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第114話 故郷

また、人が死ぬ。

ルナは、制御を失った身体の奥で、眼前で起こることを見ていた。

いや、実際には制御を失ってはいない。

それどころか、肉体の潜在能力がすべて賦活し、最大効率で働いていることが、ルナ自身にも分かった。

正しくは、自分の心の奥深くに眠っていた“なにか”が、制御を奪っているのだ。


その者の声は、心を凍てつかせるような冷厳さと威圧を帯びている。

聞く者を恐怖させる、恐ろしい老婆の声。


オランダの商船のなか、やさしかったお雪ちゃん……。

お雪ちゃんが船員に乱暴された。酷い……。

恐怖で、身体が動かなかった。

お雪ちゃんは、そのときの傷がもとで間もなく亡くなった。

そのころからだ。時々、老婆が現れるようになったのは。


この国に来てから、ルナの生業は人の財布を狙う巾着切り(スリ)となった。

ある日、仕事に失敗して男たちに捕まる。

腕をねじ上げられ、顔が腫れるまで何度も殴られた。

そのとき、初めて身体の制御が自分から離れた。

痛みと恐怖から逃れたい。

必死の願いに、心の奥底から巨大な“なにか”が湧き上がり、ルナの身体はその制御に委ねられた。


ああ、楽になった。

そう思ったのは、ほんのつかの間。

目の前の男たちは泥人形のように引きちぎられ、殴り倒され、そして命を奪われた。

それ以来、ルナに襲いかかる者を、老婆は容赦なく葬ってきた。

暗殺者としての殺伐とした人生が、死ぬまで続く。

ルナには、死すら許されていない。それを悟った時、絶望が訪れた。


いま目の前の、奇妙な仮面の男の命も、数える間もなく消えるはずだった。

ところが……

その男は体を起こし、ゆっくりと顔を上げた。

その目に、命の灯がふたたびともるのが見えた。

それよりも、ルナにはもっと驚くことがあった。

その面は、幼いころに見たことがある。般若の面!

故郷とつながるものに、心が震える。


男と目が合うと、時間が間延びしたように、世界がゆっくり動き始めた。

その刹那、故郷の懐かしい風景が広がって……そして消える。

限りなく懐かしく、愛おしいその景色に胸が締め付けられ、男の目を縋るように見返すと、その目は温かくやさしい心をたたえて、ルナの内へと溶け込んでくる。

父や母、お雪ちゃんのようにやさしい目...。

この人が死ぬ。

耐えがたい愛おしさと恐怖がないまぜになり、感情の糸が焼き切れそうになる。


意識を手放しそうになった、そのとき……

ひとつの奇跡が起きた。

それは、ルナだけのための奇跡に違いなかった。


男は月の光を受けながら、静かに歌い始めた。

「守もいやがる ぼんからさきにゃ……」

それは島原の田舎で、ひそかに歌われた古い子守唄。

般若の面は、いつしかやさしい母の顔に変わっていた。

その歌声は、やさしく注がれる月の光のようにルナの心を癒した。

ああ、私たちは互いに愛し合うことができる。

心が融け合う。

日本の山並み、樹木、夏蝉の声、春の山霞――何もかもが懐かしい。

ルナは男に声を合わせ、歌い始めた。

この人、私の故郷の人....それだけでルナの目から留めなく涙が溢れる。


オリバー……前世の俺。

秋の始まるころ、真っ赤に染まった赤とんぼの群れを見ながら家路を急いでいた。

夕焼けは赤く、暗闇が迫っていたが、家の灯が見えると心から安心する。

「腹減ったな。早く帰ろう」

そう言うと、隣で手をつないだ少女ルナが笑う。

「私も!」

日本から長くてつらい道のりを歩んできた少女。

オリバーは切なさで胸が張り裂けそうになる。


ルナの刃が、ゆっくりとオリバーへ振り下ろされる。

オリバーの身体を切り裂くはずの、その瞬間、それは止まった。

急速に、ルナのなかの老婆の意識が小さく縮み、やがて消えていく。

手に持った刃は手からこぼれ落ち、

二人の合唱は終わった。

気がつけば、オリバーと少女は互いに抱き合っていた。

オリバーは意識を失った少女を抱き上げ、その頬の涙をぬぐう。

「た、助かったのか……」

【生き残ったようですね】

ヨーダの声が戻り、オリバーは安堵した。

長く付き合ってくると、もはやこいつなしでは身体の一部を失ったような気分になる。

前世でも、ヘッドホンとARグラスのアシスタントAIが、似たような存在だったせいかもしれない。

戦闘中……あの圧倒的な存在がヨーダを『偽老賢者』と呼んだ。

そしてヨーダは、あれを『太母タイボ』と……。

前世の俺は、その言葉を知っている。

人間の意識の深い層にある、普遍的な原型アーキタイプを示していた。

だが、今はそのことを深く考えたくはなかった。


…どうする?..

【どうするとは、その少女のことですか?ずいぶん愛おしそうに抱きしめていましたが】

…お前なぁ、今それ言うかよ。..

【結論から言えば、他の二人と共に放置すべきでしょう。彼女の戦闘力からして、敵の切り札的な存在です。その最上級戦闘員が、いまあなたの腕の中で気絶している。つまり敵は“あなたに敗れ去った”と判断するはずです】

…殺せ、とは言わないんだな?..

【それは非常に危険です。この少女のなかの化け物は、彼女の命が危険にさらされたら間違いなく再起動します。今度こそ命はありません。しかし、ほんとうに運がよかった】



夜が明ける。

無限とも思えたループから抜け出したサイラスたち一行は、意識を失い倒れているレン、アダム、そしてルナの三人を見て、完全な敗北を悟った。

とりわけ、ルナが敗れた事実は重大だった。

それは、フェイギンの戦力が“仮面の男”の戦力に及ばないことを意味していた。


気を失い、涙で剥がれたピエロの化粧の下から覗く顔は、意外なほど穏やかだった。

思えば、そんな顔のルナ......ピエロの顔ではない“彼女自身の顔”......を見るのは、あの海軍軍人の大量虐殺事件以来のことだった。

異国に生まれ、言葉もろくに通じず、怯えながら必死に生きていた。

あの儚い少女の面影がそこに戻っていた。

ルナに何が起こったのか、知るすべもない。

だが、サイラスはそのルナの表情に、どこか安堵を覚える自分を感じていた。


仮面の男は、一体何のために戦っているのだろうか。

誰かが多額の報酬で雇っているのかもしれない。

だが、本当にそうなのか?

今回の戦いで、彼がすべてを費やし、場合によっては自らの命さえ賭けて......あの村を守ろうとしていたことを、サイラスは思い知らされた。

それに比べて、自分は何を守っている?

誰のために戦っている?

問いは、空しく胸の奥に沈んでいった。


報告のためロンドンへ向かうサイラスたちの足取りは、重かった。

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