0-3 燻り狂えるバンダースナッチ
妖精たちに共通する弱点として、毒がある。
ごく一部の例外を除いて、妖精たちも人間と同等……あるいはそれ以下の分解能力しか持たない。たとえそれが、どれほど強大な力を持つ者だったとしても。
それはもちろん、妖精から力を得ている魔法少女も、例外ではない。
その怪物は、詩として妖精たちの間で語り継がれてきたもの。魔王が残した最終兵器――それが今、ふたりの行く手を遮っている。
「キシャアアアアアアアアッッッ!!!!!!」
中空を金属で擦ったかのようなおぞましい金切り声と共に、バンダースナッチの毒液が周囲に無差別に撒き散らされる。
毒液に侵された草花は一瞬で腐食していき、最後の楽園が地獄に作り変えられていく。
見せかけの希望は、地に堕ちた。
(ああ、あああああ――!!!)
……あともう少しだったのに。嫌なことばっかりで、自棄になりそう。
圧倒され、強張る身体。彼女の繊細で傷つきやすい心だけは、変身したって強くならない。
どうにかできるって分かっていても、見たくないものを見せられることには、どうしたって慣れない。
心だけは、強くなれない。
(――しゃきっとして、レイチェル!)
だけど誰かの一言が、心の中で反響する。弱いわたしを許さない誰かの声が、わたしの勇気を奮い立たせてくれる。
レイチェルはあえて舌をぎりっ、と噛んで、無理矢理に根性を入れ直した。
イリスと同じように、強い怒りを力に変えて――
「……絶対、死なないっ!」
――想いのままに、その拳を眼前の怪物に叩きつける。
魔力がないなら、この身体を使って戦うまで。
あの子ほど強い力を振るえるわけじゃないけど、弱点を狙って足止めするくらいなら、わたしにもできる。
大事なことだから復唱しよう。魔法少女の膂力は、人智を超えたものである!
「グルルァァァァァア!!!!!」
……しかし、効果は薄い。怪物の狂乱は止まることを知らず、その双眸が少女を捉える。
(逃げなきゃ!)
レイチェルは怪物に一瞬で踵を返し、わずか一秒の速さで屋内に逃げ込む。
だが、その程度の逃亡策を許すほどこの怪物は甘くない。
「ギャアアアアアアッッ!!!!」
次の瞬間、黒く淀んだ首が鞭のように伸び、レイのすぐ横の石柱を噛み砕いた。
「ひいっ!?」
少女は戦慄した。少しでも逃げ込む場所がズレていたら、間違いなく命を取られていた。
レイチェルは生存本能に突き動かされ、全速力で回廊を駆け出した。
立ち止まれば、死あるのみ。
(怖い、怖い、怖い、怖い――!)
恐怖に思考力を奪われる。今はただ、あの怪物から逃げる事しか考えられない。
レイチェルのスピードは秒速16mにも到達し、10秒もかからずに回廊の端から端まで逃げ回ることができる。
普通の魔物が相手ならば、確実に逃走を成功させることができるだろう。
だが。
「レイチェル、避けてっ!」
それは、バンダースナッチも同じだ。
イリスの叫びと同時に、轟音と共に邪竜の首が回廊の床に直撃する。
「ギョオオオッッッ!!!」
バンダースナッチはその巨体で回廊を崩壊させながら、恐るべき速度でレイチェルを追い縋る。
一撃。二撃。狂乱ゆえに狙いこそ正確でないが、少女の頬を掠めるようにその首を地面に叩きつける。
(やだ、やだ、やだ、やだっ――!)
レイチェルは視界以外の僅かな情報と直感だけで彼の攻撃を予測し、間一髪の回避を何度も繰り返す。
だけど、それもいつまで続くか――
(――彼女を助けられるのは、私だけ)
イリスは思考を加速させる。
魔女の伝令を名乗るだけの自負はある。この私に、『考えが及ばない』などという事はない。
あの鉄骨のような外皮を貫く手段を、一体どう用意すればいいのだろうか。
あるいは呪文を唱えるための数秒だけでも、この怪物の標的から逃れることができれば……
(……どうやって?)
イリスは決して実戦に適した頭脳を持っている訳ではない以上、コンピューターのようにすぐに答えが出る事はない。
そうしている間にも、魔王城の崩壊は更に加速していく。
外壁が壊れたからと言って外に出ることはできない。この魔王城はその構造が完全に消え去るまで、決まった場所と手段以外の脱出を許さない。
迷宮の崩落に巻き込まれれば、何者であろうと必ず命を落とす。その法則を破れる可能性があるとすれば、それは魔法だけだ。
(彼女の速さであれば、自力で出入口にだって……)
このような魔物に遭遇する可能性を考慮して、中庭に向かわせた筈だった。結果は失敗。考えが及ぶということは、間違わないという事ではない。
もちろん、それ自体は可能だ。ただ、この怪物に出入口ごと破壊されてしまう可能性と、迷宮外にこの怪物を連れ出してしまうリスクを伴う。
外には魔王軍との戦いによる負傷者も多い。もしもこの怪物を解き放ってしまえば、大惨事に繋がるだろう。
……それは、レイチェルが許さない。
(その上で、取れる手段があるとしたら――)
レイチェルは中庭より上の階層に昇り、崩落を避けながら、もう一度バンダースナッチを中庭に誘導するように行動していた。
もちろん、彼女は何か考えがあってそのように動いていた訳ではない。ただ必死に、彼の猛攻を振り切ろうとしていただけだ。
(だめ、無理――呪文なんて、唱えられない――)
完全に恐慌状態に陥ったレイチェルに、もはや正しい判断などできない。
無理もない。かの戦神の名を冠した妖精でさえ、「寄るべからず」という詩の一節を恐れるのだから。
それでも……彼女の傍らにある、妖精ならば。
「――レイチェル!霧コウモリの群れに突っ込んでください!」
常時ならば耳を疑うようなその言葉を、イリスははっきりと宣言した。
彼女は既に、この状況の解法を掴んでいる。
「中庭に向かう前に、左です!続いて右の壁を壊し、向かいの廊下の群れを解き放つように!」
「少しでもあなたから標的を逸らし、毒の霧を使わせます!二秒強――それだけ稼げれば十分です!」
その言葉は閃きのように少女の脳髄を駆け抜け、思考と視界を明瞭にした。
「わかったよ、イリスっ!」
もう彼女に迷いはない。レイチェルは一切の疑いなく、彼女の作戦を行動に移す。
「「「キキキキキキキッ!!!!!!」」」
少女の眼前に、手負いの蝙蝠の大群が押し寄せる。鼓膜を劈く羽音と鳴き声――それこそが、わたしたちの希望の音色。
「とりゃーーーー!」
レイチェルは回し蹴りで壁に穴を開けると、すぐさまに向かいの廊下へ飛び移り、窓に向かって飛び膝蹴りを喰らわせる。
「はあーーーっ!」
すると、その場にいたコウモリたちが雪崩のように中庭の上空に押しかけ、蝙蝠雲とでも呼ぶべき大群を形成した。
「今です、レイチェル!」
左の廊下から現れたバンダースナッチが、鬱陶しい蝙蝠雲に向けて毒の霧を吐き出そうとする。
その一瞬の隙を突いて、レイチェルは中庭のアーチめがけて飛び降りた。
「戻ってきて、わたしのタクト!」
ふたりとタクトは一心同体。着地と同時にタクトを構え、レイチェルは崩れかけのアーチに向かって呪文を唱える。
「【☆お願い、わたしたちを出口まで連れてって!☆】」
タクトの先端から虹の粒子が飛び出し、剣閃となって空間を切り裂く。
その瞬間、まるで薄い紙が千切れるように、出口へと繋がるゲートが開いた。
「よしっ、開けた!」
決死の仕事を終えたレイチェルは、そのままの勢いでゲートに飛び込む。
「あっ、待って、座標の指定が――!」
その声が中庭に届く頃には、アーチは瓦礫と化していた。




