これでいいと言われた令嬢は、いつか誰かに望まれたい【後日談追加】
2024/12/23 活きのいい後日談を追加しました。
ざまぁのお時間です。
「これでいい」
そこにどんな思惑があろうとも、指名されたならば断ることはできない。
妥協したと言わんばかりの発言に、お父様の眉間に皺が寄り、お母様の扇子を握る手に力が籠る。
周囲で成り行きを見ていた大人達も、誰もが表情を落としていた。
両親や兄が可愛らしいと言ってくれるのは家族だからであって、王家や高位貴族の方々から見たら及第点ぐらいの外見は特に秀でたところなどなく、名だたる家門に連なる家でもない、目立たない伯爵家の長女ヘレーネ。
第一王子と第二王子、二人の婚約者を決めるお茶会の場で第二王子が指で差したのは、そんなヘレーネだった。
*-*-*
「ヘレーネ嬢は兄上が婚約者として子爵令嬢を選んだのを知っているかい?」
「はい。帝国より留学されているレオニー様でございますね」
咲き誇らんとばかりに花々が生を興じる温室の庭で、第二王子であらせられるケヴィン殿下と向かい合せに座れば、すぐに殿下付きの侍女達がお茶の準備を整えてくれる。
卒業に向けてお忙しいらしく、三ヵ月程空いた定例のお茶会でお会いしたケヴィン殿下はどことなく落ち着きがないように見えた。
その理由を察しているヘレーネとしては、この後にあるケヴィン殿下の言葉をただただ待つばかりでしかない。
「ヘレーネ嬢は、私が君を選んだ日を覚えているだろうか」
唐突な言葉の真意を読み取ろうとケヴィン殿下を見つめ、そうしてからヘレーネは頷くことで肯定する。
「殿下から直接婚約者としてのご指名を賜りました、あの日を忘れたことはございません」
お茶会に同席されていた王妃殿下から窘められてもなお、兄上の平和な治世の為に自分が邪魔にならないよう、可も不可もない令嬢を選んだのだと、誇らしげに声を張り上げて発言の撤回をしなかったケヴィン殿下。
なけなしの矜持を傷つけられたとか、たかだか伯爵位の中でも目立たぬヘレーネが選ばれたことに喜びを感じているから憶えているわけではない。
よくこの話を蒸し返されるからなだけである。
確かにヘレーネの心の中にある淡くてキラキラとした憧憬にも似た感情は、ケヴィン殿下の悪気ない一言で割れた硝子のようになってしまったが、貴族の婚姻はそういうものであることも理解している。
意に沿わぬ相手であっても家の利益になるか、もしくは逆らえぬ上位貴族の指名によって嫁ぐことはあるのだ。
ヘレーネは誰よりも早く体験しただけに過ぎない。
それでも政略結婚だった両親の仲が良いのを見ていると、色々と思わないわけでもないのだが。
「王太子となられた兄上より家格が上の令嬢を娶るとなれば、兄上とさして年の変わらない私では後継者争いの種を撒くことになる。
私が兄に対して邪な感情を抱いていないのだと周囲に知らしめる為には、兄上の婚約者よりも下位の令嬢が私の横にいなければならないのだ。
君なら理解できるだろう?」
「さようでございますか」
声が平坦に均される。
自分を選んだ人間から解消を告げられているのだ。ヘレーネの声に淑女らしい声音が失せていても、誰もがショックを受けているのだということで済ませてくれるだろう。
勿論、ヘレーネだってさすがに少々傷ついてはいる。
ケヴィン殿下は色々言っているが、そこに自身の下心が無いと言えば嘘になるのだから。
ただただ相槌を打つだけのヘレーネを気にすることなく、ケヴィン殿下の言いたいことは続いていく。
「そもそもヘレーネ嬢は私の婚約者として、早い内から王子妃教育を受けていたにも関わらず、本来終わっているはずの王子妃教育が完了していない。
それは君の努力が足りないか、王子妃としての素質がないと評価せざるを得ない」
確かにヘレーネの王子妃教育は終わっていないし、開始した時期を考えれば遅いともいえる。
「終わってないとはいえ、今まで王子妃教育を受けていたという実績があるから、17歳になって婚約者を探すには出遅れた君でも相応の縁談が持ち込まれるだろう。
だから私との婚約は解消するつもりだ」
一方的な会話は終わったらしい。
既に決まったことだといわんばかりにヘレーネを見るケヴィン殿下に返せる言葉は少ない。
「婚約解消は国王陛下も王妃殿下もご存知であるということでよろしいでしょうか」
「君が頷きさえすれば、すぐにでも父上達に面会を申し込むつもりだ」
つまりは独断である。
それは順番が違うのではないかと言いかけて、ヘレーネは口を閉じた。
あの日と同じ。そこにどんな思惑があろうとも、ケヴィン殿下に対して意見が通ることなどないのだから。
「ケヴィン殿下の仰りたいことはわかりました。
私自身は殿下の婚約者という役割から降りることに問題ありません」
「ヘレーネ嬢ならそう言ってくれると思っていた。
必要であれば縁談相手を探すのも協力しよう。
ああ、そういえば初めて会ったお茶会でも、どこぞの黒髪の令息に話しかけられていたな。
もしかしたらヘレーネ嬢と縁を結んでいいと思ったのかもしれん。名前は?婚約者がいるのか確認するぐらいの協力はしてもいい」
余程自分に都合の悪いことを誤魔化したいのか、まさか数年前に名前すら聞けていない令息の話題を出されるとは。
存じませんので結構ですわと短く返し、音もなく茶器をテーブルに戻すとヘレーネは立ち上がった。
まだお茶会が始まって間もないが、用件は全て済んだとヘレーネは判断している。
もうここに来ることはない。
少なくともケヴィン殿下に会いに来ることは金輪際ないだろう。
喜色を隠そうとしないケヴィン殿下に対して、場を辞するための礼をする。
少しだけ意地悪をしたい気持ちになったが、こればかりはヘレーネの意地が悪いのではなく、いつだって自分の思い付きが正しいと信じてやまない、自身の中に在る狡さを見ない振りして思い込みの激しい少年のままに育った殿下のせいだ。
侍女達だって見ない振りをしてくれている。
「父に急ぎ婚約解消を報告しなければなりませんし、本日はこれで失礼致しますわ。
どうぞ、殿下の想い人でいらっしゃるルイザ・ベッカー男爵令嬢と幾久しくお幸せに」
ヘレーネも通っている学園の中で、ケヴィン殿下と秘密の恋をしていると噂の相手の名前を挙げ、ぽかんとした顔のケヴィン殿下を置いてヘレーネは歩き出した。
*-*-*
「ヘレーネ様の良さがわからないなんて、本当にケヴィン殿下の頭は弱いのね」
儚げな雰囲気が庇護欲を掻き立てると評判の美少女が、不敬とも取れる辛辣な言葉をあっさり吐き捨てる。
王太子に選ばれた幸運の申し子、シュミット子爵令嬢レオニーとのお茶会の始まりは、いつだってこんな感じだ。
留学してきた彼女が困らないようにとサポートする役割を与えられたヘレーネだったが、真逆の性格をしたレオニーと思いの外仲良くなり、今では友人として気軽にお茶を飲み合う仲にまでなっている。
彼女がケヴィン殿下の兄君であるコンラート殿下に求愛されたことから、王子妃同士支え合いましょうと約束した矢先の出来事だ。
話を聞いた瞬間の、彼女の怒りはとてつもなく恐ろしいものだった。
「私の良さというのはわかりませんが、殿下の成績はよろしいのにどうしてこうなるのでしょうか」
数知れずとなった溜息はもはや落とすことはないけれど、この数年を振り返って溜め息の数だけ心は摩耗していた気がする。
「ただ教わったことを頭に詰め込むだけの作業を『勉強』と呼べるのかしら。
勉強は知り、理解し、そこから考えることよ。あれを勉強だというのならば、世の哲学者たちは皆、世を儚んでしまうわ。
結局コンラート殿下だけではなく、陛下や王妃殿下までケヴィン殿下を説得しようとしたけれど、全く聞く耳を持たなかったそうよ。
都合の悪いことが聞こえないのは、ここまでくると一つの才能ね」
不敬ですよとレオニー様を窘めるも、一国の姫君のような気品を漂わせて笑うだけ。
この方がどれだけ勝気に振る舞われても、誰もが仕方がないと思うのは生来備えたカリスマ性と、誰にどこまで許されるのか見極めての発言だからこそ。
だからか、王太子であらせられるコンラート殿下に選ばれても、周囲からいじめに遭うということもない。
我が国の貴族は正しくわきまえていることを知っている。とても良いことだ。
レオニー・シュミット子爵令嬢は真実、子爵位を持つ父親の娘で間違いないが、同時にそれを鵜呑みにすれば痛い目を見るだろう。
王太子であるコンラート殿下が選ばれたのだ。ただの令嬢のはずがない。
誰もがすみやかにレオニーについて調べ、彼女の立場を理解すれば丁重な扱いをしている。
未だ勘違いしているのはケヴィン殿下くらいなものだ。
従者にも再三進言してもらっていたが、愛する男爵令嬢を婚約者に据えることに頭が一杯だったのだとヘレーネは思っている。
ヘレーネも同じ派閥の侯爵家からレオニーの友人役を仰せつかった時点で、父親に報告して調べてもらっている。
だからレオニーの子爵令嬢という立場は間違いないものの、そう遠くない時期に祖父である侯爵が引退すると同時に、レオニーの父親が侯爵となるのを当然知っている。
間もなく彼女は侯爵令嬢となるので、王太子と結婚するのも身分的には問題ないし、そもそも帝国はフォーゲルザングと比べて遥かに大きな国だ。フォーゲルザングという国の規模は、帝国の公爵領一つと同じ程度でしかない。
そんな大国の子爵令嬢ともなれば、伯爵令嬢であるヘレーネよりも立場は上となるのだ。
その証拠として、レオニーは留学という期間が決まった滞在にも関わらず、ヘレーネ達伯爵家の住む屋敷よりも立派な邸宅で使用人に囲まれて暮らしている。
彼女をただの下位貴族扱いする生徒なんてほとんどいないし、いたとしたら情報収集能力が高くないと判断されるだけ。すぐにクラスから浮いた存在となって友人と疎遠になる末路が待っているだけだ。
そういった事情から気安い友人として過ごせる相手が少ないとレオニーは嘆いているが、あまり誰彼構わず仲良くされると護衛達も大変だからちょうどいいくらいだろう。
ヘレーネも日々を恙無く過ごせるようにと、気を張り過ぎたままでは疲れてしまう。
「あまつさえ、婚約者選びのお茶会でのことまで思い出して、自分の都合良く事が運ぶようにヘレーネ様を誰かに押し付けようなんて。
まあ、いいわ。これでヘレーネ様は自由ですもの。
ご両親も安堵されているのではなくて?」
歯に衣着せぬ物言いに苦笑だけ返し、お茶へと角砂糖を一つ。
そっとかき混ぜれば、砂のように崩れて溶けていく。
「そうですね。伯爵といっても長い歴史があるわけでも無いですから王家から選ばれるような家でもなく、だから父は肩の荷が降りたとは言ってくれているわ。
後継者に兄がいますし、無理してすぐに婚姻相手を決めなくてよいとも」
家族の仲は良好であるし、兄の婚約者からは一緒に暮らしましょうという手紙も頂いているので、結婚できなければ領地の隅にでも置いてくれるか、修道院に寄付をするなりして便宜を図ってくれるだろう。
この国の貴族は大体十五になる頃には婚約者が決まっている。
決まらないのは何らかの問題があるか、没落目前であったりと家か本人に過失がある場合だけだ。
そう、と言ったレオニーが身を乗り出す。
「丁度いいわ。ヘレーネ様に紹介したい人がいるのよ」
レオニーが後ろを振り返って「アルノルトを呼んできて」と侍女に言いつければ、程無くしてヘレーネ達とそう年齢の変わらない青年が姿を現した。
帯剣していることからレオニーの護衛だろうか。
短い黒髪に切れ長の瞳は琥珀の色をして、帯剣した姿と相俟って鋭い刃物のような印象をヘレーネに与えた。
「アルノルト・ベルク伯爵令息。れっきとした帝国貴族の一員よ。
お祖父様の派閥なのだけど、以前にへレーネに会ったことがあるって言うから連れてきたのよ」
「私に?」
レオニーの言葉に戸惑い、思わずベルク伯爵令息と呼ばれた青年を見る。
名前に聞き覚えがない。
帝国からの留学生名簿に名は無かったはずだから面識があるとは思えないが、不躾にならないように彼を見つめれば、どこかで出会った気がしないでもない。
「憶えていないとは思いますが、確かにヘレーネ嬢に一度お会いしたことがあります」
「申し訳ありません。
無礼を承知で申し上げるのですが、ベルク伯爵令息とお会いした記憶がなくて。
以前にどこかの夜会や留学生交流会などでご挨拶させて頂いたでしょうか」
いえ、とアルノルトが首を横に振る。
王子妃になるのに必要なことだからと、どのような場であっても初対面の方と挨拶を交わす度に、後でノートに書きつけて忘れないようにしている。
少なくともそういった出会いで控え忘れたわけでもなさそうだ。
では、一体どこで。
「今の私は帝国の貴族ではありますが、かつてはフォーゲルザングで貴族の一席に座っておりました」
どことなく照れた風な笑みを知っている気がしてならない。
「殿下達の婚約者を探すお茶会の席で、話しかけようとした貴女をケヴィン殿下に奪われた愚かな令息が私です」
あ、と思わず声を漏らした。
殿下がヘレーネに声をかける直前に現れた、黒髪の令息。
「あの時の令息が貴方だったのですか?」
あの時に招待されていたのは、国内の貴族令息と令嬢だけだ。
令息は側近に。令嬢は婚約者に。
そのため他国からの貴族は招待されていなかったが、以前はフォーゲルザングの貴族だったのだとしたら、当然参加はしていただろう。
「当時の私はフォーゲルザングのとある侯爵家の次男坊だったのですよ。
帝国から嫁いだ母の生家の方にて子どもに恵まれず、そのため私が養子となりました」
「そうだったのですか」
それならば確かに顔を合わせたこともあると言える。
まさか先日殿下が話題にした令息が、こんなタイミングで現れるなんて思ってもみなかった。
「あの時、勇気を出して話しかけるのがもう少し早ければと、ずっと思っておりました」
切れ長の瞳は細めると甘やかな空気を眦に乗せる。
「こうして再会できましたのも何かの縁。
今度こそお近づきになる機会と、そして美しくなられた貴女へ婚約を申し込む権利を頂きたく」
アルノルトの言葉に、ふるりと体が震えて目を逸らす。
これでいい。そう言われ続けたヘレーネには迷いが生まれる。
彼の言葉を信じるのが怖い。
「私は、これでいいと妥協される程度の者ですわ」
ヘレーネの言葉に痛まし気な表情になったアルノルトが、首を横に振って否定する。
「あの発言は酷かった。王家相手ゆえ抗議が許されなかったですが、誰もが可愛らしい貴女を心配していましたよ。
私の友人達も殿下の見る目が無いと後で言っていたものです」
今もですけど、と言われた言葉に思わず笑う。
「貴女から自信を奪い取ったあの方は、いつか失ったものがどれだけ大切だったか知るでしょう。
これでいい、なんて言えるわけがない。私はヘレーネ嬢がいいのです」
息が止まる。
唇が震えそうになる。
差し出された手の先で、真摯な眼差しがヘレーネを見ていた。
「私にチャンスを与えて頂けるのならば、どうかアルノルトと。
私は貴女にそう呼んでほしい」
あの日、これでいいと言われる程度の価値しかない令嬢になった気がした。
それからもずっと妥協した相手はヘレーネを見ることなく、今度はこれじゃないと婚約解消を告げたのだ。
思い込みが強く、自分勝手で、不誠実な方。
けれど、そうではないのだと言ってくれる人がいる。
家族だって、レオニーだって、そして彼だって。
たった一人の言葉に傷ついて、諦めて生きるのはもう止めたい。
アルノルトの手にそっと自分の手を重ねる。
「まだ、すぐには自信を取り戻すことはできないのですが、それでもアルノルト様と一緒でしたら変われる気がするのです」
開かれた目が再び細められ、嬉しそうに、本当に嬉しそうにアルノルトが笑う。
つられて僅かに微笑んだヘレーネが、春のような笑顔を浮かべるのは少し先の話である。
*-*-* 後日談 *-*-*
この日、第二王子であるケヴィンは父である国王に時間を都合してもらい、新しい婚約者の話をしようと指定された応接室に向かうところだった。
ヘレーネ・ヴィンターに婚約解消を伝えてから、思ったより時間がかかってしまった気がする。
婚約解消にあたっては、書類に国王と伯爵家当主がそれぞれに署名をするだけでいいはずだと思っていたのに。
国王が忙しいのも知ってはいるが、まさか話し合いの場をわざわざ設けたのには驚いたが。
話し合いの後、ようやく手続きが始まってから数えて二週間。
たかだか伯爵家なのにとケヴィンとしては不満だった。
ヘレーネと婚約を解消すると言ってから手続きを待つ間に、最愛のルイザがあまり会ってくれなくなったことも影響しているのだが。
きっとケヴィンからの求婚が待ちきれなくて、拗ねたふりして困らせようという作戦なのだろう。
でも、それも今日で終わりだ。
兄であり王太子のコンラートの婚姻準備で忙しいので日が空くかと思っていたが、翌日には予定が整えられたことに運の良さを感じながら向かった先、王家の者だけが使用する応接間で珍しく家族が全員揃っていた。
現在王家直系と配属者となるのは、父と母、そして兄と弟にケヴィンだ。
思慮深いと評判の兄が子爵令嬢なんかを連れてきたのだ。
もしかしたら、ケヴィンの婚約者をどうするか相談したかったのかもしれない。
ケヴィンは察することに長けており、そして配慮できることを自負している。今回ケヴィンが選んだ新しい婚約者に、きっと家族は満足するだろう。
「ケヴィン兄様、5分の遅刻です」
部屋に入って早々に、弟であるヨハネスの澄ました声が癪に障る。
コンラートとケヴィンが二歳差なのに対し、数年後に生まれたヨハネスは気遣いというものを備えていないらしく、先日にも年の近い公爵令嬢と縁を結んだのだ。
コンラートの婚約者とケヴィンの婚約者の話をするならちょうどいい、ヨハネスの婚約者について身分が高すぎるのだと指摘しよう。
きっと他の家族も思うところがあるものの、公爵家とヨハネスに気を遣って口にしないのだろう。
ケヴィンから言った方が角が立たないに違いない。
それが思い違いであると気づくのは、すぐのことである。
「どういうことですか?」
新しい婚約者にと男爵令嬢であるルイザ・ベッカーの名を出したら、家族の誰一人としてケヴィンの配慮を褒めるどころか、正気かどうかを問いだしたのだ。
なぜ皆が険しい顔でケヴィンを見ているのかがわからない。
普段の穏やかな姿が鳴りを潜め、不快そうに口を開いたのは兄であるコンラートだった。
「どういうことも何もない。
間もなくお前は学園を卒業して成人を迎えようとしているのに、勝手にヘレーネ嬢との婚約解消に踏み切っておいて、更には下位の令嬢と婚約したいと言う。その思考を問いたくもなるのは当然だ。
誰もが血迷った第二王子と噂しているのすら気づいていないだろう」
「な!王家に対して不敬な!」
ケヴィンの考えを察することができず、まさかそのような暴言を吐く者がいようとは。
「兄上、そのようなことを耳に入れた者を、当然処罰されたのですよね!」
怒りを抑えることもできず、声高にコンラートへと問う。
けれど、コンラートは表情を変えぬままに首を横に振った。
「陛下の許しを得ず、長く婚約者としての役割を果たしてくれていたヘレーネ嬢を自分勝手に婚約解消したのだ。
それを血迷ったと言わずに、他に何と言う」
「コンラート兄様の言う通りですよ。
ケヴィン兄様の勝手のせいでヴィンター伯爵家の忠誠心が失われかねないのに。
いっそ正気でないと言ったほうが、病という建前が通るのではないですか」
横からヨハネスまでもが口を挟む。
「ヨハネス、お前が出しゃばる問題ではない」
自然と硬質を帯びる声を発するも、当の本人は気にした様子もなく淡い笑みを浮かべるままにケヴィンを見返している。
その小馬鹿にしたような笑みが、少年らしさを感じなくてヨハネスを好きになれない要因の一つだ。
「この場に呼ばれたということは、僕にも発言が許されたということだと思っていますが。
ほら、誰も僕に部屋から出ていくよう言わないでしょ?」
指摘された事実に狼狽えながらケヴィンが家族を見渡せば、誰も否定せずに口を閉じていた。
「なぜヨハネスから、いえ、周囲の者達からもそんなことを言われなければならないのですか!
それもこれも、兄上が子爵令嬢なんて身分の低い女性を迎えるからでしょう。
私が兄上の妃よりも身分の高い令嬢を迎えたら、後継者争いが起きるかもしれないと考えての行動なのです。
ですから、幼いあの日も妥協してヘレーネ嬢を選びましたし、兄上が子爵令嬢を選ぶから仕方なく男爵令嬢を選び直しただけでしかないのに」
ルイザは最愛であるが、兄の治世で不安要素が無いようにという考えだって当然として持っている。
婚約解消だって王命で命じられるよりケヴィン個人から申し渡せば、王家と伯爵家で難しい相談などせずに個々の問題として片付くからヘレーネには先に言っただけだ。
どちらの理由にせよヘレーネとの婚約解消は当然のことであるし、誰からも責められる話ではない。
「大体ヨハネスの方こそ政治的なことを考えすらせず、公爵令嬢と婚約などをして。
どう考えたって、浅慮で行動しているのはヨハネスであって私ではありません」
背を精一杯伸ばして反論するケヴィンに、コンラートが露骨に眉を顰めて首を振った。
「お前の言いたいことは、よくわかった。
その考え方を変えることが難しいということも」
コンラートが国王の方を見れば、こちらは苦い顔でケヴィンを見てくるので、自信があったはずなのに湧き上がっているのは言いようのない不安でしかない。
「陛下、言った通りでしょう?
ケヴィンは何一つ理解していないのですよ」
国王からは深い息が吐き出され、数秒無言の後にケヴィンに向けた視線は冷えるようなものだった。
「ケヴィン、元々思い込みの激しいお前を心配し、お前が無遠慮に選んだヘレーネ嬢以外は意見できる者を従者としていたのだが、いつまで経っても人の話に耳を傾けないままであるのがよくわかった。
先ずはお前の思い込みを訂正しよう。
コンラートの婚約者となったレオニー・シュミット嬢だが、現在子爵令嬢であるのは事実だ。しかし、帝国で侯爵位に就く祖父が引退すれば、レオニー嬢の父親は嫡男だから侯爵となる。
つまり、ゆくゆくは侯爵令嬢という立場になるのだから、コンラートが妃に迎えるにあたっては何の問題もない」
は、という言葉が口から滑り落ちた。
そんなこと、誰からも聞いていない。
「次に王家が妃として迎えられるのは、特に王太子の代わりとなる王子の妃は伯爵以上の身分でないと認められていない。
つまり、男爵令嬢を選んだお前はスペアにすらならない」
思わず息を呑む。言われた言葉の意味がわからず国王を見つめ、暫くしてノロノロと動く脳が理解へと到達する。
そんなことは知らないと言おうとして、父親である陛下の冷たさを増した眼差しに言葉を噤んだ。
「知らないとは言わせないぞ。
婚約者選びの前に、散々お前達には言ってあったからな」
言われていた。
もう随分前となるから忘れていたが、確かに言われていた。
「お前が男爵令嬢にうつつを抜かしていると聞いてから、親としては望んでいない愚かな結末に至る可能性も考え、ヨハネスの婚約者は公爵位の令嬢を迎え入れることになったのだ。
お前がヘレーネ嬢に対して誠意ある態度を取っていたら、ヨハネスこそ爵位など考えずに令嬢と縁を結べただろう」
そんな馬鹿な。
ケヴィンを一つ飛ばして、ヨハネスが王太子のスペアとなる。
公爵令嬢を選んだだけで、生意気なヨハネスが。
膝の上のこぶしは握りしめていなければ怒りのあまりに振り上げていただろう。
それ程までに屈辱的だが、さすがにこの場で暴力を振るう愚かさは理解している。
おまけにスペアにもならない王子がどうなるかぐらいはケヴィンも知っていた。
従者達から散々言われた言葉だからだ。というよりヨハネスがどうなるか知りたくて従者に聞いて、他人事ではないのだと説教がてらに言われたからでしかない。
ケヴィンの未来にあるのは、臣籍降下するか婿入りだ。
与えられる爵位はケヴィンが成した今までの功績と、妻として迎え入れられる令嬢の地位で決定される。
学園での成績は優秀だったのでケヴィン個人の評価だけ考えれば問題ないが、男爵令嬢でしかないルイザを迎えるとなると伯爵位に留まる可能性が高い。
そう考えている間にも国王の話は続いており、聞いているのかと咎める言葉を投げられたので、慌てて意識を父へと戻した。
「常々お前は妥協で選んだのだと声高に主張するが、ヘレーネ嬢は優秀な令嬢だ。
お前は王子妃教育を終わらせることができなかったと言ったそうだが、誰のせいで終われなかったと思っているのだ、この愚か者め。
ケヴィン、お前が学園で男爵令嬢を横に侍らせていると報告を受けたことで、ヘレーネ嬢との婚約解消の可能性を考えて王子妃教育を中断していたにすぎない」
国王の口から伝えられた言葉を受けて、母である王妃が大きく頷くと扇をパチリと閉じてケヴィンへと怒りを滲ませた瞳を向ける。
「ええ、ヘレーネは学園に入学して暫くする頃には王子妃教育の大半を終わらせていました。
後は王家の儀式や習慣といった機密事項にも触れる内容だけだったのよ。
それだって複雑ではあっても学ぶべき量としては大したことではないから、そうね、ヘレーネだったら半年もしない内に終わらせていたでしょう」
王妃がちょくちょくヘレーネをお茶会に招いていたことは知っていたが、そんなことを言うまでにお気に入りだとは思わなかった。
このままではへレーネを可愛がっていた母の贔屓によって、罰として伯爵位を与えられてしまうかもしれない。
「ルイザは優秀な令嬢です。学園での成績だって、ヘレーネが10位内に入るか入らないかという中で5位の成績を保っていました。
彼女はヘレーネよりも優秀な令嬢で、私に相応しいから選んだのです」
声を張り上げ訴えるも王妃の表情から怒りは消えず、むしろ油を注いだかのように厳しいものへと変わっていく。
「ええ、ええ、そうでしょうとも。その娘はお前のような者に相応しいのでしょう。
で、それで?そのルイザという男爵令嬢は確かに優秀でしょうけど、学園の勉強だけをして5位なのでしょう?
ヘレーネは学園での勉強と並行して王子妃教育を受け、それが中断されればレオニー子爵令嬢のサポート役を務めてくれていました。
それ以外にも王女も王太子の婚約者もいなかった我が国のためにと、第二王子の婚約者という立場から、休みの日は私に付いて慰問活動だって、いつか王子妃となった時の為に定期的に婦人会のお茶会にだって参加してくれていたわ。
更にはレオニー子爵令嬢に付き合っての留学生交流会さえも主催していたの。それは見事な手腕だったわ。
お前の最愛とやらは、それを全て両立させることができるのかしら」
そんなこと知らない。誰も言ってくれなかった。
確かに学園に通うようになってからはヘレーネと会うのが煩わしくて、一ヵ月に一度のお茶会も理由を付けては断ったりしていた。
けれど全く会わなかったわけではなく、最低でも三ヵ月に一度くらいは顔を合わせていたのに。
「ヘレーネ嬢がそれを言ってくれたら、婚約解消なんてしませんでした!」
叫びにも似た声がケヴィンから上がるも、誰もが顔色一つ変えず、余所余所しささえ感じる態度でケヴィンをただ見ている。
「どうして言ってあげなければならないの?」
冷たく返された言葉の真意が掴めずに、母である王妃を呆然と見返す。
そんなケヴィンを見て王妃は溜息を隠そうともしなかった。
「ケヴィン、お前の行動は従者や護衛騎士から報告が上がっています。それに侍女達からも。
ヘレーネとのお茶会では、いつだってあの日に妥協で選んだ話から始まり、語るのは自分のことばかりなんですってね。
あの子の話をちゃんと聞こうとしたことはあるのかしら?」
もはや溜息すら隠されることがない。
「我々は上に立つ者。多くの決断に迫られ、そして多くの臣下の要望を聞かなければならない。
それなのに婚約者の話すらも聞かずにいること。従者の言葉も上の空で何も気づかないまま。
ただただ自分勝手に思い込んで、相手に自分の都合を押し付ける。
お前のどこに施政者としての器があるというのですか」
言葉が見えない刃となってケヴィンに刺さる。
違うと言いたいのに、自分は悪くないと言いたいのに、何も言えずに俯く。
「コンラートの婚約にあたり、ヨハネスはきちんと調べた上でコンラート本人にも確認をしていたわ。
ヘレーネだって伯爵に頼んでレオニーについて調べている。
ああ、きっとヘレーネがレオニーと友人同士の関係だってことも知らないのでしょうね。ここまでくると憐れにも思えるわ。
真意も事実も確認せず、まだ自分に都合の良い解釈をした自身に誤りはないと思っている?
間もなく成人にもなろうという王族が、自分で考えることもできずに赤子のように手を差し出されるのを待つだけでいいと思っているならば、王家の一員であることをさっさと止めなさい」
これではまるで子どものヨハネスに自分が劣るとでも言わんばかりだ。
思わず顔を上げれば、国王と目が合う。
これから言われることを何となく察し、目を逸らしたくても逃げ場など無くて。
「お前の卒業に合わせ、臣籍降下とする」
一瞬息が止まった。
言葉が耳へと滑り込み、脳に辿り着いて意味を理解するために咀嚼を始める。
けれど脳が錆びついたように鈍い今、言われたことへの理解を感情が拒絶するのだ。
いやだ。聞きたくない。
「ベッカー男爵令嬢とやらとの婚姻は認める。好きにするがいい。
男爵令嬢では高位貴族の地位など務まらぬだろうが、温情として与える爵位は伯爵とする。
あわせて王家直轄の地で王都から少し離れた土地を貸し与えよう」
いつの間にかテーブルに広げられた地図に、コトリと小さな文押さえが置かれた。
王都から一週間程。行き来するのがやや億劫となる遠さの土地だ。
「先々代の王妃が愛した保養地だ。観光に力を入れ、既に活気づいた街が出来上がっているので、お前でも苦労はしないだろう。
ああ、領主として治められるなどとは思っておらぬから、お前の代では管理する代官を置くことになるが」
一度行ったことがある。確かに賑やかだが王都に比べて華やかさに欠ける場所だった。
カフェや料理屋だって洗練されていない。
途端に自分が輝きを失い、くすんでしまったようで泣きそうになる。
「だったらヘレーネ嬢でもいいので、もう一度婚約します。
そうすれば王城に私もいられるのですよね?」
これでいいと選んだ相手が、まさかケヴィンの命綱になるなんて思いもしなかった。
仕方ないがヘレーネを正妻とし、ルイザが許してくれるなら愛人として迎え入れればいい。
それなのに、あっさりとケヴィンの言葉は却下されてしまった。
「お前は本当に……。
ヘレーネ嬢はレオニー嬢の紹介で、新しい婚約者候補と交流を始めることになっている。お前の入る隙はない。
大体、お前の都合で婚約解消したというのに、何をどうしたら再婚約だなんて発想になるんだ」
「え、ヘレーネ嬢なんかに?」
いくら何でも話が早すぎる。
婚約解消してから普通なら落ち着くのを待つとして、短くても半年程が常識だ。
「ま、まだ候補なんですよね?
それだったら、王家が言えば相手も引くと思いますから」
ケヴィン兄様、と強い言葉で遮られた先には、小さな弟までもが怒りを露わにこちらを睨みつけていた。
「今、陛下も言ったでしょう。
ヘレーネ嬢に何の落ち度もないのに自分の都合で婚約解消したのに、自分が困っているから今度は再婚約?
彼女に失礼だし、ケヴィン兄様の暴挙を許したら王家への信頼は地の底に落ちることになるのは目に見えてわかることなのに、本当に考え無しなんですね」
おまえ、と言いかけて応接室にいる誰もが似た眼差しで見ていることに、ここにきてケヴィンは気がつく。
家族だけではない。
手続きの為か控えている文官に侍女、護衛騎士。
見たことのある者も。そうでない者も。
皆が侮蔑と憐れみをないまぜにした瞳でケヴィンを見ている。
「ヘレーネ嬢の相手は帝国の貴族だ。
もう王家であっても、手を出せない。勿論ヘレーネ嬢の為に王家で何かすることはない。
以降、ヘレーネ嬢に謝罪文を書くことぐらいは認めても、近づくことのないように」
以上だ、と話を締めくくる言葉に、ケヴィン以外の皆が立ち上がる。
話が終わった瞬間に視線は一切向けられることなく、誰もが部屋を急ぎ足で出ていく。
まだ話は終わってないのだと立ち上がりかけたところで、ヨハネスだけが一度振り返って、目を細めてケヴィンを眺めた。
「兄様、どうぞベッカー男爵令嬢とお幸せに」
そして小さな声で嗤う。
「ああ、でも、ベッカー男爵令嬢は兄様の手を取ってくれるのかな?
僕のところまで届いているよ。なんか面倒事に巻き込まれそうだから兄様とは縁を切るって」
頑張ってねという軽やかな言葉と共に閉められた扉の前。
もう考える気力の尽きたケヴィンはだらしなく開いた口のまま、扉を見つめながら床へとへたりこんだ。
毎回誤字報告ありがとうございます。
投稿して20分後に通知が来た時の絶望の顔をお見せしたかった。
後日談への誤字報告も夜遅くにありがとうございます!
寒いので風邪などひかぬように、ぬっくぬくにしてくださいね!