月の王子様8
父親に手を引かれて、シャロンは長い回廊をどうにか歩いていた。
指先に力が入らないため、繋いでいるというより握られているような感じだ。
痺れた思考は今もまだ真っ白で、城のどのあたりにいるのかもわかっていない。
父親が心配そうにかけてくる声にも生返事で答えている始末だ。
ようやく建物から外へと出て、迎えの馬車に一歩足をかける。
その瞬間に、シャロンの動きが止まった。
「?シャロン、どうかしたかい?」
「……ごぃ……」
何事か呟いたシャロンの声を拾うことができなかった父親が、顔を近づける。
「シャロン、どこか具合でも」
「すぅっごいなんだあれぇ!!」
爆発音かと思った。
それはもう腰を抜かすかと思うほど、よく響くうるさい声だった。
実際直撃した父親は白目を向いていた。
意識を取り戻したシャロンは、どうしたことか馬車から降りて庭のほうに向かってぐんぐん突き進んでいく。
かわいそうに、御者は気絶した主人の介抱をするべきか、脱走した令嬢を追うかで涙目になっていた。
そんなことはお構いなしな彼女は、もうすっかり慣れてしまったアレクの部屋へと弾む足取りで進んでいく。
「身体中震えが止まらなかった!
なんだなんだあんなすごい演奏があんのか!
アレクのやつ、できるんなら最初から聴かせてくれればいいのに!
いやでもあの王子様もしかしたら気がついてないのかもしれないな!
この国じゃ芸術はそんな重視されないだろうし!
あぁ、勿体ない!勿体なさすぎて泣きそう!
こうしちゃいれないな、今すぐこの気持ちをぶつけに行かないと!」
今彼女はただ思いのままに突き動かされていた。
決して彼の演奏に臆したわけではない。
感動しすぎたゆえに、思考停止状態に陥っていたのだ。
そして前世の彼女は良いと評価したものは、ひたすら褒めそやしまくるタチであった。
芸術家のサガともいうし、オタクのそれともいう。
何よりこんな才能が埋れてしまうのは勿体ない。
ガサガサと葉がスカートについてしまうことも厭わず、シャロンは突き進む。
やがて部屋の中から漏れ出る明かりが見えてきた。
どうやらアレクは自室にいるようだ。
高鳴る衝動のままに彼女は初めてやってきたときと同じ窓の前に立つ。
部屋の主人に気がついてもらうため、勢いよく拳を振り上げたときだった。
ガンっガンっガンっ。
シャロンが窓を叩く音ではない。
現に彼女の手は未だ空中に止まったままだ。
ガンっガンっガンっ。
音が鳴るたび、シャロンの熱が冷えていく。
先程とは違い、今度こそ戸惑いから彼女の動きと思考の全てが止まった。
「あのクソデブ野郎!無能の分際で調子乗りやがって!クソックソックソッ!」
部屋のなか、ギラギラとした目の少年が狂ったように床を蹴り続けていた。
執拗に、念入りに、まるでそこにある何かを殺すように。
……うん?うん。
あれは誰だっけ?髪の色と目の色はアレクにとってもよく似ている。
服も今日着ていたものと同じだな。
うん?うん。
どれだけ逃げても現実からは逃れられない。
わかってはいても、これは苛烈すぎた。
今、アレクの顔はバーサーカー顔負けの殺意だけで彩られていた。
そのおっそろしい表情のままに、何もない床を蹴り続けている。
たびたびその口から吐かれる暴言の数々は、普段口の悪いシャロンもお手上げレベルだ。
絶対にこれは見てはいけないものだった。
何も見なかったことにするために、今すぐここから立ち去らなくてはいけない。
最高記録の速さでそこまで叩き出したシャロンだったが、悲しいかな部屋の主人は思い至ったように振り返ってしまった。
せめて他のところを見てくれたらよかったのに、窓の外に立つシャロンは目立ったのだから終わりである。
世界一いやな視線の交わりが起こった。
とても静かな世界が、2人の間に広がっていく。
次の瞬間シャロンはその場からクラウチングスタートで駆け出した。
そのつもりであった。
しかし後ろに引っ張られるような衝撃にその勢いは潰されて、次の一歩が踏み出せない。
油の切れたロボットのようにぎこちなく、彼女の首が回る。
「何をしているのですか?」
絶対にお前を許さない、絶対にだ。
気持ちの伝わる、大変恐ろしく素敵な笑顔だった。
スカートに添えられた彼の手は力強く、ときめきを感じざるえない。
完全に間違った心臓の高鳴りを感じながら、シャロンはこの先の全てを悟った。
窓の梁に片足をかけて満月をバックにこちらを見下ろすその姿。
麗しいはずなのに、シャロンはただ狂気しか感じていなかった。
まさかこんな形で前書きの伏線が回収されると思いませんでしたね




