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第108話 ルナ

海は果てしなく広がり、波の白い牙が船の舷側を噛みつくように打ち寄せる。

ルナは甲板の隅にしゃがみ込み、鉄柵に小さな手を絡めてその光景を眺めていた。

船はオランダの商船で、帆が風を孕んで膨らみ、木の軋む音が絶え間なく響く。

空は青く晴れ上がり、海は透明な輝きを放っていた。

ルナは長崎の出島で生まれ、そこで育った。

父の名はヨハン、オランダ人の医師。

母の名はルイ、出島の花街で働いていたが、父が身請けしたと聞いている。

幼いルナにはその意味を知る由もなかったし、知りたいとも思わなかった。

ただ、優しい父と母に愛されて育ったルナは、聡明で美しい子に育っていった。

ある日、父がいなくなり、寂しくて泣きじゃくるルナを母は笑顔で抱きしめた。

「心配はいらない。パパはすぐに戻ってくるからね」。

だが、父は1年経っても戻らなかった。

聡明な母は出島を離れ、長崎で蘭方医として働くこととなった。

蘭書を自在に読み、医術に長けた母は、異例の信頼を集めていた。

しかし、ある日を境に、喜助という男が家に出入りするようになった。

母の兄で、故郷の島原から来たらしい。

時折、母と激しい口論になる声が漏れ聞こえた。


そして、突然、平和だった世界は崩壊した。

ルナは拐かされたのだった。

7歳のルナにも、そのことだけはわかった。

船に乗せられようとしたその時、喜助の友人だという男、猪助がそこにいた。

オランダ人の船員がオランダ語で怒鳴り、猪助を責め立てていた。

「約束が違う。なんだ、この子供は!」

通詞がそれを日本語に訳すと、猪助は悪びれず、下卑た笑みを浮かべた。

「あと5年もすれば、とんでもない上玉に化けますぜ。なんせ、あの花魁ルイの娘で、オランダ人の血が混じった希少種ですぜ」

話しがついたのか、ルナは船倉へと運ばれていった。

船にはオランダ人の船員のほか、日本人の少女たちが多く乗せられていた。

十四歳から十八歳くらいで、着物が乱れ、顔が青白い。

出航してから二~三日後、ルナたちは船倉から解放された。

それからは船内は意外と自由だった。

船長の目が届かない甲板の端で、私たちは輪になって座り、干し飯を分け合う。

少女たちは、互いの名前を囁き合う。

「私はお雪、十四よ。長崎の廻船問屋で奉公の話で連れてこられたんだけど……」

ほとんどの娘たちは近隣の農家の娘だった。

お雪ちゃんは、私に一番優しかった。

細い体で、黒髪を三つ編みにし、いつも小さな貝殻の髪飾りを付けていた。

「ルナちゃん、怖いよね。でも、お雪が守ってあげる。海の向こうは、きっと花がいっぱいの国よ」

彼女は私の手を握り、母がよく歌ってくれた子守唄を口ずさんだ。

島原の田舎で、隠れて歌われた古い唄──竹田の子守唄。

「守もいやがる ぼんからさきにや

 雪もちらつくし 子も泣くし

 盆が来たとて 何うれしかろ

 かたびらはなし 帯はなし…….」

聞き慣れた美しい旋律に、ルナは泣きながら眠る日々が続いた。

船は三日目、マニラの港に着いた。

フィリピンの空は青く燃え、ヤシの木が揺れる岸辺が近づく。

ここで女たちが数人降ろされたが、船員のほか他の女たちは数時間の滞在の後、下船せずに船は出航した。

航海が長くなるにつれ、船内の規律が乱れ始めた。

酔った船員が少女の一人に乱暴を働いたらしい。

少女が、夜の闇に身を投げようとした。

甲板から海へ飛び込もうとして、船員の男たちに捕まった。

「縛り上げろ!」と怒鳴られ、引きずられて船倉へ。

彼女の叫びが、朝まで響いた。

見せしめだった。

女たちは皆、息を潜めて震えた。

ルナは恐怖のあまり意識を失っていた。

気がつくと、お雪ちゃんがルナを抱きしめて囁いた。

「ルナちゃん、絶対に飛び込んじゃだめ。生きて、母さんに会おうね」

だが、オランダ語がわかるルナは、そんな日が二度と来ないことを、船員たちの漏れ聞こえる話から知っていた。

それを思うたび、心に深い闇が広がっていく。

ルナは海を眺めながら、父さんと母さんを思う。

父さんは、オランダ語の本を読んでくれた。

「ルナ、これは月だよ。Luna。君の名前みたいに、美しい」

船の揺れが胸を締めつける。

涙が零れ、海に落ちる。

波が、それを飲み込んで、嘲るように泡を立てる。

次に船が停泊したのはマラッカの港だった。

私はお雪ちゃんの手を握り、甲板から身を乗り出す。

港は賑やかで、中国人の商人やスペイン人の船員が荷物を運ぶ。

異国の匂い、スパイスと汗と、腐った果実の混じった風。

突然、船員の男たちがお雪ちゃんを囲んだ。

三人。オランダ人の船員で、髭が濃く、酒臭い息を吐く。

「お前は少し待て。なに、直ぐに終わる」

お雪ちゃんは後ずさり、ルナを背に庇う。

男たちは彼女を倒し、ルナを乱暴に突き飛ばした。

「やめて! ルナちゃん、見ないで!」

しかし、目は見開き体は凍りついて、動けなかった。

男たちは笑い、彼女の着物を引き裂く。

お雪ちゃんの目が、ルナを捉える。彼女の唇が動いた。

「ルナ……逃げて……」。

その瞬間、心の中に何か自分でないものが広がっていった。

突然、視界が歪み、そして再び焦点が合う。

ルナは自分の身体から心が離れたのかと思った。

船員たちに押さえつけられたお雪ちゃんの姿と、それを黙然と眺める自分がそこにいた。

そして自分は、それをまるで第三者のように上から眺めていたのだ。

凍えつくような冷たい瞳でその情景を、身動き一つせず眺めている自分自身に、ルナは恐怖した。

「何をやってる!」

オランダ語の怒声が響き渡り、お雪ちゃんに馬乗りになった男が銃剣の銃尻で殴り倒された。

三人の男たちは後ろ手に縛り上げられて連行されていった。

その後、苦い表情の男とルナだけが残されていた。

次の瞬間、男は目を見開いた。

「あんたらの管理が悪い……」

ルナがしわがれた老婆のような声で、流暢なオランダ語を呟いたからだ。

その男はルナの目を見た瞬間に、大きな体を震わせて後ずさった。

「お前は一体なんだ!」

その男はこの船の船長であった。

マラッカで全ての女たちは降ろされ、怪我を負ったお雪ちゃんと共にルナは病院へ連れていかれた。

通詞としてルナは引き取られたのだった。

そこで高熱を出してお雪ちゃんは息を引き取った。

ルナは悲しみと衝撃で自分が死んでしまいたい。

そんな思いに駆られそうになると、しわがれた声の老婆は必ず現れた。

ルナの心は消え、一時の安息が約束される。

お雪ちゃんがいなくなったマラッカで、ルナはイギリス海軍の船へ引き渡された。

長い旅の末、ロンドンの港に着き、そこでフェイギンに買われた。

老婆はしばしば現れて、時には暴虐の嵐が吹き荒れる。

その度にルナは心は壊れていくのを感じていた...

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