第102話 臨死
【コルチゾールの分泌が停止しました。ストレス反応なし。時間次元軸の圧縮が開始しました。10倍、100倍、……2億9876万8121……安定。】
【思考速度を調整してください。……成功しました。】
暗黒だった。
【ドーパミン分泌開始……ドーパミン感受性の増大を検出……内面世界構築開始を確認】
突然、闇の向こうに小さな光が灯る。
やがてそれがトンネルの出口であることが分かる。
【《超共感》を発動してください】
そこにメアリーが立ち、光を見つめていた。
オリバーの視点が彼女に重なる。
【モニタリングを開始します】
【共感値:0% 心的エネルギー消費:0%】
彼女は不思議そうに周囲を見回し、ゆっくり歩き始める。
出口の明かりは徐々に大きくなり、長いトンネルを抜けると、無限に広がる美しい花畑が現れた。
今まで感じたことのない解放感。
暖かい太陽の光、やさしく肌をなでるそよ風が心地よい。
……気がつけば、メアリーは幼い少女の姿になっていた。
「メアリー、買ってきたよ。あんた、これが欲しかったんだろ」
母が、数枚の紙と鉛筆を差し出してやさしく笑う。
「きゃー!」
メアリーは歓喜のあまり奇声を上げ、母に抱きついた。
【共感値:10% 心的エネルギー消費:5%】
「ねえ、お姉ちゃん……」
ホリーが甘えるようにスカートの裾を引っ張る。
「仕方ないわね。でも、いいわよ。作ってあげる」
はしゃぐホリーが愛おしかった。
メアリーが紙に描いたデザインを母に見せると、母は一緒にメアリーのお古で縫い上げてくれた。
ロンドンのドレスメーカーのウィンドウに飾られているような子供服に、父が笑ってメアリーの頭を撫でる。
「メアリー、お前は天才だな」
その夜、母の焼いたパイを家族で食べながら、得意げに歩くホリーを、皆で手を叩いて笑った。
【共感値:50% 心的エネルギー消費:15%】
ロンドンのドレスメーカー「メダム・エリーヌ」。
「メアリー、あんた大したもんだねえ……惚れ惚れする仕上がりじゃないか?」
サラが完成したドレスに憧れの目を注ぐ。
「手を休めるんじゃないよ。納期が迫ってる」
お針子監督のネリーが怒鳴る。
ここでは、いつも罵声と屈辱、蔑みと疲労、空腹が付きまとった。
だが、ドレスが縫い上がる一瞬だけは、小さな満足感で満たされた。
【共感値:70% 心的エネルギー消費:25%】
ホリーがクッキーや干し肉、チーズを隠して持ってきてくれるようになった。
ネリーの隙を見て、二人でクッキーと、とても甘い蜂蜜入りの紅茶を飲む。
「おいしい!」
「……でしょう」
見つかる前に飲み終え、二人でくすくす笑った。
頼まれていたドレスをホリーに渡すと、子供の頃のように大喜びして抱きついてきた。
「こちらこそ、ありがとう」と、メアリーは心の中でホリーに感謝した。
デザインし、丹精込めて縫い上げる。
それは楽しかった。どれほど救いになったことか。
誰かが挫けそうになると、メアリーは背をさすって慰めた。
皆の表情が、少しだけ穏やかになる。
月日が経ち、メアリーは皆の心の支えになっていった。
ネリーはそれを見逃さない。
メアリーに仕打ちを集中させる。
そうするだけで、皆は苦しげにそれを見て、そして手を速めた。
「すまないね、メアリー」
ベティが苦しげに目を見て言う。
「苦しいのは、みんな一緒だよ」
境遇は、多少の差こそあれ同じだった。
【共感値:80% 心的エネルギー消費:35%】
やがてホリーの来訪は禁止され、会えなくなる。
それでもホリーは、毎週日曜の開店前にクロワッサンとコーヒーを片手に、店のドレスを眺めに来た。
メアリーのデザインした黒のドレスをまとい、気取って歩く姿が可笑しく、誇らしかった。
その頃から、店主カリマにデザインの手伝いを命じられる。
不安だったが、鉛筆を持てば何もかも忘れられた。
ひとつひとつを丁寧に仕上げる。
その中の一着が女王陛下に献上されたと漏れ聞き、心が温かくなった。
想像上の王女殿下が現れて、メアリーに注文を告げる。
そんな空想に心を遊ばせるようになる。
【共感値:90% 心的エネルギー消費:50%】
個室に移される。
「然る高貴な方」の結婚式のドレスを、五日で仕上げるよう命じられた。
心が高揚する。
ネリーが毎日持ってくる紅茶を飲むと、なぜか疲れも空腹も感じない。
目がかすみ、身体が自分のものではないようだ。
メアリーは、自分の生命をすべて作品に注ぎ込もうと思った。
命が削られるほどに、天界の天使が与えるようなインスピレーションが降りてくる。
夢中で鉛筆を走らせる。
カンバスは美しい光に包まれ、
一瞬、王女がそれをまとって歩く姿が見えた。
メアリーはそれを見て、幸福そうに笑った。
あと、わずかで共感値が100%になるはずだ。
オリバーは祈るようにその瞬間を待った。
だが...
【生命終了までのカウントダウンが始まります。ミッションは失敗です】
待ってくれ! ホリーはどうなるんだ。
メアリーと同期していることも忘れ、オリバーは絶叫した。
【同期が解除されました】
メアリーは首を傾げる。
「ホリー?」
伝えたい。かなわない望みが、胸に残った。
足元で、金色の毛並みの小犬が悲しげに鳴く。
「あら?」
見覚えのある子犬...夢の中でホリーの元へ導いてくれた存在。
「子犬さん、また私を助けてくれるの?ホリーに会わせてくれる?」
【三連同期を推奨します】
…わかった。手順は?..
【『天眼智』でホリーとメアリーに同時同期してください。時間経過速度が大きく異なります。ホリーの夢に干渉し、強制的に時間速度をメアリー側へ同期します】
意識をウィットフィールド村の工場へ飛ばす。
幸い、ホリーは眠っていた。
夢の中のホリーは子供の姿で、納屋に隠れ、平らに削った板に何かを書きつけては、ため息をついていた。
【時間軸の同期に成功しました。あとは簡単です。同期を実行してください】
オリバーを経由し、ホリーとメアリーの意識が結ばれる。
ホリーの見ていた板切れは、見事なデザインが描かれた画用紙へと変わる。
「ホリー」
「えっ? 姉ちゃん?」
隣に、子供の頃の姿のメアリーが立っている。ホリーは不思議そうに目を丸くした。
「ホリー、一緒に描こう」
ホリーは嬉しかった。
また、二人でドレスが描ける。
夢中で二人は描き続ける。
これを、どこかの王女が結婚式でまとうのだ。
心が高鳴る。
「はあ……できたね」
二人は同時に大きく息を吐く。
息をのむほど美しい結婚衣装。
これを着てバージンロードを歩く姫は、きっと歴史に残る。
「ホリー、ありがとう。これだけ……あなたに伝えたわ」
ホリーははっとして、永遠の別れを直感した。
「姉ちゃん、なんで……姉ちゃんが……」
悲しそうに震えるホリーを見て、メアリーはやさしく微笑んだ。
「ホリー、違うの。私は幸せだったのよ。だから泣かないで」
彼女の人生には、幾つもの障害があった。
人はそれを不幸と呼ぶだろう。
けれど今、心から言える。
それはかけがえのない、価値ある日々だったのだと。
それだけは、ホリーにわかってもらいたかった。
「ホリー。私に会いたくなったら、いつでもここに来て。
何も、寂しくなんてないわ。」
メアリーの言葉は光となって、夢の空間に溶けていった。
最後の仕上げ――メアリーの生命が、すべて作品へ注がれていく。
その、満ち足りた幸福感。
ホリーの頬から、大粒の涙がこぼれてくる。
【世界の崩壊が始まります。至急、同期を解除してください】
「姉ちゃん……!」
ホリーの悲痛な叫び。
「子犬さん。願えるのなら、ホリーのことを……」
同期が切れる。
世界がゆっくりと光の粒子となって拡散していく。
工場の寮の部屋で、一人泣きながら眠るホリー...
そしてメアリーは、未完成のデザインの前で、静かに息を引き取っていた。




