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第107話 暴虐

サイラスの脳裏に、あの夜の光景が甦る。

「ピエロ」

それは組織の中で、ひとりの少女に与えられた名だった。

いつも厚い化粧に覆われ、素顔を見た者はほとんどいない。

サイラスを含め、その正体を知る者は今や数えるほどだ。

それは、人間ではない何かへの恐怖だった。

敵への畏怖とは違う。

もっと根の深い、存在そのものを拒むような恐れ。

…情けない。..

そう呟いて、サイラスは自嘲の笑みをこぼす。


初めて出会ったとき、ルナは八歳の泣き虫だった。

新大陸で人買いに浚われ、長い旅の末、イギリスにたどり着きフェイギンに買われた。

サイラスはそう聞いていた。混血の肌の色がそれを示してもいた。

それでもフェイギンの課す訓練に黙って耐えていた。

だが、生き残れるとは到底思えなかった。

いずれはスリの仕事に失敗して、殴り殺されるか、むち打ちで命を落とすに違いない。

皆がそう考えていた。

だが、彼女はいつも無事に帰ってきた。


彼女が十四歳になった年、上位組織へ編入され、初めての任務が下った。

おそらく、それが最後になるだろうと誰もが感じていた。

大英帝国海軍の一部隊と東インド会社の間で、利権をめぐる対立が起きていた。

海軍の荒くれ者たちが、香港のアヘン取引を独占しようとしていたのだという。

詳細は知らされなかった。


三十五人の暗殺者で構成された部隊。

サイラスはその指揮官に任じられた。

標的は三十名の海軍軍人。

サイラスにとってもこれほどの大規模な作戦は初めてのことであった。

ターゲットは海軍軍人、秘密裏に全てを闇に葬らなければならない。

勝負は一瞬で終わらせる必要があった。

ルナは、そのための“囮”だった。


出発の前夜、フェイギンは彼女の頭を撫でて言った。

「いいかい、ルナ。これは英国の名誉を守る大事な仕事だ。お前は、その誇りの象徴になる。さあ、なんでも好きなものを食べなさい」

ルナは白いパンをかじり、温かいスープを口にした。

それが、イギリスに来て初めて感じた“幸福”だったかもしれない。


その夜更け、彼女は指定された娼館へと向かった。

教えられたとおり、店の前でケルトの踊りを披露すれば任務は終わる。

サイラスは入口まで同行し、見送る。

化粧の濃い女がルナに目配せをし、店の中へ消えていった。


中は、笑い声と酒の匂いと、濃密な熱気で満ちていた。

「さあ、お待ちかねだ!舞姫の登場だ!」

「なんだい、子どもじゃねぇか!」

罵声が飛ぶ。

しかし、音楽が流れると空気が変わった。


ルナの体がしなやかに動く。

指先まで計算された舞い。

それは踊りというより、術だった。

彼女の身体は男たちを誘うように煽情的に動いた。

だが、彼女の瞳には恐怖が宿っている。

男たちの目には欲望の光が宿り、ルナの体を撫でまわす。

限界に達した神経が、糸のように震えていた。

...ダメ...意識が…

どんなに男たちが恐ろしくても、気を失ってはいけない。

なぜなら、また、あれが現れるからだ。

歯を食いしばったが、細い神経の糸が焼き切れる。

その瞬間、頭の奥でしゃがれた声が響いた。

「ルナ...」

...ダメ、出てこないで...

「交代だ。」

また、恐ろしいことが起こる。ルナの意識は暗い闇に消えていった。


彼女の表情が静かに変わった。

怯えは消え、瞳に冷たい光が宿る。

音楽が止み、静寂が訪れる。

男たちは息を呑んだ。

そこに立っていたのは、さっきまでの少女ではなかった。

まるで別の存在が、同じ肉体を操っているかのようだった。

彼女はゆっくりと踵を返し、外へ向かって歩き出した。

酔いと興奮に支配された男たちが、その後を追う。

蛾が灯火に引き寄せられるように。


サイラスはルナが店を出てくるのを確認した。

一人、二人と海軍の軍服を着た男たちが出てくる。

「準備はいいな!」部下に号令をかける。

馬鹿な奴らだ。自分たちが死地に向かっていることに気が付いていないようだ。

軍人たちが射程距離に入ったら一斉に攻撃だ。

確実に全員をしとめるのが任務だ。一人でも生き残りは許されない。

そのため、絨毯爆撃のようにまんべんなく、三十四人の暗殺者が一斉に汎用連射弓で攻撃を開始する。

十分射撃訓練を積んだ者たちが全員で一斉攻撃をかければ、三分間で五百射は可能であった。

生き残ることは不可能だろう。

ルナの顔がちらりと見える。

...大英帝国の誇りか…

サイラスは皮肉な薄笑いを浮かべる。

隣の戦闘員の一人が緊張した顔でサイラスの命令を待っていた。

確かスコットという、やはり今回が初めての任務の男だ。

まだ、少年と言っていい。

おそらく十六歳くらいであろうか?彼は何歳まで生き残る?

だが、十四歳のルナの命はここで消える。

それが不幸なことだとは思わない。

長生きすればするほどつらい思いが長く続くだけだ。


サイラスは最後の一人を確認した。ゆっくりと攻撃の合図の手を上げようとする。

異変はそこで起こった。


興奮して半分ズボンをずり下ろした男がルナの衣装を乱暴につかんだ。

その瞬間、少女の眼がぎょろりと男を見て、薄く笑った。

まるで魔法でも見ているようだった。

少女の手には短い棒が現れて、それを抜くと美しい曲線を持つ刀身があらわれた。

居合のように抜き払い、また収める。

次の瞬間、男の首が奇妙なほどまっすぐに上に飛び、血が噴き出す。

連続で三人の男を居合で抜き払った。

同時に三人の男たちの首筋から血がシューという音を立てて吹き出し、どさっと倒れる。

少女は棒を投げ捨て、人の身を凍らせるような壮絶な笑いを浮かべる。

我に返った男の一人が短銃を抜き、少女を撃とうとした。

だが、その弾丸が少女を貫くことはなかった。

まるで獰猛な猿のように異常な跳躍力で少女は飛び上がっていた。そしてその牙で奇声を上げながら男の喉笛を食い破った。

奪い取った短銃を素早く連射してさらに四人を倒す。

少女は口から血を滴らせながら振り返った。

恐怖と驚き。腰を抜かし尻もちをついた男の腹に少女がけりを入れる。

その靴先には刃物が仕込んであった。

男はゲボっと血を吐き絶命する。

その時には少女の手には二本のダガーが備わっており、一方的な殺戮が始まった。


サイラスはその光景に呆けたようになり、攻撃の采配を下すことが出来なかった。

いや、その必要すらないのが事実であった。

スコットが恐怖に青ざめ、尻もちをついていた。

腰が抜けたに違いない。

全てが終わるまで三分とは掛からなかった。

最後の男は抜き手で目をつぶされ、視力を失ったところに頭をこぶし大の石でたたき割られた。


...ルナ終わったぞ…

老婆のしゃがれた声が聞こえると、ルナの視界に血の海が開ける。

目に入ったものはいつもの絶望を遥かに凌駕した。

ルナには自分が生きている価値などは寸分も感じることが出来なかった。

自分はもう人間ではない恐ろしい化け物なのだ。

もう、死んだ方が良いのだろう...遠ざかっていく意識のなかで、救いのない絶望を思った。

再び意識を失い、今度はその場に倒れ伏した。


サイラスたちはのろのろと事後処理をして、気絶したルナを回収して引き上げた。

今回の仕事で参加した戦闘員には多額の報酬を約束されていた。

だが、全員の足取りは重い。

見てはいけないものを見てしまった。

皆、心の深いところに重い恐怖がしみ込むのを感じていた。


...あれは何だったんだ?…

サイラスには自分の見たものが現実のものとは思えなかった。

これがサイラスが見た初めてのルナの中に潜む、得体のしれぬ何かであった。

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