0-1 いともってない
冒険の果てに、少女は魔王を討ち果たした。主人を守る役目を終えた魔王城は、轟音と共に崩れ落ちていく。
墜落する豪奢なシャンデリア。無情に割れるステンドグラス。まるで映画のワンシーンのように劇的なその光景の中を、渦中にいる少女は必死に駆け抜けていく。
「「「キキキキキキキッ!!!!!!」」」
「わああっ!?」
向かいの廊下から蝙蝠の大群が押し寄せ、少女の真上を通過していった。鼓膜をつんざく羽音と鳴き声に、思わず竦み上がる。
(心臓に悪いよぉ……今はただでさえ、魔力も少ないのに……)
妖精との絆を喪失した今の彼女には、もはや一人のか弱い少女としての力しかない。白ゴシックの可憐な衣装も、絹のようなベージュ色の髪も、魔物への武器には成り得ない。
彼女に味方するものは、何一つとして無いのだろうか。
(みんな、どこにいるの……?)
目の前の現実から逃れるように、少女は華美な様式の窓から外を見つめた。
そこに広がるのは、生命のひとつも根付かない荒涼の大地。赤い月が照らす永遠の夜に、寂しげな星々が地上を見下ろす。ゴシックホラーのような退廃的な都市だけが、人々の絶望を象徴するかのように形を残していた。
ここは今にも崩れゆく魔王の居城。たとえすべてが夢の中の出来事だとしても、彼女に現実逃避できる余地などない。
(大丈夫。きっとみんな、外で待ってる。わたしの帰りを……)
今にも気圧されそうな心を、少女は「すぅ、はぁ……」と深呼吸して保たせる。
少しでも落ち着かないと、進むべき方角すら見失ってしまいそうだ。
(進まなきゃ。進まなきゃ、少しでも……)
勇気を振り絞り、少女は再びその脚でチェッカー柄の廊下を歩み出す。
もちろん警戒は怠らない。しかし、片足が蝙蝠の出てきた廊下に差し掛かった、その瞬間――
(――っ!)
強烈な敵意。
ただの蝙蝠などとは比べ物にならない、身体の底から芯を通って冷え上がってしまうような、本物の殺気。
少女は溢れ出す恐怖に表情を歪ませながらも、それを見据えた。
それは、影だった。
濃厚な死の気配を漂わせる、巨大な影。
削る、刈る。そういった形をしていることだけを理解させられる。
なにか大事なものを、根こそぎ奪い去っていくような。
ただそこに立っているだけなのに、それだけで空気が凍りつく。
そう。それは例えるならば――死神。
彼女も想定はしていた。蝙蝠が押し寄せてきたということは、その原因は迷宮の崩落か、別の何かに追われていたか、どちらかであると。
だけど、これはいけない。勝てる見込みもなければ、逃げきる希望すら感じられない。
(……あ、れ?)
影は、動かない。
その場からぴくりとも動かない。けれど、止まっているような気配もない。まるで本当の影のように。
……今のうちに逃げ出してしまおう。そうも考えた。だが同時に、この死神から逃げ出してはいけないのだと、少女は直感的に理解していた。
(逃げてもいい。だが、立ち向かえ)
それは「たとえ自らが弱くとも、放棄するのではなく、戦略的に立ち回れ」という意味の言葉。誰に教えられた言葉なのかは、彼女自身も覚えていない。
ただ一つ確かなことは、少女の身に刻まれたその言葉が、気付かぬ内に彼女自身を動かしたということだけ。少女はその言葉を頼りに、影を見据えながらも少しづつ後退していた。
影は、同じように迫ってきた。
(いける!)
影の攻略法を見出したその瞬間、少女の身体からすうっ、と身を縛る緊張が抜けていった。何も怖がる必要などない。ただ追い込まれないように、気を付けて進めばいいだけなのだから……
(……でも、本当に?)
本当に、そのとおりに動いてくれるだろうか?少女はそんな懸念を抱えつつも、敵の存在を確認しながら廊下の先へと進んでいった。
一歩、また一歩。そして更にもう一歩を刻もうとしたその時、少女は違和感に気付く。
(あれ、動かない……?)
影が急に動き出す可能性を警戒していた彼女にとって、それは意外な出来事だった。不気味な行動だが、このまま距離を開ければ影の追跡を振り切れる。彼女はその希望を頼りに、廊下の先にある広間へと出た。
この広間に繋がる道は四つ。少女が今しがた通ってきた道を含めて、東西南北に繋がっている。少女は耳を澄まして、周囲を見渡した。迷宮の崩れ落ちる音が、できるだけ聞こえない方角へ進むために。
(たぶん、右)
これまでの冒険で研ぎ澄まされた直感を頼りに、少女は右の通路へ駆けていく。
だが、それが間違いだった。
「……そんな、うそでしょ?」
そこにいたのは、もう一体の影。
(なんで、どうして気付かなかったの?!)
先に進むことに囚われすぎて、敵の警戒を忘れていたのか。
そうではない。確かに彼女は注意に欠けるところがあるが、初歩的なミスを繰り返すことはしない。だから、その理由は――
(そんなこと、考えたくもなかった?)
――他の可能性を、無意識の内に切り捨てていた。それ以外にありえない。
(崩れ去っていない道に、敵が居るのは当然のことなのに)
きっと正解であっただろう北の通路が、失敗を告げるように崩れ落ちる音がした。
少女はもう逃げられない。戦略的撤退すら許されない。ここからどう動いても、どちらかの影に回り込まれる状況下にある。
かといって一度でも影を攻撃してしまえば、恐らく反撃は免れないだろう。そうでなければ、蝙蝠たちの切り傷に説明がつかない。
(……終わっ、た?)
絶対的な死を前にして、少女は意外にも冷静だった。今までの恐怖が嘘のように、すっ、と意識が冴え渡っている。
このまま死の運命に身を委ねてしまおうか。そうすれば、生きていることから楽になれる。
ここなら誰にも怪しまれないよ――そんな悪魔の囁きを、少女は「聞こえない」とでも言うように首を横に振って退ける。
(ううん。まだ、できることがある――)
少女の瞳に、光が灯る。
これまでの冒険の中には、これ以上の危機など幾度もあった。銀雪の地に眠る竜も、海の星の主にも、少女は立ち向かい、生き残ってきた。
まだこの瞬間には、絶望に値する理由がない。ここで終わるなんて、わたしじゃない。だから……できることが、あるうちは。
「……まだ、終われない!」
怒りを吐き捨てるように、少女は声を上げた。
最後に残った、できること。それは全力で――祈ることだ。
「お願い、助けて……わたしの、わたしのイリスっ!!!」
両手を組んで、全力を込めて祈りを捧げる。
彼女は敬虔な信徒などではない。不慣れにも神に縋るその様は、どこか不格好にも見える。
けれど、それでも――
「レイチェルっ!」
――その瞬間、少女の名を呼ぶ者の声が、聞こえた。
「……ふふっ。グッドタイミング、ってところですか?」
スズムシのように透き通った声質から放たれる、自己陶酔を多分に含んだその台詞。他でもない少女の妖精が、空間を破って現れた。
「わあっ、イリス……っ!」
それは蚕蛾を象った姿を持つ、虹の触覚を持つ妖精。宝石のような瞳と純白の羽毛が、見る者すべてを魅了する。美しい銀髪と宇宙に繋がる翅を備えた、昆虫とも少女ともつかない、小さな体躯のマスコット。
「ええ、私ですよ!」
その名を、イリスと言う。
「って、なあんだ……この魔物、『ブロッケン』じゃないですか。レイさんってば、こんなのに手間取ってたんですか?」
呆れたような表情で、イリスが周囲の影の魔物たちを見渡す。
「あはは……うん、そうなんだ」
「こんなの、私の下僕に過ぎないですよ。だから、ほらっ!」
イリスがぱちん、と指を鳴らすような仕草を取ると、彼らの背後に虹のような光の輪が現れ、その身体が縛り付けられる。
――ブロッケン現象。科学上はただの光学現象に過ぎない彼らは、光を操る妖精には手も足も出ない。
「さあ、さっさと変身、しちゃいましょう!まだ魔力は残ってますよね?」
「うん、もちろんっ!」
レイはにこっ、と笑ってそう頷くと、イリスを抱くように腕を広げた。
「いきますよ、レイさん!」
対するイリスはまるで背中を預けるように、彼女の胸へと身を投げ出す。
少女と妖精。一対を成すふたつの存在が、溶け合っていく瞬間だった。
周囲は、光に包まれる。




