第105話 帝国の野望
ロンドン、ベルグレイヴ・スクエア。
レディ・モントローズの邸宅の重厚な応接室。
微かなガス灯が、室内に集う人々の顔に長い影を落としている。
レディ・モントローズは小さくため息をつく。
小首を傾げて、モンクスたち3人を見ていた。
モンクスは背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。
露出した首筋の辺りが妙に艶めかしく、モンクスは場違いな妄想から強いて意識を取り戻す。
噂に過ぎないが、既に50近い年齢のはずであったが、その美貌は衰えることを知らないようだ。
だが、その優美な容姿とは裏腹に強大な権力を持ち、その力を行使すればモンクスを破滅させることは容易いことだった。
「モンクス君、それにエバンス君、元気そうで何よりですな。」
サー・バーナビー・フィッチ。
マンチェスター繊維連盟会長にして東インド会社顧問。
その隣にはレイヴス提督が控えている。
実質、海軍を支配するこの男は制服に身を包み、肘掛け椅子に深く腰掛けたまま、一切の感情を読ませない冷たい目で、目の前の男たちを見下ろしていた。
強大な権力と資産を持ち、議会のほぼ全てを掌握し、王室とも深い関係にあるこの3人は実質的なこの国の支配者なのだ。
「今日は急にお呼び立てしてすまなかったね。」
「いえ、とんでもございません。フィッチ様には私のほうからお伺いしようと思っておりました。」
「ほう、それは良かった。では、君のほうの用件から伺おうかな?よろしいですかな?レディ」
「良いでしょう。ですが、その話と言うのは例のドレスメーカーの事ですか?興味深いお話ですわね。」
モントローズ夫人が老提督の顔を見る。
「提督、あなたは?」
「わしはかまわん。今日はレディがご招待くださったので来たまでのこと」
「では、モンクスさんお話しください」
「かしこまりました。」
モンクスは小さくお辞儀をして話を始める。
ここでは、簡潔に分かりやすく話すのが重要なのだ。冗長な説明になっては3人の不興を買う。
だが、今「メダン・エリーヌ」の苦境を終息させるにはフィッチの力を借りる必要がある。
「まず、「メダン・エリーヌ」の件ですが、見苦しい結果となったことお詫び申し上げます。」
モンクスは手短に事の経緯を説明する。既にマスコミを通じて知れ渡っていることは極力避けながら、問題点に絞っての説明となる。話を聞き終えたモントローズ夫人がフェイギンのほうを見る。
「メアリーと言う娘ですが、阿片を飲みながら死ぬまで働くことを強要されたと?そういうことですか?」
「はい、誠に遺憾ながら....」
「それは、また、美しい光景ですこと...」
フェイギンはびくりと身体を震わせる。
レイヴスが気まずそうに咳払いをする。
この女の危険な性癖を知るこの場の者たちは努めて無表情を装う。
「ところで、フェイギン、あなたの報告ではオリバーと言う少年がサイラスと対等に渡り合ったというのですか?」
「対等という訳ではありません。しかし、妙な術を使って来るのです。」
「ふむぅ..今回の件、これほどの大騒ぎになったのはそのオリバーに原因があるとあなたは考えているのね。」
「結果としては、その通りです。」
「あなたは何故いままでその少年を放置しているのですか?例え路傍の小石であっても邪魔であれば排除するのがあなたたちの仕事でしょう?」
「その通りです。ハムステッド村にはなんどか人を送りました。ですが、その都度、奇妙な面を被った人物の妨害に会っています。手練れの用心棒です。」
「何者なんですか?」
「それが分からないのです。手を尽くして調べてみたのですが、突然現れて、そして消えます。ハムステッド村の中の人物ではと考えておりますが、村人は全員、昔からの住人です。怪しいものはおりません。」
「バカなことを、では本当にどこからともなく現れて消えると言うのですか?村人ではなかった者は本当に居ないのですか?」
「はぁ...その、一人だけおります。」
「それは誰なのですか?」
「オリバーでございます。奴は村人の一人の遠縁の子供との触れ込みですが、私共の調べでは、ロンドンの救貧院で育ち、葬儀店で奉公をしておりました。それがいつの間にかナンシーと言う老婆の孫と入れ替わっていたのです。」
「あなたらしくもない!オリバーがその用心棒その人ではないのですか?」
「それが...その用心棒が現れた時に手の者に探らせたところ、奴はウィットフィールド村にいたのです。また、一度、用心棒の腕に軽い傷を付けることに成功したのですが、直後、オリバーの腕を調べさせた者がおります。傷はなかったそうです。」
「たかだか、孤児だろう。そのものオリバーを始末すれば分かることだ。」
レイヴス提督が煩わしげに言う。
「私も提督の意見に賛成です。どうも、チャドウィック卿とブラウンロウ伯爵をたぶらかして国産の絹の生産を主導しているのはその小僧のようですからな。」
まだ、その規模は小さいとはいえ繊維業界にとっても煩わしい存在であることには違いなかった。
「モンクスさん、あなたはそのオリバーなる人物をどう見ているのかしら?」
「かなりの食わせ物、詐欺師のようなものではないかと考えております。」
「そう、フェイギン、あなたに任せるわ」
「承知いたしました。」
高々、孤児出身の詐欺師。
モンクスはそれに対して意外なほど安堵している自分を訝しく思った。
だが、ブラウンロウへまとわりつくあの煩わしい小僧がこの世から消えるかと思うと笑いが漏れそうになる。
「ところで、王室と議会の動きが些かうるさい。レディ、マスコミと王室のほうはあなたにお願いしても良いのでしょうな?」
「良いでしょう。」
モントローズ夫人は事も無げにそう答えた。
「では、議会の多数派工作は私のほうでさせて頂きます。モンクス君、エバンス君、君らにも協力してもらうよ」
二人は内心の動揺を隠しつつ無表情に答える。
「承知いたしました」
金を出せ。そう言うことに違いない。だが、見返りも期待ができる。議会への影響力を持つことの重要性は言うまでもない。
「一言だけ言わせていただいてよろしいですかな。」
レイヴス提督が立ち上がる。
「どうぞ」とモントローズ夫人が促す。
「議会では『女性労働者保護法案』の審議が騒がしく、国内の仕立て屋はストライキに突入し、挙げ句の果てに、王室は社交界の凍結を発表した。このような下層階級の制御不能な激情は、帝国の秩序に対する重大な冒涜です。」
「全く、その通りです。ですが、海軍にとって不利になる法案が通ることは決してありませんのでご安心ください。」
「うむ」と頷いてレイヴスは空きかけたスコッチのグラスを一気にあける。
「では、モンクスさんのお話はそう言うことでよろしいですわね。」
モントローズ夫人は妖艶に笑ってモンクスたち3人を見る。
「はい、ありがとうございます。望外のご配慮に感謝に耐えません」
次にモントローズ夫人の話を聞いてそこにいた全ての者たちは身を震わせた。
それは、造船と銃器、特に最新のアームストロング銃の生産の独占。それが意味するところは、これらの産業に連なる全てのサプライチェーンは夫人の傘下に入るということだ。
だが、彼女の目論見はそれだけではなかった。
「提督、東方の奥深く、黄金の国の支配権は、海軍の手に握られるべきですわ。そしてエバンスさん、そちらの市場はすべて貴方に差し上げましょう。もちろん、利益は分かち合いますが。」
エバンスは恭しく頭を下げる。
「うむ、レディのご配慮に感謝いたしますぞ。海軍は全力でそれを支持することとなるでしょうな」
レイヴスは愉快そうにスコッチのグラスを再び空ける。
モンクスの顔が一瞬、朱に染まる。
…阿片の権益か…..
エバンスがタイ西部に盛んに投資をしていることは知っていたが、それほど大きな目論見があるとはおくびにも出さなかったからだ。
そして、レイヴスの頭には「ビルマ皇帝」と言う言葉が既に入っていたのだ。
激しい反英抵抗が絶えないビルマ。
東インド会社がインド皇帝になったように、イギリス人がビルマ皇帝となる。
それらのことを含めて、夫人の目論見はアジア、アメリカ大陸、ヨーロッパ全域での紛争を誘発することを示唆している。
モンクスは愕然となる。
自分ただ一人が、取り残されるのではないかと危惧した。
そもそも、資金力ではモンクスはエバンスには遠く及ばない。
そのことが彼との大きな差となって現れた。
叔父のブラウンロウ...巨万の資産を持つ人物だ。
その資産を、どうしても欲しい。
この時、モンクスはそれを強く願った。
その冷徹な野望とは裏腹に、夫人の顔は美しく薔薇色に輝いていた。
大英帝国の栄光と繁栄は恒久のものとなるのであろう。
この一人の魔女のもとで...




