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第100話 再び暗転

ロンドン、朝の十時過ぎ。

霧の残滓が石畳の隙間に漂い、高級ドレスメーカー「メダム・エリーヌ」は扉を閉ざしたまま、重々しい静けさに包まれていた。

厚いシルクのカーテンの隙間からは、これ見よがしに豪奢なドレスが覗き、微かにベルベットと香油の匂いが流れ出ている。

開店前の店舗に入るのは気が引けるなどと考えている余裕は、オリバー一行にはなかった。

オリバーは拳に力を込めて扉を叩いた。

返事はない。

今度は怒鳴るように叫ぶ。

「メアリーさん! 出て来てください、話があります!」

ダメもとだった。

阿片中毒が進行したメアリーに、外の呼び声が届くとは思えない。

これで諦めるなど論外だ。

『天眼智』を発動する。人の気配は感じられないが、中には確かに人がいる。  

オリバーが何度も叫び続けるうち、周囲の通りの者たちが次第に足を止めた。

掃除をしていた小僧、納品に来た男、通りすがりの婦人……みな、騒然とする店先に目を向け、ざわめきが広がっていく。

やがて扉が開き、一人の中年女が姿を現した。

カリマ・ギャバンだ。

その後ろには、女とは思えぬほど逞しい体躯の女と、屈強な男たち数人。全員が油断なく、オリバーたちを睨みつけていた。

その中には昨夜、オリバーと戦った男の姿もある。  

カリマはオリバーを見てギョっと顔を強張らせる。だが……

「まだ開店前だよ。出直してきてくれるかい?」

すぐに気を取り直したように嘲る声で言い放ち、鼻で笑った。

オリバーの背後にいた弁護士ディックスと医師トーマスをじろりと見る。  

「メアリーさんに会わせてください」

オリバーが言うと、カリマは眉を上げた。

「メアリー?はて、そんな娘がいたかねぇ?……ネリー、あんた知ってるかい?」

「はい、マダム。メアリーでしたら作業中です」

「そういうわけだよ。今は猫の手も借りたいほど忙しいんだ。悪いけど、お引き取り願えるかい?」  

「ちょっと待ってくれ。メアリーという娘の診察をさせてもらう。これは彼女の妹からの依頼だ」

トーマスが前に出た。

「旦那様は?」

「私は医師のトーマス・マッコイ。もし診察を拒否してメアリーに何かあったら、あなたは後悔することになりますよ」  

「メアリーが病気?……そうなのかい、ネリー?」

「いえ、少なくとも今は仕事をしています」

「そうかい。それじゃ悪いけど、様子を見てきてくれるかい?本当に診察が必要なくらい悪いのかどうか」

「承知いたしました、マダム」

ネリーが奥へ入り、すぐに戻ってきた。

「メアリーは作業が忙しいそうで、誰にも会いたくないとのことです」  

「そういうことだ。お引き取り願いますよ」

「そうはいかん。診察だけでもさせてもらう」

トーマスが強引に踏み出すと、用心棒たちが立ちはだかった。

「どきなさい!」

トーマスの声は怒りに震えたが、男たちは微動だにしない。  

カリマが冷ややかに口を開く。

「先生、ここは私の店ですよ。勝手に入るなら警察を呼びますが。あら、もう来てるじゃないの?」  

…後ろの男たちは雇われた用心棒か?..

【そう考えるのが適切です】  

「わしが話そう!」

ディックスが前に出て、封蝋のついた書状を掲げた。

「これが裁判所の仮保護命令書だ。正当な手続きに基づく」

「ほう、立派な紙切れだこと。だがね、メアリー自身が会わないと言ってるんですよ。それを家族でもない人間に渡せるわけがないでしょう?私にも責任ってもんがあります」

「命令書を無視すれば罪に問われますぞ!」

「ご自由にどうぞ。私は騙されませんよ」  

押し問答が続き、時間だけが過ぎていく。貴重な時間が、霧のように溶けていく。

「やむを得んな……強制執行をお願いできるか?」

ディックスが警官に命じる。

警官は頷いて一度署へ戻った。  

「よし!これでやっとメアリーさんに会えるな。良かったな、オリバー」

ジェームズが笑顔でオリバーの肩を叩く。

だが、ほどなく戻ってきたのは別の警官がひとりであった。

「強制執行は所内で検討したのですが、明日以降になりました」

「なんですと?理由は何です」

「実は然る商会へ強盗が入ったようで、そちらの被害が大きいようなんですよ。申し訳ありませんが、こちらに捌く人手がないのです」  

「待ってくれ。こちらは人の命がかかっている!緊急なんです!」

ディックスの声が通りに響く。

だが警官は帽子を下げ、申し訳なさそうに立ち去った。

「そんな……診察だけでも」

「だから明日来な!店の前で騒ぐんじゃないよ。営業妨害で訴えるからね!」

カリマが冷たく言い放つ。  

「待ってくれ!あんたはメアリーを殺す気か!」

オリバーが叫ぶ。

「お黙り。言いがかりにもほどがあるよ」  

怒りが爆ぜた。

「オリバー!もう強行突破だ!」

ジェームズと二人の記者が叫び、用心棒の群れに突っ込んだ。

だが次の瞬間、三人は地面に叩きつけられていた。

戦闘能力の差は圧倒的だった。  

「そんな真似をすれば営業妨害ですよ!」

カリマの声が鋭く響く。  


...ヨーダ、この状況をどう思う?..

【カリマの強気は少し不自然ですが、彼女の背後にもっと大きな後ろ盾があると考えるのが、適切です】

...なるほど、警察に手を回したのも、後ろにいる男たちを雇ったのもそいつかか?..

【そう考えるのが妥当です】

...誰だよ?何のために?..

【あなたのこれまでの行動はこの国では異端であることを自覚するべきでしょう?】

...工場の職場環境を合理化しただけじゃねぇかよ..

【この国は海軍、貿易商などの利権に代表される中央集権的な勢力により支配されています。一方で、あなたの行動はその利権を分散化させることで国力を増強しようとする試みです。両立は不可能です】

...なんで、そんなことでメアリーがこんな酷い目に遭わなければならないんだ?..

【運が悪かった……としか言いようがありませんね】

...運が悪いで済むかよ!良いから、打開策を考えろよ..

【では、状況を分析してみましょう。敵の戦闘力はこちらより上です。強行突破は不可能です。残念ながら強制執行も警察を抑えられたので、不可能です。明日も恐らく執行が行われることはないでしょう。『威圧』、『恫喝』などのスキルで突破も、戦闘レベル10の男がネックとなって不可能です】

...じゃ、打つ手がないのかよ?..

【既に、『超共感』と『生存限界』で回復させる方法は阿片の影響で不可能です。それと残念ながら、メアリーの状態は既に回復不能なところまで悪化しています】

...なんだって! 今日中なら間に合うはずじゃなかったのかよ?..

【カリマは阿片の量を増やしたようです。タイムリミットは早まったと考えるべきです。それどころか、いつショック症状で死亡しても不思議ではありません】

...そんな……。..

絶望的な状況に衝撃を受けた。

胸の奥で、何かが砕け散る音がした。

「オリバー?おまえ大丈夫か?」

真っ青な顔で今にも倒れかかりそうなその立ち振る舞いに、トーマスが心配そうにオリバーを見ていた。

ホリーのあの嬉しそうな顔を思い出すと、絶望感に後ろめたさと激しい後悔が加わった。

ドヤ顔でぬか喜びをさせた自分のバカさ加減が許せなかった。

あの笑顔を、永遠に曇らせることになるのか。  


オリバーの眼光が鋭くなった。

【無駄ですよ】

ヨーダのその言葉に耳を塞ぎ、スキル『威圧』をレベル1で発動する。

カリマが「ひっ!」と悲鳴を上げて腰を抜かした。

...が、昨日の男がカリマをかばうように前に出る。

「おまえ、何のつもりだ」

オリバーの『威圧』が正面から跳ね返してくる。

『威圧』をレベル10まで上げると、その男以外はたじろぐのがわかったが、その男は冷たい目でそれを受けた。  

「どけ!」

オリバーは低く怒りのこもった声で恫喝する。

だが、男は目を逸らすことはなかった。

「ダメだ!帰れ」

男の低い声が響く。  

男とにらみ合うオリバーの肩に、ディックスが手を置いて力なく首を振った。

「オリバー、一度、帰るぞ」  

ダメだ!ディックスさん、メアリーは明日までもつかどうかわからない。

オリバーは心の中で悲鳴を上げた。

重い絶望が、全てを飲み込んでいく……。


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