第106話 救済の闇
ロンドンのイーストエンド、霧が石畳を這うような陰鬱な夜だった。
フェイギンはいつものように、薄汚れた部屋の隅に腰を下ろし、古いランプの揺らめく光の下で、老眼鏡をかけ本のページを捲っていた。
この男の意外な趣味は読書である。
本は贅沢品ではあったが、仕事が一つ終われば莫大な金になる。
今のフェイギンにとってはさほどの贅沢ではなかった。
『白鯨』の最後のページを捲ると、いつものことながら武者震いが走る。
人はエイハブ船長のことを狂った妄執の人と言うが、フェイギンはそうは思わない。
強大な敵と戦って死ぬ。人はどうせ死ぬのだ。
であれば、エイハブ船長の死に方こそが、最高のものであるといえないか?
本を閉じるとまた、いつもの妄想が重くのしかかって来る。
血の匂いと共に。ピレネーの山岳地帯。あの忌まわしい雨の夜。
イギリス軍の赤い制服が泥にまみれ、フランスの銃弾が闇を裂く。
フェイギンはまだ二十代の若造だった。
銃剣を握りしめ、戦友のトミーの肩を叩いて笑った。
次の瞬間、砲弾が爆ぜ、トミーの頭部は霧散した。
恐怖と衝撃!血しぶきがフェイギンの頰を叩き、温かく、鉄の味がした。
あの夜、五十人以上の男たちが失われた。
だが、本当の地獄は敵の存在ではなかった。
飢えと病との戦い。
兵糧はつき、豆の葉や牛の血でしのぐ日々が続く。
飢餓で次々と兵士たちは病に倒れ、死んでいった。
やがて、人の死が日常となる。
フェイギンは自分の心はこの時、死んだのだと思った。
ゾンビのような存在になっても体は生を求める。
弱肉強食の世界で、ただ生き延びるためだけに戦いの術を学んだ。
そして、ワーテルローの田園で繰り広げられた地獄絵図。
ナポレオンの軍勢が波のように押し寄せ、イギリスの陣形がそれを食い止める。
フェイギンは歩兵として前線に立ち、剣を振るい、銃を撃ち、敵の喉を掻き切った。
だが、勝利の代償はあまりに大きかった。
戦友の半分が倒れ、残りは傷を負って這いずった。
フェイギン自身、左腕に銃創を負い、骨まで焼ける痛みに耐えた。
あの戦場で、彼は学んだ。慈悲などない。
一人生きるためには多くが死ぬ。神は見て見ぬふりをする。
戦争が終わり、故郷のコテージに辿り着いた時、家族に会えば心を取り戻せる。
そう信じていた。だが、すべては失われていた。
妻と二人の娘は、「囲い込み」で土地と家を奪われ、飢えた民と共に救貧院の檻に放り込まれていた。
フェイギンは街路を駆け回り、探し求めた。
やっと見つけた救貧院の記録。
妻の名の下に、「結核で息絶え、娘たちは栄養失調で土に還った」と記されていた。
二十四歳の妻、八歳と五歳の娘たち。
フェイギンはその場で膝をつき、吐いた。
涙など出なかった。ただ、空虚な闇に心は満たされていった。
あの時の彼に残された道は一つしかなかった。
人を殺すこと。
戦場で磨いた刃を、今度は金のために振るう。
闇の仲介者から依頼を受け、路地裏で喉を掻き切り、川に沈める。それからは組織を作り、更に人を傷つけた……
部屋の向こう側では、数人の少年たちが毛布にくるまり、浅い眠りについている。
十歳にも満たないガキどもだ。
フェイギンが少年たちに教えるのは、強くなるための技術だけだ。
そして、ここでは少なくとも腹いっぱい食うことが出来る。
この少年たちの仕事はスリであった。
捕まれば、むち打ちで済めばいい方だ。
植民地に送られ、二度と帰ってこないことも稀ではない。
フェイギンの訓練で命を落とす子供もいた。
十五歳まで生き残れば、上位組織へと編入される。
雇われて影の汚れ仕事を実行する。
その実態は暗殺行為。つまり人殺しだ。
そして、少年たちは死ぬ。
ここでは軍隊式の規律が大いに役に立った。
だが、軍隊と大きく違うところは、生き残れば豪華な食事に美しい女を抱ける。
フェイギンのもとで育ち、成人した少年たちは既に三十人を超える。
彼らはそれなりに贅沢な暮らしを謳歌することが出来る。
皮肉なことに、フェイギンの作った暗殺組織のほうが軍隊より余程ましなのだ。
だが、それを誇るつもりは毛頭なかった。
脱落して死んだ子供の数は、その数倍はいるに違いない。
フェイギンに出来ることは、生き残った者たちの権利を守ってやることだけだ。
例え、その結果、誰一人幸福になるものがいなかったとしてもだ。
今、目の前で眠る少年たちを見るたび、フェイギンの胸に棘が刺さる。
哀れな連中だ。
親のいないガキどもが、スラムの路地で這い回り、飢えに耐え、泥棒や売春に身を売る。
九歳の少年が、酔った貴族の膝の上で体を差し出し、わずかなパン屑をせしめていた。
フェイギンはその場で引き剥がし、連れ帰った。
だが、すべてを救えるわけがない。いや、救うつもりなどなかった。
救えるのは運も心も強いものだけだ。
ロンドンの闇は果てしなく、孤児は雨のように降る。
昨日救ったガキの隣で、別の少年が凍死したのを、フェイギンは知っている。
助けようとしたが、奴は怯え、逃げ出した。
弱い者は、食われる。それが掟だ。
だから、フェイギンは選ぶ。残忍になれる子だけを……
古びた扉が軋む音をたてて開く。
「ボス、呼んだか?」
「サイラス」
長身の細身だが引き締まった体躯の男。
「ああ、仕事だ。」
「報酬は?」
「ふふ……金はいくらあっても足りないか?」
サイラスはフェイギンの組織の中では、今のところ並びたつ者はいない実力者だ。
その身入りは少なくない。
黙り込むサイラスを、フェイギンは微かに笑う。
この男に限って女に貢いでいるでもないのだろう。
だが、余計な詮索はここでは無用だ。
「心配するな。レディの御用だ。金を惜しむ方ではない。」
「内容は?」
「面の男だ。サポートを三人付ける。囲い込んで確実に仕留めろ。」
「わかった。」
「待て!」
そう言って部屋を出ようとしたサイラスを引き留める。
「なんだ!まだ、何かあるのか?」
「ピエロを……連れていけ」
怖いものがないはずのこの男の顔が歪む。
「それは……必要なことなのか?」
微かに震える、幾分しゃがれた声でサイラスが問う。
「確実に仕留めろと言った。今回は他の組織に手を出されるわけにはいかん。いいな!」
サイラスを見送ったフェイギンの脳裏に、まだ見たことのない奇跡のように繁栄する、ウィットフィールド村。その情景が思い浮かぶ。
「オリバー……」
仮面の男がオリバーであるのかはもはや問題ではない。
その男が死ねばオリバーもまた死ぬ。
空しく死んでいく男の名前を呟いて、なにやら苦い悔悟の念が胸に広がっていくのを感じていた。




