夜歩きは甘い香り
その夜。
楽なリネンの夜着用のシャツに袖を通したルーカスはベッドに横になったものの、流石に夕食の量が少なすぎたのか空腹感が気になってなかなか寝付けずにごろごろと寝返りを打っていた。
やがて大きな溜息をひとつついたルーカスは手燭に火を取って起き出した。もう夜歩きしても差し支えない温暖な春の気候となっているから、城内を一周歩いてくれば、そのうち眠りの門番も気を許すだろう。
普段は従者が開ける扉を、自分の手でそっと開いて廊下に静かに滑り出る。
静かな夜の城内散歩はルーカスの趣味のようなものだ。いつも影のように後ろに付き従うエドモンドもおらず、気楽なのがいい。
国王の寝室など、夜警の不寝番のいる場所を避けて階下へと降りていく。いつも通り、回廊を渡ってぐるりと一周――と思って歩いていると、普段はこんな夜更けには明かりのついていないはずの場所から光が漏れているのに気がついた。
(あれは…)
使用人のための厨房のある場所だ。
乳母のマルセラが生きていた頃、粥を作ってくれたのがちょうどあそこだった。
しかもなんだか甘い匂いが漂ってきている。思わず鼻がうごめいて、ルーカスは足音を立てずにそろそろとそちらへ近づいていった。
閉ざされた扉の隙間から細い明かりが漏れ出ている。中からは何やら物音がしていて、やはり誰か居るようだった。ルーカスは少しだけ扉を押して隙間を押し広げてみる。
「……んっ、んー…ん〜♪」
こちらに背を向けて鼻歌を歌いながら鍋をかき回しているらしい赤毛の侍女の姿。束ね上げた髪の後れ毛をうなじに垂らし、髪色とよく似た赤いアフタヌーンドレスの裾を揺らしている。
ルーカスは眉間に皺を寄せて首をかしげた。
(なんでこんな時間に料理をしているんだ?)
王のための朝食の仕込みをするメイン厨房の料理人だって明け方から働き出すのが常で、こんな夜更けに作業をすることはないはずだ。何か罰でも与えられて夕飯を食いっぱぐれて、それでこんな夜中に自分で料理をしているのだろうか。
色々想像しながら考え込んでいると、うっかり押しすぎてキィと音を立てて扉が開いてしまった。
「え」
音に気がついて、はっとなって振り返った赤毛の侍女は、ルーカスと目が合ってあからさまに気まずそうな顔をしている。
これは…とルーカスはこめかみに手をやった。
(食事抜きの罰でも食らったのに、勝手に食おうとしているとかじゃないのか?)
慌てふためいた様子の赤毛の侍女は「殿下、何か御用でしょうか」と頭を下げて膝を折る。
その仕草は礼儀正しく、罰を受けるような類の者には見えなかったが、俯いたまま顔を上げないのを見るに、やはり後ろ暗いところがあると思われた。
ルーカスは扉を開けてしまった勢いで、そのまま厨房へ踏み込んで他の者が来ないようにふたたび扉を閉めた。
「おまえ、その鍋の中身は何だ」
中身が見えない鍋のほうへ視線をやりつつ問いかけると、侍女は頭を下げたまま「シチューでございます」と答える。
「では、この甘い匂いは?」
「それは……」
女はどういう理由でか、一瞬言い淀んだ。促す意味をこめてルーカスは更に問う。
「何か菓子でも焼いているのか?」
「はい…あの…カスタードのパイを…」
なんだ、とルーカスは鼻を鳴らした。それなら大して珍しいものではない。
だが、焼いている最中にこんなに良い香りがするというのは初めて知った。これは、空腹にはなかなか堪える匂いだ。
ルーカスは恐縮する女をなだめるように声をかける。
「叱るつもりはない。いい香りがしたから立ち寄った」
「はい…」
それでもなお顔を下げたままの女に対して、ルーカスは燭台を脇へ置いて片手を振った。あまり畏まられても聞きたいことが聞きにくい。
「気を楽にしろ。おまえ、名は?」
「アンネと申します、殿下」
「ではアンネ。そっちは、何のシチューなんだ?」
名を呼んだらようやく頭を上げた侍女は、きれいな赤毛に蒼い瞳の持ち主だった。
彼女は両手を胸の前で組んで急ににっこりと微笑む。
「白身魚のクリームシチューでございます」
「白身魚…」
ちょうど夕食でまずい白身魚のムニエルを食べたところだ。まさかと思ってルーカスは眉間に皺を寄せた。
「それは、グレートホールかダイニングから下げたものか?」
「はい。ほとんど手つかずのままだったとお聞きしまして…」
まさかとは思って聞いたのだが、予想通りの答えが返ってきてむしろ愕然としてルーカスはアンネを凝視してしまった。
(どういう神経をしてるんだ、毒が入っているかもしれない王族の食卓のものを食うのか?)
ぎょっとしたのがバレないようにルーカスは咳払いした。そして、自分のテーブルでは見かけなかった菓子のほうに矛先を向ける。
「ではカスタードパイは? どうして作っている」
「…ええと…これは」
シチューの時は目を輝かせていたのに、急にまた言い淀んでアンネはスカートを掴む。
それでも黙っているわけにはいかないと分かっているのか、思い切ったように口を開いた。
「卵が使い放題だと聞きまして…!」
「……は?」
「申し訳ございません。それでつい、食べたくなって…」
しょんぼりとしているアンネの言うことは正直よくわからなかった。
この王城においては厳冬の最中でもない限り、食材に制限がかかるようなことは起きない。まして卵など、城郭内の飼育場で飼っているたくさんの鶏が毎日生むのだから、使うに支障はないはずだ。
(よく分からないが、単に卵が食いたいということか…?)
この鼻腔をくすぐり脳天に届く甘くかぐわしい香りを思えば、そりゃあ食べたくもなるかもしれないとルーカスは思った。
現に自分も今、それを食べたいと思っている。
ルーカスは険しい顔を作ってアンネに尋ねた。
「パイはもう焼き上がるのか」
「え? はい、もうすぐですが」
「すぐ食べられるか」
「えっ」
絶句したアンネの食べるんですか?と言いたげな蒼い目がじっと自分を見る。ルーカスは若干居心地が悪くなったが、険しい顔のまま押し切って重ねて問いかけた。
「すぐに食べられるのか?」
「…オーブンから出してすぐですと、かなり熱いと思いますが、それでもよろしければ」
「構わん」
ルーカスは厨房の隅にあった木製の丸椅子を自分で持ってきて、アンネの作業が見えるところに腰掛ける。
観察する態勢に入ったルーカスの存在をちらちらと気にしながらも、アンネは手際よくフックを引っ掛けてオーブンの扉をあけ、中を覗き込む。少し眺めて首を振った。
「まだ焼き目がついておりませんので……」
「そうか…では待つ」
どの程度待つことになるのかルーカスには想像がつかなかったものの、少しというならそう長くはあるまい。
するとアンネが「あの」と切り出してくる。
「シチューでしたらもう出来上がっておりますが、お召し上がりになられますか?」
「は?」