第15話 エバンス商会
灰色の石畳にそびえる煉瓦造りの屋敷。
“エバンズ商会”と刻まれた真鍮の表札は、ロンドンの濃霧すら弾き返すような重厚感を漂わせていた。
ノアは緊張の面持ちで中へ通された。
サイラスは何の挨拶もなく応接間の扉を開けた。
椅子にふんぞり返っていた小太りの男が顔をしかめる。
「……なんの用だ」
エバンズと呼ばれた男は、ぶっきらぼうに言い放った。
だが、サイラスが一歩脇に退いてノアを前へ押し出すと、その表情が一変した。
「サワベリーのところの小僧だ。聞きたいことがあるんじゃなかったのか?」
「ほう……」
エバンズの目が細まり、口元がにやりと歪む。
「ふむぅ、君は腕の良い棺桶職人と聞いておるよ」
「え、あ、その……」
ノアは場違いな空気に飲まれそうになりながらも、かろうじて声を絞り出した。
「まあ、いい。率直に言おう。——サワベリー君のところは、いかんねぇ」
「その……」
「ふむ、給金はもらっておるのかね?」
「いえ……給金なんて……その……」
「なんと! 無給とは、驚いたね。
それは立派な搾取だ。労働には正当な対価が支払われるべきだよ、まったく」
エバンズは芝居がかった調子で首を振って見せる。
「どうかね、ノア君。我がエバンズ商会で働いてみる気はないか?」
「……えっ?」
ノアは耳を疑った。
エバンズ商会といえば、サワベリーのような町の小商いとは比べものにならない、王侯貴族を顧客に持つ一流の商会である。
そこで働くなど、夢のまた夢——いや、夢にすら見たこともなかった世界だった。
「もちろん、いきなりとは言わん。だがね、我々も有能な若者を探しておるのだよ」
エバンズの声は甘く、まるで蜂蜜を溶かした紅茶のように耳に染みた。
「だが、一つだけ——頼みがある。その話を、聞いてみる気はあるかな?」
ノアが戸惑いがちに頷こうとしたその瞬間、背後から冷たい声が落ちた。
「言っておくが、話を聞いた以上、後戻りはできない」
それはサイラスの声だった。低く、重く、背筋に鋭い刃を立てるような声音。
「まあまあ、サイラス君。君のような怖い声を出されたんじゃ、彼も怖がって返事ができんじゃないか」
サイラスはそっぽを向き、肩をすくめて黙り込む。
「なにをすれば……」
「ほぉ! 興味があるのかい? 若者はそうでなくてはいかん」
エバンズは朗らかに笑いながら、ノアの顔を覗き込んだ。
「では、聞こう。サワベリー君のところで、最近分不相応な注文を受けていると聞くが、そんなことが本当にあるのかな?」
「えっと、分不相応と言いますと?」
「例えば、貴族様のご葬儀などがそれではないかな?」
ノアは一瞬、口を噤んだが、エバンズの目が彼を逃がさなかった。
「あ……」
「なにかあるのかな?」
「はい。急な話なんですが、明日、ウインザー様のところへ棺を届けるように言われました」
エバンズの顔が動いた。
「ウインザー? ハイド・パーク近くにある由緒ある旧家、あのウインザー家のことか?」
「……たぶん、そうです」
「注文の内容は?」
「子供用の棺です。白い上塗りのペンキで仕上げた、上物を……」
「……なるほど」
エバンズの目が細まり、夜目の獣のように鋭さを増した。
「届けるのは、いつだ?」
「明日の早朝だと……聞いてます」
しばしの沈黙。
空気が変わる。何かが、決まった。
「——サイラス」
「……ああ、小僧、一緒に来てもらおう」
有無を言わせぬ口調に、ノアは思わずコクリと頷いた。
彼は窓のない小部屋へと連れて行かれた。
そこには、若い女が一人座っていた。
「ルナ、すまないが席を外してもらえるか?」
サイラスがいささか遠慮がちに言った。
ノアは、その声に不自然な緊張を感じた。
若く、美しい女だった。
だが、次の瞬間——ノアの背筋が凍りつく。
女がサイラスをぎょろりと見据えた瞬間、ノアは心臓を鷲掴みにされたような恐怖を覚えた。
それは、底なしの沼に引きずり込まれるような絶望。闇そのものが笑っているかのようだった。
サイラスの頬が引きつり、緊張が走る。
しかし次の瞬間、空気が変わった。
女はにっこりと笑った。
「なに〜、サイラス、怖い顔して。どうかした?」
……えっ?
ノアは声を上げそうになったが、慌ててそれを飲み込んだ。
先ほどの恐るべき威圧感を放っていた女とは、まるで別人だった。
「いや、その、すまないが……こいつとちょっと話がある。内密の任務だ」
「そう、じゃあ、仕方がないね。よっこらしょっと……」
女は朗らかに笑い、部屋を出ていった。
……ふぅ……
サイラスが大きく息を吐いた。
額にはうっすらと汗がにじんでいた。
「怖がるな。いいか、言うとおりにすれば何も恐れることはない。
だが裏切ったらどうなるか分かっているな? 腕の一本で済むとは思うな。これは、そういう仕事だ」
ノアは答えに窮した。
できることならすぐにでも逃げ出したかった。
だが逃げれば、サイラスに地の果てまで追われる——そんな確信めいた恐怖があった。
「……なにをすればいいんですか?」
「ふふ、覚悟は決まったようだな。簡単な仕事だ。
おまえはこのままサワベリーのところへ戻って、いつものように棺を作れ。
そして予定どおり配達に出かけろ。——だが、配達先はオレたちが指示する」
「えっ! 棺を盗むんですか?」
「余計なことを考えるな。おまえに必要なのは、“言われたことを実行する”それだけだ。いいか、それだけは忘れるなよ」
「は、はい……」
ノアは馬車に乗せられ、サワベリー葬儀店の近くで降ろされた。
道中、御者の老人に何度か話しかけてみたが、ついに返事は返ってこなかった。
——棺を作る。
——明朝、ウインザー家へ届けに行く。
途中でサイラスたちが現れ、指示を受ける。
……それだけ。
だが、ノアはここである重大なことを思い出す。
彼は、オリバーを金槌で殴って飛び出してきたのだった。
帰っても、ただでは済まない。
だが、ここで逃げれば——あの恐ろしいサイラスに、地獄の底まで追われるかもしれない。
……なんで、こんなことになったんだ……
ノアは泣き出しそうになった。
葬儀屋の作業場は、通りに面した部屋にある。
窓越しに、そっと中を覗くと、思いがけない光景が目に入った。
サワベリーとオリバーが、肩を並べて棺を作っていた。
……どういうことだ?……
オリバーを遠目に見る限りでは怪我の痕跡は認められなかった。




