第113話 絶対絶命
それは突然、襲い掛かってきた。
小柄な体に恐ろしいほどの威圧感と殺気をまとい、ピエロの顔をしたそれが暴風のようにオリバーを打ち据えた。
なす術もなく地面に叩き伏せられていた。
反射的に筋肉が強化されたが、できたのはそれだけだった。
【生命力が急速に低下……】
ヨーダの警告が頭に響いた。
オリバーは、今にも切れそうな糸でつながっている僅かな意識の中で、死が迫るのを感じた。
…俺、死ぬのか…
【生命力が1%を下回ります……】
0.5、0.4、0.3、0.2……
…いやだ。死にたくない…
人生最後の瞬間に思い浮かべたのは、ウィットフィールド村の美しい少女たちの顔だった。
なんと下世話な……。
ナンシー……
やさしかったその人の顔を思い浮かべると、心が張り裂けそうになる。
彼女が勧めるまま、見合いでもなんでもしておけばよかったのだ。
俺が死ねば、また悲しい思いをする。
息子と娘、孫までも失い……そして偽物の孫である俺までも。
オリバーの頬を涙が伝った。
【メタ認知を発動してください】
その言葉に、心が反射的に反応する。
気が付くと、瀕死で身体をぴくぴくと痙攣させている自分の姿が真下に見えた。
ピエロの顔をしたその人物は、それを冷厳な目で見降ろしていた。
【生存限界がフルモードで発動します。全エネルギーを注入】
やがて、痙攣がゆっくりと停止する。
【臨死状態へ移行します。生命力0.01%で拮抗しました】
眼前に、ハムステッド村の美しい景色が広がった。
ナンシーのコテージの煙突からは、温かな煙が立ち上っている。
臨死状態が見せる、時間を超越した光景。
ピエロはオリバーの死を確認したのか、興味を失ったように踵を返す。
【敵の状態解析が終了しました。戦闘レベル∞。解析不能な異常値です。人間ではありません。二重人格者です。驚異的な戦闘能力と感覚機能は、第二人格によるものです】
【臨死状態が解除されました】
周囲の景色が森に戻る。
【生命力0.09%】
生命力が徐々に回復し始めていた。
【ピエロが十分な距離を離れるまで、生命力を0.1%で拮抗するようにコントロールしてください。1%を超えた時点で、生存を感知されます】
今、死ぬわけにはいかない。
一度は諦めかけた命が戻ってくる。
…どうすれば生き残れる?…
【相手は二重人格者です。現在の第二人格ではなく、深い眠りについている主人格を起こすしかありません。『超共感』を使います】
ヨーダが提案した作戦を聞き、オリバーは思わず叫びたくなった。
「どんだけクソゲーなんだよ!」
成功率は極めて低い。だが、死んでたまるか。
その一念で、作戦を受諾する。
まず、一気に生命力を5%まで回復。
次に『天眼智』を発動して、ピエロの情報に接続する。
すでに、オリバーの生存は感知されていた。
再び、恐ろしい殺気が膨れ上がる。
ピエロはこちらへ向かって振り返る。
『天眼智』の効果で時間を最大限に圧縮する。
だが、ピエロの恐るべき速度の前では効果は限られていた。
心の奥深くに眠る“主人格”を、オリバーは必死に探した。
無限にも思える長い時間の末、闇の中に一人の少女が佇んでいるのを見つけた。
接触を深めると、周囲に意外な風景が広がっていく。
徐々にその風景は鮮明さを増していった。
潮の香りが胸をくすぐる。
海は翡翠のように澄み、港の向こうには低く霞んだ島影が浮かんでいた。
波止場に並ぶ木造の倉と白壁の商館。
瓦屋根のあいだから立ち上る煙が、風に乗って海へ流れていく。
桟橋には、紅い着物を纏った少女がひとり立っていた。
年の頃は八歳くらいに見える。
髪は夜の海のように黒く、肩にかかるたび潮風に揺れた。
目の前の海には、巨大な帆船が碇を下ろしている。
高くそびえるマストの先には、陽を受けてオランダの国旗が翻っていた。
にぎやかな街には、髷を結った侍、着飾った女たち、そして仕立ての良いガウンをまとった異国の者たち。
…に、日本なのか?…
【これは江戸末期の平戸出島ですね】
海の向こうに見える島影。
それはオリバーにとって懐かしい前世の風景だった。
【『超共感』を発動してください。メタ認知を解除します。敵到達まで25秒。それまでに共感値100%を達成してください。思考速度が最大であれば十分に可能です。ただし、心的エネルギーが枯渇すればミッションは失敗です】
…嘘だろ……。..
奇跡でも起こらない限り、不可能なミッションと思われた。
【同期完了。共感値0%。心的エネルギー残量35%】
だが、次の瞬間、オリバーは絶望に震える。
【同期切断。第二人格が干渉しています】
諦めるわけにはいかない。
【再接続しました。共感値0%。心的エネルギー残量30%】
《愚かな!お前ごときがこの娘に何ができる!》
低くしわがれた老婆のような声が、オリバーの頭に響き渡る。
それは声というより、荒れ狂う想念の嵐だった。
オリバーの心は慄き震え上がった。
【これは……二重人格ではありません】
《偽老賢者よ、去れ!》
【太母……?】
...大母? なぜ、ヨーダと話が……?..
ヨーダは答えなかった。
【ミリアムを思い出してください。作戦変更です。歌を……】
もはや『超共感』は絶望的だった。
…ヨーダ?…
呼びかけても返事はない。
ピエロは、もう数メートル先に迫っていた。
現実は絶望で塗りつぶされる。
ミリアム? 歌?
あの時は、『超共感』ではない方法でミリアムと一緒に歌った。
その結果、『生存限界』に影響を与えることができた。
それは、「スカラボー・フェア」と言う感情を揺さぶる共通の名曲があったからだ。
だが、今回はどうだ?
江戸時代の歌など知らない。
江戸末期? 日本人? 日本語の歌……?
キーワードが脳裏で結びつく。
前世の記憶が鮮明に甦って来る。
世話になった先輩社員が定年退職の日、送別会の二次会でカラオケボックスに行った。
「この歌は江戸の末期……いや、実はもっと以前から歌い継がれた子守唄だ。たまにはいいもんだぞ」
そう言って笑った先輩がマイクを取った。
その歌は、静かで、どこか懐かしく、美しかった。
あれこそが江戸末期に誰もが口ずさんだ歌だったのだろう。
歌おう。
そう思った。
『竹田の子守唄』
もしかして、これで二度目の人生もここで終わるかもしれない。
だが、その瞬間を前にして、美しい旋律を奏でてやろう。
それで、いいじゃないか。
オリバーは覚悟を決めた。
迫りくるピエロに正面から目を据えて、オリバーは静かに懐かしい日本の歌を奏で始めた。
それは、心の底に静かに眠っていた限りなく懐かしい故郷の風景であった.....




