、美しい女だった。

だが、次の瞬間——ノアの背筋が凍りつく。

女がサイラスをぎょろりと見据えた瞬間、ノアは心臓を鷲掴みにされたような恐怖を覚えた。

それは、底なしの沼に引きずり込まれるような絶望。闇そのものが笑っているかのようだった。

サイラスの頬が引きつり、緊張が走る。

しかし次の瞬間、空気が変わった。

女はにっこりと笑った。

「なに〜、サイラス、怖い顔して。どうかした?」

……えっ?

ノアは声を上げそうになったが、慌ててそれを飲み込んだ。

先ほどの恐るべき威圧感を放っていた女とは、まるで別人だった。

「いや、その、すまないが……こいつとちょっと話がある。内密の任務だ」

「そう、じゃあ、仕方がないね。よっこらしょっと……」

女は朗らかに笑い、部屋を出ていった。

……ふぅ……

サイラスが大きく息を吐いた。

額にはうっすらと汗がにじんでいた。

「怖がるな。いいか、言うとおりにすれば何も恐れることはない。

だが裏切ったらどうなるか分かっているな? 腕の一本で済むとは思うな。これは、そういう仕事だ」

ノアは答えに窮した。

できることならすぐにでも逃げ出したかった。

だが逃げれば、サイラスに地の果てまで追われる——そんな確信めいた恐怖があった。

「……なにをすればいいんですか?」

「ふふ、覚悟は決まったようだな。簡単な仕事だ。

おまえはこのままサワベリーのところへ戻って、いつものように棺を作れ。

そして予定どおり配達に出かけろ。——だが、配達先はオレたちが指示する」

「えっ! 棺を盗むんですか?」

「余計なことを考えるな。おまえに必要なのは、“言われたことを実行する”それだけだ。いいか、それだけは忘れるなよ」

「は、はい……」

ノアは馬車に乗せられ、サワベリー葬儀店の近くで降ろされた。

道中、御者の老人に何度か話しかけてみたが、ついに返事は返ってこなかった。

——棺を作る。

——明朝、ウインザー家へ届けに行く。

途中でサイラスたちが現れ、指示を受ける。

……それだけ。

だが、ノアはここである重大なことを思い出す。

彼は、オリバーを金槌で殴って飛び出してきたのだった。

帰っても、ただでは済まない。

だが、ここで逃げれば——あの恐ろしいサイラスに、地獄の底まで追われるかもしれない。

……なんで、こんなことになったんだ……

ノアは泣き出しそうになった。


葬儀屋の作業場は、通りに面した部屋にある。

窓越しに、そっと中を覗くと、思いがけない光景が目に入った。

サワベリーとオリバーが、肩を並べて棺を作っていた。

……どういうことだ?……

オリバーを遠目に見る限りでは怪我の痕跡は認められなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ