《閑話》 ???
「あなた、そんなところで何をしているんですか?」
声をかけられて、そのメイドは肩を跳ねさせて振り向いた。
彼女の後ろには、純白の儀式服を身にまとい、目が醒めるような青薔薇をその金髪に飾った、まだおぼっこくすら見える少女がにこにことした笑顔で立っていた。
アナスタシア・フォン・エルド。
この国の王であり青薔薇人の預言者。そして、……これからメイドが向かおうとしていた塔に、実の姉を幽閉している張本人。
食事を乗せたトレーを握って震えているメイドに、アナスタシアはあくまで優しげな笑顔で、こてんと首を傾げてみせた。
「わたし、あの塔には食事を運ばなくていいって、お伝えしたはずなんですけど? あなたのところには、うまく連絡が届かなかったんですかね?」
「あ……あの、私はただ、厨房で余り物が出たので、もったいないから持ってきただけで……」
そう言うわりに、メイドが運んできた食事は、まだスープは暖かく湯気をたて、柔らかなパンにはバターも添えられている。一応、罪人として幽閉されている相手に提供するには、明らかに整いすぎたメニューだった。
「そうですか。では、それは馬小屋のお馬さんたちにでも食べてもらいましょう。これからも余り物が出た時には、そうやって処理するようにしてください」
しかし、この新王は、そんな気遣いを感じられる食事を平気で家畜のエサにしろと言う。そして、メイドの手からトレーを奪い取って、「わたしが馬小屋の御者に渡しておくので、もう帰っていいですよ」と素っ気なく言った。
「でも……」と渋るメイドに、アナスタシアはぽいっと手首につけていたリングを投げる。
「あと、これ、侍女部屋にでも片付けておいてくれませんか? 装飾品として渡されたんですが、わたしの趣味に合わないので。分かったら、さっさと行ってください」
「え、あ、はい! 了解いたしました……!」
女王直々に与えられた仕事とあっては、うかうかしていられない。口答えなどもっての他だ。メイドは慌てて立ち去って行った。
アナスタシアはトレーの食事を見下ろした。そして一度、それを地面に叩きつけようとしたが、ぴたりと思いとどまる。
しばらく考えていたアナスタシアは、ふっと笑って、トレーを持ったまま塔の中へ入って行った。
石造りの塔の内部は暗く、じっとりとした寒気さがあった。一階には衛兵が立っており、彼らは、王であるアナスタシアがどんな不思議なことをしていても口を出せない。そのため、アナスタシアが嬉々としながら、メイドのように食事の盆を運んできたのにも、表情をぴくりとも動かさずに敬礼をした。
階段を上がって、アナスタシアは「クラリスお姉さま、こんにちは」と言いながら牢の中にいる人物に笑いかけた。
鉄格子の向こうには、地べたに座り込んで、憂鬱そうにアナスタシアを迎える女性がいた。彼女の片足には足枷と鎖がついている。
国家反逆の大罪を犯した囚人としてここに囚われている、元第一王女クラリス・フォン・エルドだ。
「アナスタシア……」
「お節介な女中が、お姉さまに食事を運ぼうとしてましたよ。せっかくなので一緒に頂きましょうか?」
牢の鍵を開けて中に入るアナスタシア。その際クラリスは、特に逃げようとする素振りも見せなかった。それは、今抵抗しても無駄だと分かり切っているからなのか、すっかり望みを絶って諦めてしまったからなのか。
アナスタシアは、そんな姉の様子にも構わずに、慣れた足取りでソファにぽすっと腰を下ろした。そして、テーブルにトレーを置くと、クラリスを呼ぶ。
「ほら、お姉さまもこちらに来てください。そんな冷たい床に座っていると寒いでしょう?」
「……」
言われた通りに、クラリスは立ち上がった。そして、牢の中をぐるりと見渡すと、「前から思っていたんだが、罪人にこの待遇はおかしくないか」と呟いた。
この待遇。本来はもっと簡素であるべき牢獄に、ふかふかのソファとテーブルなど、品の良い調度品が揃えられている。天井につけられた照明も明るい。
仮にも元王女ということで、特別扱いのつもりなのだろうかとも考えられるが、クラリスが歩けば足枷に繋がれた鎖が石畳の床とこすれて音をたて、やはり彼女は囚人なのだと思い出させる。可愛らしい柄のカーテンがかかっていても、それが覆う窓には鉄格子が嵌められている。
様々な点でアンバランスなその空間は、いっそ殺風景な牢獄よりも、名状しがたい気味悪さを醸し出していた。
「クラリスお姉さま、口開けて、あーんってしてください」
ソファの隣にやってきたクラリスへ、アナスタシアはスープをすくった匙を向けた。クラリスはちょっと眉をひそめた。
「私は子供じゃないし、猫や鳥でもないんだぞ」
「あなたに拒否権があると思ってるんですか? わたしが飲めって言ったら飲むんですよ、お姉さま。いい子にしてください」
言い返すことができないのか、クラリスは黙って匙からスープを飲んだ。
いつも、クラリスの食事はアナスタシアが手ずから食べさせていた。クラリスは幼い頃、大人たちの政権争いのために怪しい薬を盛られた経験を思い出して、このスープにも何か毒でも入っているのだろうかと疑ったが、それが分かったところで、やはりどうにもならなかった。
「……こんなこといつまで続けるつもりなんだ」
スープの器を空にして、パンにバターを塗り始めたアナスタシアに問いかける。彼女はパンをちぎりながら答えた。
「わたしの気が済むまでです。全部わたしの気まぐれですよ。このおままごとに飽きたら、次はお姉さまを拷問にでもかけるかも知れません」
「拷問にかけられたところで、吐ける情報はないぞ。そして、反乱の罪については、私は絶対に認めない。私が君を裏切ろうとしたことなんかない」
クラリスは必死で訴えた。その銀の瞳には、無実の罪で投獄されたことへの怒りよりも、悲しみの色が強かった。
クラリスは、アナスタシアが昨日は重用した側近を今日は牢獄送りにするといった極端な恐怖政治をしているのも、彼女に心を許せる存在がいないせいだと分かっていた。孤独の底にいるであろうアナスタシアに、せめて自分は味方なのだと信じて欲しかった。
しかしアナスタシアは、姉の真摯な訴えを一笑に付した。
「わたしを裏切ったことがないですって? よく言えますね。アーバスノット博士の亡命を手引きしたのはどこの誰でしたか?」
「……彼が亡命を計画していたのは、君から彼を召し上げるように命令が下されるずっと前からだ。どのみち、ローレンスはスパイのような役目で、隣国へ送り出される予定だったんだ。彼も私も、祖国を裏切るつもりはなかった」
「国のことなんてどうでもいいんですよ。わたしを! わたしを、あなたたち二人は手を組んで裏切りましたよね?!」
急に甲高い声になって叫んだアナスタシアは、バターを塗っていたナイフを片手にクラリスに掴みかかり、その長い黒髪を引っ張った。クラリスは、武芸を極めた彼女なら、アナスタシアを突き飛ばすことも気絶させることもできたが、それを躊躇って無抵抗にしていた。
「わたしと男を天秤にかけて、結局男を取ったでしょう! ああ、汚らわしい! どうせなら一緒に国を出ちゃえば良かったんじゃないですか? まあその時も地の果てまで追いかけましたけど。のこのこ帰ってきて捕まるなんて、どこまでわたしのことを馬鹿にしているんだか」
ドスッ。ドスッ。ビリッ。
鈍い音と鋭い音が交互に部屋に響く。前者はアナスタシアがクラリスの身体を蹴る音、後者は彼女の握ったバターナイフで,クラリスの髪や衣服を切り裂く音だった。
「何が幼馴染、何が婚約者ですか。わたしだって本当は、王宮で育つはずだったのに。そしたらあなたと、全部逆だったのに」
ナイフはたびたび布を貫き、クラリスの肌を直接傷つけた。服のところどころに血がにじむ。クラリスはわずかに顔をしかめた。
アナスタシアは急にぴたりと動きを止めた。
彼女はナイフについた血をちぎったパンで拭って、それをクラリスの口元に向かって突き出しながら言った。
「だからあなたのものは、全部わたしのものです。あなたの何もかもをわたしに寄越してくれるまで、あなたの忠誠は認めません」
「……」
クラリスは口を開いて何かを言いかけて、やめた。そしておとなしく、そのまま血のついたパンをアナスタシアの手から食べた。それが一番アナスタシアを落ち着かせるのにいいと考えたからだった。
クラリスの判断は正しかったらしく、アナスタシアはやっと満足したように顔を綻ばせた。
「そう、そうです、言う事を聞けて偉いですよ、お姉さま。あ、服がボロボロになっちゃいましたね。明日、新しいお洋服を持ってきます。それまでは、クローゼットに入れてあるドレスでも着ていてください」
「君は正気か?」
目を見開いて思わず正直に聞いてしまったクラリスに、アナスタシアはもう何も答えず、ソファを立って鉄格子の外に出た。
何事か考えこんでいたクラリスは、アナスタシアが「ではまた明日」と階段を降りていく前に、彼女を呼び止めた。
「アナスタシア。君は確かに、女王の子として生まれながら、私と違って不当な扱いを受けてきた。私に対して思うところがあるのも分かる。君の言う通りに、私の全存在を君に明け渡そう。そして私が君のためにできることならなんでもする」
アナスタシアは黙ってクラリスの言葉を聞いていた。何の感情も読み取れないその瞳は、君主の誇りである金色。
それを強い眼差しで見つめて、クラリスは言った。
「だからどうか、私以外の誰かを苦しめたり、傷つけるようなことはやめてくれ。君の過去は、君が誰かを傷つけていい理由にはならないんだ。君は王だ。他人より優れたその才能と権力とを、この国の民たちのために使わなければいけない」
すばるの夜、クラリスがアナスタシアに渡した月桂冠。
あの時、クラリスは彼女を、王になるべき人間だと認めた。そのアナスタシアが恐ろしい暴政を働きはじめたのだとしたら、クラリスにも支える者としての責任がある。
まだアナスタシアはやり直せる。人々を幸せにする立派な為政者になれる。
クラリスはそう信じていたからこそ、隣国のことはローレンスに託して、自分はアナスタシアのもとへ戻ってきたのだ。
話を聞き終えたアナスタシアは、ちょっとの間クラリスのことを眺めていたが、にっこり笑うと、
「いいでしょう。民のことは知りませんが、とりあえず、あなた以外の人には手を出さないことにします」
ほっと息をつくクラリスを置いて、今度こそアナスタシアは階段を降りて塔を出て行った。
ひとり牢に残されたクラリスは、めくら滅法に切られた自分の髪と服とを見て、物思いに沈んでいた。しかし、寒い牢の中で、さすがに破れた服では支障が出るので、ためらう気持ちを押してクローゼットに向かった。
扉を開けたクラリスは、肩を落として独り言をもらした。
「母様。私にはあの子を……妹を、どうしたらいいのか分かりません」
クローゼットの中には、胸の部分に赤黒く血がにじんだ喪服が……亡き前代女王が殺された時に身に付けていた、漆黒のドレスが入っていた。
王宮の回廊を歩くアナスタシアは、薄く笑っている。
「ふふ、ふふ……お姉さまってば、本当に……」
馬鹿な人。そう心の中で呟いたアナスタシアの目は、らんらんと光っていた。
クラリスは、アナスタシアのために何でもすると言った。その代わりに、他人を傷つけるな、この国のことを思えと、忠告してきた。
結局、クラリスが守ろうとしているのは、くだらない国民たちなのだ。アナスタシアは冷め切った頭で考えた。今更そんな忠告をされたところで、もう手遅れだった。アナスタシアはエリスと契約してしまった。今やこの世界に用はない。
アナスタシアが望むのはただひとつ、クラリスのしぶとい心を折ることだった。
その誇りと矜持、尊厳まで奪ってやらなければ、クラリスから「何もかも」を寄越してもらったとは言えないだろう。
どうしてやろうか。堕ちた身だとしてもクラリスは紅騎士団長だから、肉体的な苦痛には耐えてしまう。だったら、犬のように這いつくばらせて、床を舐めさせようか。あの亡き母王の墓を荒らして、死体を牢獄に晒してやろうか。それとも、下町の精力盛んな男どもを連れてきて、毎晩姉のもとへ襲いに行かせたら……。
倒錯した笑みをもらすアナスタシアは、もはやまともではなかった。
しかし一方で、元来の聡明さが彼女にささやきかける。
そんなことでは、クラリスは屈してくれないだろう。痛めつけられ、辱められるのが自分だけである限り、姉はそれに耐え続けてしまう。
それに、与える食事に混ぜてあるメデューサの血の効果が一向に現れないのも気になるところだ。姉は血の毒に対して何かしらの耐性があるのだろうか。
だったら……と、廊下の真ん中で考え込むアナスタシアに、執務官が「陛下!」と叫びながら駆け寄ってきた。
「侍女部屋でうろうろしていたメイドが、聖具のリングを手にしているのが発見されました。すぐにひっ捕らえましたが、彼女は陛下からのご命令だと言い張って……」
「ああ、それはもちろん、あの女の嘘です」
無邪気な笑顔で振り返って、アナスタシアは答えた。執務官は目を丸くする。
「私の指示だなんてとんでもない。盗まれたんです。薄汚い女中なら、それくらいのことはしそうじゃないですか? それとも、私の言葉より、メイド風情を信じるというのですか?」
アナスタシアはにこにことして、執務官の背をつつき「さっさとあのメイドを牢獄送りにしてください」と言った。執務官は真っ青な顔でうなずいた。
きっと、この話を聞いても、誰もメイドが本当に盗みを働いたとは思わない。けれど、そんなことは問題ではなかった。大事なのは「王がそのメイドを牢に入れることを望んだ」ということのみだった。
クラリスに食事を運ぼうとしていたメイドには、おそらく料理人や召使いに仲間がいるだろう。メイドが処罰されたことで、クラリスにわずかでも救いの手を伸ばそうとする者たちは、見せしめの意味を悟っておとなしくなるに違いない。
その後でじわじわと、メデューサの毒と讒言で、クラリスへの不信感を高めさせる。
やたらと下働きの者たちに好かれているクラリスも、こうしてわずかな味方さえ失っていくのだ。
走り去っていく執務官を見送って、アナスタシアは再び考える。
そういえば、クラリスを助けようとするお節介連中の筆頭には、マチルダという元世話係がいた。彼女も最近妙な動きをしている。
クラリスが一番大切にしているもの。それは国民。そして、ローレンスや、特別親しい間柄の人物。
あのマチルダという少女を生贄にしたら。
悪魔的な考えがアナスタシアの頭にひらめいたのは、エリスの悪知恵か、もしくはありのままの彼女の発想か。
王宮に満ちみちた不穏な空気を、アナスタシアは深く吸い込んで、楽しげに歌さえ口ずさみながら回廊を歩いて行った……。




