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人生最後の一日

 轟音、流れる景色、揺れる足元。『ガコン』という音とともに、景色が真っ暗になった。同時に、窓には草臥れた覇気のない顔が写る。

 電車は地下に潜り込んだ。もうすぐ降りる駅だ。電光掲示板の案内を見るため車内を見上げる。


『今日が人生最後の一日だったら——』


 不意に車内に貼り出された書籍の広告テキストが目に入る。どこぞの偉人の名言らしい。こんなところに引用されるくらいだ、それはそれはご立派な偉業を成し遂げてきたことだろう。そんな人生最後の一日は、さぞ惜しい気持ちで一杯に違いない。生きていれば生きているだけ、富も名声も手に入れられたのだろうし、それ以上に沢山の人々に何かを与えられただろうから。

 だがそんな優秀な誰かの名言は、私には刺さらない。今日が人生最後の一日だったら? なんてラッキーな一日だと思うことだろう。こんなくだらない毎日を終わらせられるなら、それ以上に幸せなことはない。

 自分で命を絶つなんて、そんなドラマチックで悲劇的な死を演出するには、私の人生はあまりに安っぽい。かといって生き存えたところで、これ以上何を得られるとも、誰かに何かを与えられるとも思えない。

 いっそのことこの通勤電車が、このままどこかの壁に突っ込んでくれたら良いのに。

 そんな不謹慎で馬鹿馬鹿しい思いを持ちながら、私は毎日わざわざホームの端まで歩いて先頭車両に乗る。万が一電車がどこかに突っ込んでくれたら、確実に死ねるからだ。もう仕事に行く必要は無くなる。『前途ある若者が不慮の事故に巻き込まれて死亡』なんて、私にしては身に余るほど贅沢で、ドラマチックな最期じゃないか。


『間もなく、東京。東京。お出口は右側です——』


 無情にも、今日も電車は時間通り駅に到着した。ああ、私はまた仕事に行かなければならないのか。

 パワハラ、ブラック企業、そんな言葉で自分を守るのは簡単だ。でもわかっている。私が本当にただ何の仕事も出来ない無能だというだけなのだ。

 たとえ程度の低い会社だったとしても、そこに収まるしかなかった私の方も、同じくらい程度の低い人間だ。いや、そこですら満足に働けていないのだから、それ以下なのだろう。


「君、本当に何も教育されてこなかったんだねえ」

「ほら、また言い訳。そんなの先方からしたら関係ないんだよ」

「ウチで仕事出来なかったら、アンタもう働けるとこないよ?」


 私に向けられる言葉たちが頭の中をぐるぐる回る。過去の反芻なのか未来予知なのか、どちらでも変わらない。どうせ今日もまた同じようなことを言われるのだ。



 乗り換えのため、広いターミナル駅の構内を歩く。夥しい数の人々とすれ違う。きっとみんな、それぞれの人生の中で自分の問題点と戦っているのだとは思う。でも、きっとこの中のほとんどの人たちは、少なくとも私より上手く社会に溶け込めているのだろうな。何の根拠も無いけれど。

 一人ひとり違うはずなのに、どうしても私には「社会で生きている立派な大人たち」という1つの「塊」に見えてしまう。


 私は子どもの頃、どちらかというと自分の両親が嫌いだった。いつも口を開けば夫婦喧嘩ばかりしていたし、お父さんはいつも厳しくて怖かった。そのくせ安月給で働かされていて、欲しいものもあまり買ってもらえた記憶がない。

 大人になった今だからわかる。自分の身一つ立てるだけでも、こんなに辛いのだ。子どもを養えるだけの収入を確保して、人間的にも常に子どものお手本でいるなんてことが、どれだけ大変なのか。私には到底真似できることではない。

 両親とも確かに諸手を挙げて尊敬できるような出来た人間ではなかったかもしれない。でも私が誰かの親になったとしても、それ以上に愛されたり尊敬されたりするような存在にはなれないだろう。

 少なくとも私が大人になるまで「親」を演じられていたというだけでも、私の両親だって充分あの「塊」の一部たり得る立派な大人だったのだ。


 ふとその「塊」の中に、少し毛色の違う人々を見つけた。制服を着た学生たちだ。一人で参考書を読んでいたり、友達と笑いながら喋っていたり、それもまた様々だ。彼ら彼女らは、まだ社会の厳しさを知らない。きっと数年後には大きな壁にぶつかって、自分を見つめ直すことだろう。

 私も学生時代は「良い子」だった。優秀だったというわけではない。大人しくて自己主張することが無かったから、授業や学校運営を妨げることがなくて、先生たちに嫌われる理由が無かったのだ。だがそんな毒にも薬にもならない存在は、何の印象にも残らない。

 きっとクラスの同級生たちも、今頃私のことなんて覚えてすらいないだろう。私はいつでも、人の邪魔にならないように生きることばかり考えていた。だから同じクラスに好きな人が出来たときも、想いを告げることは無かった。同性で仲の良かった友達が、同じ人に想いを寄せていることを知っていたからだ。

 その2人が付き合い始めたと知ったときも、落胆や嫉妬の気持ちよりも先に、2人の人生を邪魔せずに済んだことへ安堵したのを、今でも覚えている。


 でも、そんな奥ゆかしさは社会に出たところで何の役にも立たないのだ。私が毒にも薬にもならない存在で居られたのは、自分の籍をお金で買ってそこに所属していたからに過ぎない。

 自分に足りないものや必要なものを本気で考えたことも無ければ、誰かに怒られたこともない。だから社会に出て初めて自分の至らなさを思い知り、人に怒られたとき、私は必要以上に萎縮してしまい、何も考えられなくなってしまった。そうして一歩も前に進めなくなり、また怒られるという悪循環に陥ったのだ。


 会社の最寄り駅が近付いてくる。心拍数が上がる。学生たちは手前の駅で降りていった。きっと彼ら彼女らも、少なくとも私なんかよりは早くその現実に気付いて、社会に上手く適応していくんだと思う。何故なら、今私と一緒に電車に揺られているこの「塊」も、元は世間知らずの学生たちだったからだ。今はまだ社会に出ていないだけで、大人になればみんな私よりずっと立派に生きてゆくに違いない。



「だからさ、遅いんだよ行動が。何のためにメモとってんの?」

「謙虚そうに振る舞ってるけど、自分の苦手なとこ隠そうとしてるだけだよね、それ。本当は一番プライド高いんだよ、あなた」

「私のこと避けてるよね? 話せば何かしら怒られるからって。でもそれ、自分に怒られる心当たりがあるってことなんじゃないの? 違う?」


 今日も予想通り、予想外の方向からまた自分のダメな部分を突っ込まれた。その解決策を考える気力も無く、私は夜の下り電車に揺られる。せめて無心でいたいのに、鋭く刺さった言葉がまた頭の中をぐるぐる回る。

 今頃、私を採用した人事担当は上司に叱られていることだろう。なんであんな役立たずを雇ったのかと。その上司は恨んでいることだろう。一度正規に雇ってしまったら、どんなに役立たずでも中々クビにできないこの国の法律を。


 最寄り駅まであとどのくらいだろうか。ふと車内を見上げる。


『あなたの夢を、カタチにする——』


 車内に貼り出された広告が目に入る。専門学校か何かのコピーだろう。そういえば私の夢って何だったっけ。

 ……そうだ、小さい頃は、確かピアニストになりたかった。アニメだかマンガだかで、ピアノを弾くキャラクターが出てきて、それが幼心にかっこよく見えて、私もあんな風になりたいとか思ったんだっけか。今思えばなんてくだらないきっかけだろう。

 でも、見様見真似で弾いた私のピアノを、お母さんが「上手ね」と褒めてくれて、それがすごく嬉しくて、変に本気になってしまったんだ。あのときそんなことを言われなければ、音大なんか目指さなかったろうに。もっと普通の大学で違う4年間を過ごして、もう少し社会に順応できる私になれていたかもしれない。

 考えてもみれば、ピアノを弾いていて楽しいと感じたのは、音大に合格できたときが最後だった。きっと私は音楽やピアノが好きなんじゃなくて、お母さんや友達や先生とか、周りの人がピアノを弾く私を褒めてくれるのが嬉しいだけだったんだろう。

 音大なんか出たって、私では何の仕事にもありつけやしないのに、どうして誰も教えてくれなかったんだか。大して裕福でもないのに、無理して学費の高い学校に入れてもらって、結果はこの有り様だ。私はなんて親不孝者なんだろうか。


『ガコン』


 不自然に電車が揺れた。同時にけたたましい耳鳴りがして、視界が歪む。足元が崩れていくような感覚。段々と目の前が暗くなってゆく。

 ああ、いよいよ『その日』が来たのか。何が起きたのかはわからないけれど、何となくこれが私の『人生最後の一日』なのだということを悟った。よりにもよって、最後に考えていたことが、叶いもしなかった将来の夢のことだなんて、私の人生は、最後まで安っぽかったなあ。



 視界が開ける。真っ白な光。何か音も聞こえるが、まるで水の中にいるようだ。音も景色もぼやけていて、ここがどこなのかもよくわからない。ただ、全身が痛い。でも具体的にどこが痛いのかわからない。それに体も全然動かない。


「母さん! 母さん! 俺だよ! 聞こえる?」


 視界に人影が映った。この男性は誰だろう。よく見ると向かい側に子どもらしき人影も2人ほど見える。親子だろうか。


「おばあちゃん! 死なないで!」

「嫌だ! おばあちゃん死んじゃやだ!」


 私のことを呼んでいるのだろうか。ほとんど感覚は無いが、両手が微かに温かい。この親子に手を握られているのだろう。こんなにも全身が痛いのに、耳元で騒がれたものだから、段々と意識が戻ってきた。


 ああ、そうか。これが私の『人生最後の一日』だったのか。これが「あの日」じゃなくて本当に良かった。長い人生、苦しいことばかりだったけれど、私の死に際にこんなに泣いてくれる人たちがいるなんて。身に余るほど贅沢で、私には勿体無いくらいドラマチックな最期じゃないか。

 でも、どうして思い出せないんだろう。どうして忘れてしまったんだろう。こんなに大切な子たちが私には居たはずなのに。まるで何十年も、記憶の中を彷徨っているようだった。


「母さん、俺を産んでくれてありがとう。俺はずっと傍にいるから」


 額に息子の体温を感じる。その向かい側で孫たちの泣きじゃくる声が聞こえる。すぐ傍に居るはずなのに、段々と遠ざかっていくようだ。光が眩し過ぎて、やっと思い出せそうだった子どもたちの顔が真っ白に消えていった。


——せめてあと一日だけ、この子たちのことを思い出す時間があれば良かったのになあ。


 これが私の人生最後の一日で、一番最後に考えていたことか。こんな私にも、少しは値打ちのある人生を生きられたのだろうか。

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