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第11話 ウィリアム・フォスター

ロンドン、1840年。

霧のかかる朝、ウイリアムはホルボーン通りの石畳の角に立っていた。道端では、鉄の輪を鳴らす荷馬車や、通勤途中の職人たちが忙しなく行き交う。

通りの向こうに「SOUTHWARK TO OXFORD STREET」と銘打たれた乗り合い馬車オムニバスが見え、彼は足早にその前に出ると小銭を差し出した。

彼の目的地は、ハイド・パーク近くにある由緒ある旧家、ウインザー氏の邸宅だった。

ウィリアムは、チャドウィック家が経営する紡績工場で、綿花や染料といった原材料の買い付けと帳簿管理を任されていた。

商館との価格交渉や船荷の受け取りに日々追われているが、今日は珍しく休みを取ることができた。


フォスター家とウインザー家には、些か縁がある。

ウイリアムの母の従姉妹が、ウインザー家に嫁いでいたのだ。母とその従姉妹は極めて親密な間柄であり、その娘にあたる双子の姉妹のことも、母は実の孫のように可愛がっていた。

その姉妹のうち、一人が昨日、麻疹で命を落とした。

深いショックを受け、寝込んでしまった母の願いを受けて、ウィリアムは代わりに見舞いへ向かうことになったのである。


オムニバスが緩やかに東から西へ進む中、通りの左手に静かな列が現れた。

黒衣の喪服に身を包んだ人々が、少年を先頭にして歩いている。少年の帽子には長い黒の喪章が巻かれ、足取りは落ち着いていた。

小さな棺を載せた馬車がその列に続く。

「……麻疹か」

ウイリアムは呟いた。ロンドンでは、10歳未満の子供が疫病で命を落とすのは珍しいことではない。飲み水は汚れ、下水は未整備。どれほど優れた家庭でも感染は避けられなかった。


ふと先頭を歩く少年の顔に目が留まった。その瞬間、ウィリアムの表情は一変した。

「……あいつだ!」

記憶が鮮明に蘇る。

——あれは半年前、父の使いで訪れた救貧委員会の会合のことだった。

傍観者として座っていたウィリアムの前で、場違いな存在――まだ十にも満たない小さな少年が、居並ぶ紳士たちに真っ向から啖呵を切ったのだ。

教育の欠如、衛生環境の劣悪さ、そして労働制度の矛盾。

その内容はあまりに的を射ていて、まるで大人の論客のようだった。しかも少年の言葉には、不思議な確信と説得力が宿っていた。


痛快だった。  

尊大な紳士たちが狼狽し、言葉に詰まるさまを見て、ウィリアムは笑いをこらえるのに必死だった。  

だが同時に、こうも思った——あれほどの発言をした少年には、相応の罰が下されるだろう、と。  

その後の運命を想像し、胸が重くなったものだ。

だが今、その少年が目の前を歩いている。  

……なんて奴だ!

見ず知らずの子どもに、ここまで心を動かされるとは。  

生き延び、働き、堂々と歩くその姿に、ウィリアムは自分でも驚くほどの喜びを覚えていた。

しかも、葬列の先頭で、帽子に喪章を巻き、きちんとした黒い喪服を身にまとっている。  

その歩みは静かで、毅然としていた。

馬車がゆっくりと葬列を追い越していく。  

狭い通りだったが、少年は自然と列を外れて道を譲った。  

ふと、その横顔が目に入る。  

憂いを帯びた眼差し。わずかに俯いた姿勢。  

まるで、小さな貴族のようだった。

……営業用の“哀愁顔”か?  

あの反骨少年が、今やこれか。  

突っ込みたくなるのを堪えながら、ウィリアムは思わず笑いそうになった。

「葬儀屋に奉公に出されたのか……」

そういえば最近、「子供専用の特別葬儀」なるものが上流階級で話題になっていた。  

まさか——こいつがそれに関わっているとは。

ふと視線を横に移すと、相乗りのご婦人が目を輝かせて少年を見つめていた。  

葬列を見ているというより、観劇でもしているかのように、うっとりと。  

不謹慎にも、今にも投げキスを送りそうな勢いだった。

「ええと……あの葬列、いま評判の“子ども用の葬儀”ですか?」

ウィリアムは帽子のつばに指をかけ、ご婦人に控えめに尋ねた。

「あら、そうよ。サワベリー葬儀店の特別葬儀よ。可愛いでしょう?……あら、あたしとしたことが。うふふふ」

サワベリー葬儀店...それがあの少年の奉公先のようだ。

ウィリアムは帽子を取り、馬車の窓から葬列に向かって静かに一礼した。


——あの少年に、また会えるだろうか。  

いずれ、どうしても話がしたい。  

なにより今、この不可思議な縁を無視してはならない気がしてならなかった。


ハイド・パーク近くの一角に静かに佇むウィンザー家の邸宅。

黒い喪章を腕に巻いた老執事が扉を開けたとき、ウィリアムは深く一礼した。事情を告げると、すぐに中へと通された。

「ウィリアム様、ようこそお越しくださいました。奥様は応接室にてお待ちでございます。」

重厚なドアをくぐると、室内は厚手のカーテンが閉じられ、ランプの灯がかすかに揺れていた。

その中央、飾り気のないソファにウィンザー夫人が沈み込むように座っていた。

紅のハンカチを握りしめたその手は、すでに濡れて皺だらけだった。

「……わざわざ、ありがとう。お母さまは、お元気でいらっしゃるの?」

ウィリアムは静かに頭を下げる。

「はい、元気ではありますが……お嬢様の訃報を聞きまして、大変なショックを受けたようで……」

「……あの子は……」

夫人は声を詰まらせたまま、言葉を継げなかった。

「母がどうしてもと申しておりました。わずかばかりですが、弔意をお伝えに伺いました。」

「ありがたいわ、本当に……」

しばし沈黙が流れる。

ウィリアムは、これ以上の長居は無粋と判断し、立ち上がりかけた。だが、その瞬間だった。

「……明日の葬儀が、まだ決まっていないの」

か細い声が虚空に溶ける。

「どういうわけか……どこの葬儀屋も受けてくれなくて……急なことだから、と言うのだけれど……」

「それはまた……」

ウィリアムは思案げに眉を寄せた。

そのとき、脳裏に浮かんだのは――サワベリー葬儀店という名前だった。

自分でも理由が分からぬまま、自然と言葉が口をついて出た。

「実は、子供専用の“特別葬儀”を執り行っている店があると耳にしたことがあります。お引き受けいただけるかは分かりませんが、よろしければ、私が今から問い合わせてまいりましょうか?」

夫人は驚いたように顔を上げ、しばらく言葉を探していた。

「なにか、伝手でもありますの?」

「いえ、そうではないのですが……」

「そんな……気持ちだけでも十分よ。今日の明日でお願いできるわけがないわ。無理を言っては――」

そのとき、後方で控えていた老執事が一歩前に出た。

「奥様、失礼をお許しください。私もそのような話を耳にしたことがございます。近頃では、貴族のご子息や、富裕な商家の子女の葬儀も手がけておられるとか。極めて満足の行く儀式だったと、評判も高うございます。私も何度か、街でその行列を拝見いたしました。」

「そう……なの?」

夫人はしばし考え込み、紅のハンカチを握り直す。

「ウィリアム様のご好意、謹んでお受けしてはいかがでしょう。私も同行いたします。」

「それは助かります。実は“サワベリー葬儀店”というところなのですが、詳しい住所まではこれから調べようと――」

「お任せください。わたくし、存じ上げております。」

「……そう、セバスチャンがそう言うのなら……」

夫人はうなずき、ふたたび目元を押さえた。

とんとん拍子に話はまとまり、ウィリアムは奇妙な充実感を覚えていた。

——あの少年に、会えるかもしれない。

彼は立ち上がり、ゆっくりと一礼した。

「それでは、急ぎ向かいます。どうぞご安心を。でき得る限り、最良の形を整えてまいります。」

何の確証もなかったが、なぜかすべてうまく運びそうな気がしていた。

扉が閉じられた瞬間、応接室の空気がふっと静まった。

ウィリアムと老執事は、馬車を呼び寄せるため玄関へと足を早めた。

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