虚空の額縁1
鮮血が、ペンキのように白い花々に散った。
真っ赤な薔薇もいいが、白い薔薇だって綺麗なのに勿体ない、と頭の片隅で思う。
「シャロン!」
背後から悲痛な叫び声が彼女の名前を呼ぶ。
アレクが青ざめた顔でシャロンを凝視していた。
ああ、自分の方がよっぽど、痛そうな顔をしているじゃないか。
アレクにそんな顔をさせたことが少し嬉しいなんて、思ったより出血が酷いのかもしれない。
「ねえ、そこをどいてくれる?
私もね、シャロンちゃんのことは傷つけたくないんだぁ。」
意識を再び相対する相手に向けた。
可憐に微笑むその顔に、毒花のような狂気を滲ませた少女が迫り来る。
その威圧感も、彼女を取り巻く力も、到底シャロンでは敵うすべはない。
けれど、今は根気と意地だけで立ち向かわなくてはならなかった。
「ふふ、反抗的な目だね。好きよそういうの。
でもヒーローとヒロインが結ばれるのは当たり前だって、シャロンちゃんにもわかるよね?
だからこれは何もおかしいことじゃない」
少女を取り囲むようにして、風が不自然に巻き起こった。
次に何もないところから水が浮かび上がり、最後に大きな炎が燃え盛り、天を貫く。
その全てが、シャロンに牙剥く凶器である。
「さぁ、早く退いて!
次はさっきみたいにお遊びじゃすまないよ!
本気でアレクシス王子を私のものにしちゃうんだから! 」
「そいつは確かに怖い話だ。
でもこんなやり方じゃ、私は屈してやれないな」
強気な言葉を口にするも、頬を伝う冷や汗は隠しきれない。
せめてナイフの1つでもあればと思うが、今は無いものを願っても仕方がなかった。
もちろん死ぬつもりなんて微塵もない。
シャロンにはこの先を生き抜いて、やらなくちゃならないことがあるのだから。
願いが叶う瞬間を見るために、今の自分の全てを武器に変えろ!
そんなシャロンに、少女はうっとりと夢を見るように笑みを深める。
大きな瞳に映るのは、愛しい愛しい運命の人。
「いいえ、いいえ、必ずヒロインは運命の相手と結ばれる。そして呪いが解けてめでたしめでたし。結末はいつだってそう決まっているのよ」
だから ________
これより時は半年ほど遡る。
雪が溶けて、ふっくらとした蕾が顔を出す季節。
アレクと初めて出会った頃から約4年の月日が流れた。
すっかりと背が伸びて顔つきも大人っぽくなったと思うが、やはり剛毛な癖っ毛は治らない。
その上貴族は長髪が良いとされるから、ますます朝の手入れが億劫になった。
シャロン、16歳。
乙女ゲームの悪役令嬢とぴったり同じになり、今年の春から魔法学園での生活が始まろうとしている。
「なのに、なのに、何っにも思い出せてないんだけど⁉︎ 」
ベキ、と無慈悲にも筆がお亡くなりになる音がした。
小鳥も囀る麗かな日、シャロンはいつものアトリエで今日も絵を描く。
しかしここ最近は、どれもいまひとつ納得がいかないものばかりだ。
それもこれも、何も思い出せていない苛立ちによるスランプが原因だった。
もう既に4年も経ったというのに、未だに1つのヒントも得られていない。
絵はもう積み上がるほどに描いてるし、アレクとも以前より仲良くなれた筈。
似顔絵なんてもう本人を見なくても描けるようになってしまっていた。
だが今日までにそれらしいものは欠片も思い出せていない。
そしてもうすぐ、乙女ゲームの本編は始まってしまう。
仮にゲームに手がかりがあるのなら、タイムリミットは学園生活の2年間しかなかった。
そもそも乙女ゲームは何の関係もない、という可能性もあったが、そっちの方こそお手上げである。
前世に繋がりそうなものなんて、他には何も思いつかなかった。
「…シャロン、少し根を詰めすぎですよ。
美味しい紅茶とタルトを持ってきたので、休憩しませんか? 」
ほら、と差し出されたのは宝石のように輝くイチゴのタルト。
甘美な匂いに鼻孔をくすぐられて、シャロンはのろのろと筆を置いた。
「そうするか…。
いつもありがとう、アレク」
いいえ、と低く甘く、アレクが告げる。
月日の流れはアレクシスの美貌を、より蠱惑的なものへと変化させた。
すらりと伸びた手足と、程よく鍛えられ均等の取れた体つき。
あどけなさが抜け落ち洗練されたその顔は、美の女神も飛びつきたくなるほど魅力的だ。
長いまつ毛が彩る碧眼に捕らえられれば、老若男女問わずその心を奪われてしまうだろう。
乙女ゲームの攻略対象恐るべし。
ただし、シャロンはすっかり耐性がついてしまい、天下の美貌は特に何の効果も発していなかった。
本当にパッケージ通りになるのか、という安っぽい感想しか抱かれていないことに涙が出る。
どうやらイケメンだからといって人生イージーモードに過ごせるわけではないようだ。
「ていうか、アレクほぼ毎日来てて退屈じゃない?
最近ろくに絵も描けてないし、私が発狂してるだけだしさ」
いつの頃からか設置されたテラスで、アレクが持参してくれた紅茶を啜る。
毎年アレクと父親が増設と改造をしていくので、何かとアトリエ周りは便利になっていた。
そのうちここに住める日も近いだろう。
「僕はこちらに息抜きに来てるので、体を休めればそれで満足ですよ。
なにより、今の貴方を放っておく方が気が休まらないので」
「そっか…。でも正直ちょっと助かる。
アレクが来てくれるから、私もこうして少しは落ち着いてお茶を飲めるし。
ありがとう」
シャロンが無邪気に笑いかけた瞬間、条件反射のごとくアレクが紅茶をぶちまけた。
幸い中身は全て地面に流れ落ちていたが、周囲の人間をビックリさせるには十分である。
「嘘だろ⁉︎え⁉︎火傷とかしてない⁉︎」
「失礼、手元が狂いました。
ところであなた、普段ほぼ表情がないのに急に微笑むのやめた方がいいですよ。
僕でなければ心肺が停止しているところです」
「心配してんのに人をミュータントか何かだと思ってんのか??喧嘩なら買うぞ?? 」
未だ思春期を抜けきれていないアレクは、ほんの少しの衝撃で誤作動を起こす繊細な体であった。
そのことはもうすっかり周囲に知れ渡っていたが、当人達はその原因を全く理解していない。
ついでに言えばアレクの方は取り繕っているつもりだし、シャロンなど、アレク意外とドジっ子だよな〜と呑気に宣っている始末である。
早くこのリーサル・ウェポンどもを何とかしなくてはならない。
「それより、学園に入学するのに必要な準備は終わりましたか?
2週間後にはもう寮に荷物を運び終えていなくてはなりませんよ。」
「ん、大丈夫。メイド長と3回くらい確認したし。
もし足りないものがあっても金の力で何とかなるからね、大抵のことは」
「それは貴族の御令嬢からは聞きたくない発言だった。絶対学園で同じこと言うなよ。
…君は家柄も申し分ないし、僕の婚約者として注目も浴びるでしょうから気をつけてくださいよ本当に」
はぁ、とため息をつく姿は、さっき紅茶をこぼした人間の態度とは思えない。
ただメイド長から庭師に至るまであらゆる人に同じことを言われているので、少しは気を引き締めようかなと思う。
まあ、できる限り、という条件がつくので前途多難であった。
「あ、そういえば本当にいいのか?
王族用に用意されてるサロンの一室、アトリエ代わりに使っちゃって」
「ええ、構いませんよ。
昔から王族とその婚約者が使うのが伝統的な習わしですし、咎めるような人もいないでしょう。
第一王子も利用できる場所ではありますが、彼は城から滅多に動けない体です。学園に顔を出すこともそうそう無いですから」
淡々と語るその顔に、感傷の類は見られない。
この数年で何となくだが、アレクは家族仲が良くないのではないか、という察しはついていた。
正直気にはかかるが、無闇に他人が口を出していい領域でもないので、本人から話してくれるのを待つことにしている。
だから、今はただ気が付かないふりをしていよう。
「じゃあ、遠慮なく使わせてもらおうかな。
2年間いっしょに学校生活すんの、楽しみだな!よろしく頼むよ! 」
自覚のないリーサル・ウェポンが遺憾なくその力を発揮し、ついに陶器のティーカップが音を立ててその役目を終えた。定年3歳である。
第二章はじめます




