第117話 思い
夜。
書斎には、ガス灯とワインの光だけが残っていた。
エドウィンは一人、深紅のワインを傾けていた。
オリバーが立案した経営方針は、恐ろしく緻密に計算され尽くされているように思えた。
これは単に若者が理想を掲げ、それを押し通そうとしている。
そんな浅はかな発想とは一線を画している。
さらに、ブラウンロウという強力な後ろ盾の支持を得て、マンチェスター繊維連盟までも味方に引き込もうとしている。
ここまでは、合格だ。
だが、まだ足りない。
オリバーは社交界を知らない。
社交界の外にある者が、この国で真の意味で自由に活動することなどできはしない。
ただ、ビクトリア朝の社会でも、成り上がった者が社交界へデビューを果たすことは不可能ではなかった。
多くの新興商人がそうだ。
だが、それには多額の献金が必要だった。
今のオリバーが逆立ちしても、社交界へのデビューなどあり得ない。
仮に多額の資金を使って強引にデビューしたとしても、逆に反発の対象として排除されるのが落ちだろう。
どうにも考えをうまくまとめることができず、気が滅入るばかりだった。
「……決断か。」
低くつぶやく。
ブラウンロウの言うとおり、これは大きな決断に違いない。
それだけに、慎重にことを進める必要がある。
人は理想を掲げ、一人、また一人と絶望のまま姿を消していく。
自分も、その恐怖を知っている。
グラスの底に映る光が、まるで血のように赤く見えた。
そのとき、ドアがノックされた。
「お父様。」
「入りなさい。」
エリザベスが入ってくる。
「君も飲むかね?」
「いただきますわ。」
天真爛漫なこの娘にしては珍しく、エリザベスの表情には迷いが見えた。
長い沈黙のあと、意を決したように小さな革のノートを差し出す。
「お父様。ブライアンさんから預かりました。……亡くなったアリシアお母様の日記です。」
「アリシアの……日記?」
その名を口にした瞬間、胸の奥が軋んだ。
「若い頃のお父様やトーマスさんとのやり取りも書かれています。そして、お父様と別れた後、ウィットフィールド村の工場で何を目指していたのかも。お母様はずっとお父様が目指した理想を信じていました。
“人は理想を恐れてはいけない。恐れた瞬間に、未来を手放すことになる”――そう書かれています。」
エドウィンは黙ってページをめくる。
そこには、あのアリシアらしい情熱に満ちた筆跡があった。
『エドウィン、私はあんたのその青臭さがたまらなく好きなのさ。もっと自信を持って、やりたいことをやりなよ。』
若き日のアリシアの声が、時間を越えて響いてくるようだった。
「ベス……」
「私は……お母様とお父様が本当に愛し合って、私が生まれてきた……それだけで……私は……」
エリザベスの声は涙で途中から途切れた。
子供の頃から辛い思いをさせてしまったこの娘が、哀れで、そして愛おしかった。
言い終えると、彼女はそっと立ち上がり、部屋を出ていった。
残されたエドウィンは、しばらく動けなかった。
机の上には、開かれたままの日記。
アリシアはエドウィンの子を身ごもり、一人チャドウィック家を出た。
だが、彼女は理想を捨てることなく、戦い続けていたのだ。
いずれエドウィンが理想に向けて行動に出てくれることを信じながら。
灯りに照らされるその一行が、目に焼きつく。
“エドウィン、もしあなたが再び恐れに屈しそうになったとき――
この言葉を思い出して。
恐れを超えたところに、あなたの真の使命がある。”
「そんな……私のことなどどうでもよかったのに……なぜ君は、いつもそうなのだ……」
なぜ、自分の幸せだけを望んでくれなかったのか。
エドウィンは両手で顔を覆った。
グラスの赤が指の間からこぼれ、涙と混じる。
「アリシア……君は、今も私を導こうとしているのか。」
オリバーは、アリシアの思いに導かれて現れたのだろうか?
いや、それはアリシアだけの思いではないのだろう。
同じ思いを抱く者たちの思念が、大きな流れとなって形を成したに違いない。
やがて立ち上がり、書斎の窓辺に立つ。
ロンドンの霧が白く街を包み、遠くで汽笛が鳴った。
「……いいだろう。オリバーに賭けてみよう。」
その声は静かだった。
だが確かに、過去から未来へと続く決意の音を響かせていた。




