第116話 M&A交渉
「実は……混紡繊維の技術を、イギリス国内で広く公開しようと思っています。この技術は世界でも最新の繊維生産技術です。広く普及させれば、主幹産業の一翼を担う可能性すらあると思っています。そのために公開前にファッション性の高さを示しておく必要があるとは思いませんか?」
オリバーの言葉に、エドウィンは一瞬、まばたきを忘れた。
目を見開き、息を呑む。ガス灯の光が彼の頬を照らし、静かな影を落とす。
「待て。ちょっと整理させてくれ」
あまりに予想外の提案に、さすがのエドウィンも意味を掌握するのにしばし時間がかかった。
「えっと……」
言葉を継ごうとするオリバーを、エドウィンは手で制した。
「ちょっと待て。つまりお前は、混紡繊維のファッション性の高さを極限まで押し上げておいて、それで得たマーケティング効果と最新技術を無償でイギリス中の工場に提供しようと言っているのか?」
「はい。ですが、マーケティング効果のすべてというわけではありません。素材の品質よりもファッション性の高さのほうが主戦場ではないかと思いませんか?技術は遅かれ早かれ陳腐化します。その独占にこだわるよりも、ファッションをブランド化したほうが長期的にはよほど価値があると思いませんか?」
…...なんと大胆な提案だ。
だが、冷静になって考えてみると、多くの面で理にかなっていると言えた。
既存の技術……絹や羊毛の製品が大きなシェアを占めるファッション業界では、混紡繊維という新しい技術は、自分たちの利益を侵しかねない一種の異端だと見なされるだろう。
ファッション性よりも耐久性と快適性を重視した商品にすれば競合を避けられる。
これは最も確実な方法のような気がしていた。
そうであったとしても、オリバーの作り出した国産の絹・綿・麻を使った混紡繊維は、それぞれの既存技術に対して価格・見た目・耐久性・快適さのすべてで優位性を持っている。
その技術を、現時点ではチャドウィック家の工場が独占しているのだ。
確かに、ファッション性での評価は今のところないのが現状だ。
だが、一般服飾に多くの利権を持つマンチェスター繊維連盟はどう考えるだろうか?
それと深い関係を持つ教会勢力はどうだろう?
会長バーナビー・フィッチの顔が脳裏に浮かぶ。
シェアが一定以下であるというだけの理由で見逃してくれるだろうか?
答えは、否だ。
秘かにオリバーの生産ラインの潰しにかかってくることは、近い将来、現実になるに違いない。
だが、混紡繊維のファッション性の高さが証明されたら、どうなる?
その技術を多くの企業は必ず欲しがる。
そこで、積極的に技術の移転に協力したらどうだろう?
混紡繊維の技術は、一気に国内の標準技術になるに違いない。
そして、その技術の受益者にはマンチェスター繊維連盟も、関係の深い教会勢力も含まれる。
その結果、オリバーの作ったビジネスモデルを潰す理由が消滅する。
独占技術でファッション性を競うのと、標準技術でそれを行うのでは、意味がまったく違う。
その理解に達すると、エドウィンは黙り込んだ。
だがそれは一方で、細い綱の上を渡るに等しい危険な行為でもあった。
オリバーはじっと、エドウィンの返答をうかがうように待っていた。
「面白い発想だとは思う。だが、危険な賭けでもあるな」
技術の移転が思いのほか難航したらどうなる。
「では、他に方法がありますか?」
「うむぅ……」
再びエドウィンは黙り込む。
「実はオリバーに頼まれて、国産絹の養蚕技術の流出を進める段取りは、わしのほうで進める手はずとなっておるのじゃ」
ブラウンロウが、エドウィンにとって寝耳に水の話をした。
「なんですって? オリバー、お前、また勝手なことを……」
「まぁ、そう言わんで話を聞いてくれんか?」
その話を聞いて、エドウィンの驚きはさらに増した。
一体、この男オリバーとは何者なのだ。
「マンチェスター繊維連盟会長バーナビー・フィッチ氏とブラウンロウ伯爵との間で、国産絹の養蚕技術と優良種の技術譲渡について内々に話を進めていただいたところ、先方は強い興味を示しています。場合によっては有償での交渉も可能かと。まだ混紡繊維については懐疑的ですが、検討をすることは約束してくれたそうです」
「なんと!事業の売却交渉が既に進行中だというのか?」
「はい。ここでファッション性の高い混紡繊維が社交界で一定の評価を受けたとします。フィッチ氏は、ブラウンロウ伯爵との交渉を一段と進めるのではないでしょうか」
エドウィンは、あんぐりと開いた口を閉じることができなかった。
このケースでは、フィッチはすべてのキーを握っている男と言って良かった。
だが、なぜオリバーがそこまでこの国の中枢にかかわる情報を持っているのか。そう考えても、思い至る節がない。
「伯爵、あなたのお考えですか?」
「それは大した問題ではない。どうじゃ、この段取りはよく出来ておろう?」
ブラウンロウはにやりと笑い、エドウィンを見る。
「わ、わかりました。……ですが、一日時間をいただけますか?」
「本当ですか?ありがとうございます」
オリバーが腰を浮かせる。
「まだ、了承したわけではないぞ」
「まぁ、これはあんたにとっても大きな話じゃ。よく考えることじゃな。 だが、忘れてはいかんぞ。これによってウィットフィールド村やハムステッド村が生き残る可能性があるということを。優れた労働環境と技術が進化する村の存在がこの国で許容されるか、また否か……それは、あんたの望みであったのではないか?」
エドウィンの胸に、若かりし頃のトーマス、そしてアリシアの姿が去来する。
それは今では遠い夢であったはずだ。
それが、まるで奔流のように押し寄せてくる。
そんな感慨に、押し流されそうになった。




