第二十八話 分散
妻城市最西端の教会というのがそもそも存在しなかった。教会自体あるにはあるのだけど、それらはすべて東から南に位置する。その中で最も西側──という意味合いで最西端と恋毒は言ったのだろうか。
冗談。
廃墟で少女を殺す奴らが、調べてすぐ見つかる場所を拠点にするだなんて考えられない。
そこまで予測したところで、未来視は森に囲まれた住宅街を映した。少しだけ視界が高い。山を登ったところに居るのだろう。僕の意思に反して視界が百八十度回転し、姿を見せるはクリーム色の外壁をした教会。少々廃れたそこはたしかに隠れるにはもってこいの場所。
扉に手をかけたところで視界は戻る。
同時並行で進む現実ではホームルームが終わっていた。左右の視界で異なる現実を認識する不条理からの脱却に感情を麻痺させていると、
「おい」
金髪の女子が僕の机の足を蹴った。
「掃除。邪魔なんだけど」
言われて教室内を見回すが、たしかに放課後特有の喧騒は廊下で行われている。
何を答えることもなく席を立つ。この手の人とは会話をしたくない。
教室を出ると、談笑している女子の輪の中に白瀬さんが居た。背が高いからやっぱり目立つ。まあ、そんな存在も最近まで忘れていたんだけどね。
白瀬さんと目が合うと、「ごめん」と言って輪から抜け出しこちらにやってきた。
「もう帰るの?」
「うん。放課後に学校でやることなんてない」
「三年生になったらそうも言えないだろうね。なにせ受験生だ」
「どうかな。三年生は皆受験ってこともないでしょ?」
「進路希望調査表は書いたと言っていたじゃないか。君は適当だな」
呆れられてしまった。
黙り込む僕を見ておかしそうに笑う白瀬さん。背後の女子達がなにやらヒソヒソとしているが、そんなことはお構いなしの様子だ。
楽しそうだなあと他人事のように思った。そんな彼女の笑顔を見て悪い気はしない。
──こんな人でも、僕の尾行を巻いて、その上逆に尾行するほどにはぶっ飛んでいるのだが。
「ところで、このあと時間あるか? もしよかったら──」
「ない」
端的に答えた。その他の情報が一切落ちない答えだったと言うのに、白瀬さんは「まさか」と目を丸くする。
「……もう行くの?」
「止めてくれるなよ。まさかとは思うけど」
「……、……信じるとも。怪我して間もない方が彼へのアドバンテージになる。話を円滑に進めるにはもってこいの材料だ」
理解が早くて助かる。僕は「じゃあね」と言って歩き出す。背中に刺さる視線にはなにを答えることもない。
×
未来で視た場所をマップで探すこと三十分。それからようやく地下鉄を降りてバスに乗り込み、そこから歩く。学校から一時間ちょっとで目的地に着いた。
妻城市最西端の教会。住宅街を俯瞰できる位置。しかし絶妙に遠い位置だ。背後を見れば森……殺し合いが行われたところで誰に気づかれることもないだろう。
「まるで戦闘狂の発言だな」
馬鹿を言って時間を確認する。十八時。教祖は零時じゃないと会えないのだったか。周辺調査の為に直接この場にやってきたわけだが、あと七時間もぶっちゃけやることがない。ここまで山に近い住宅街にはスーパーくらいしかないし、暇つぶしすらも叶わない。一度帰って英気を養うが正しいか。
「……いや、なんにせよ面倒だ」
行き来の手間暇を考えたら英気も何もなくなる。ここは堂々と教会内で待ち構えてやろう。
決心した直後──
+++
「これが、想圏の失態か」
──何者かが言った。
声の聞こえた右側見てみると、少し離れたところに男が立っていた。僕よりも背が高く、しかし同じくらいの細身。真っ赤なウェーブがかかった髪の毛。鋭い目つきに凛々しい顔立ち。年齢は二十半ばといったところか。しかしながら、全身黒の服装は清潔感に溢れるが見ていて暑苦しい。
「君──」視線で僕を威圧しながら、彼は言う。「俺は火駒番と言う。是非覚えて死んでほしい。して、君の名前は?」
「はあ……」
武士道精神かな。僕は残念ながらそんなものを持ち合わせてはいない。
「桜内奏斗です」
「何故嘘を吐く」
一瞬で見抜かれた。
怪訝な顔をする火駒番。敵相手に気遣う必要なんて皆無だけど、僕は一応名乗ることにした。
「藍歌姫乃です」
「美麗な名だ」
僕の顔を凝視する火駒番。その称賛に嘘は見られなかった。
「器でなかったら、どれだけ幸せであったことか」
「……大罪みたいに言いやがって」
「勿論。世間一般に言わせれば君は──君たちはただ生きているだけだとも。それでいい。俺は悪でいい。すべきことに変わりはない」
「理解されない正義みたいな言い方しないでください。必要悪ですらない。そこらに転がる殺人鬼に同じだ」
「……そこらに転がってはいないだろう、殺人鬼など」
言い負かされてしまった。一度殺された気分。
「しかし、人を殺す鬼ということに関しては否定しない。器にとって、俺が脅威であることは間違いないのだから」
──殺気。背筋に爪を立てられたようなそれを感じると、未来視は僕の背後に落下する少女を映した。
咄嗟に振り返ったそのちょうどに、地面を陥没させて着地する少女。中学生あたりに見える。ダンサーが着ていそうなラフな服装。髪質はかなり硬そうで、腰のあたりまで伸ばしているのにツンツンとしていた。……で、火駒番に負けないほどの目つきの悪さ。
いやまったく、人は顔に表れるものだな。
「なんでまだ殺してないんだい? あんた、それは器だろう? まさか、怯えちまったのかい?」僕よりも一回り小柄な少女は火駒番を煽るようにして言う。「これだから憎悪を行動原理してる奴は嫌いなんだよ。『憎む』ことと『怯える』ことは同義なんだからさ」
「今の予知のような動き……姫乃くん。君は未来視を持っているんだな」
少女は僕を無視して、火駒番は少女を無視して好き勝手喋り続ける。
まずいな。こんな頭のおかしそうな奴二人を同時に相手する状況は非常にまずい。何がどう具体的にまずいのかは分からないが、正体不明の敗北がすぐ近くに感じる。
教祖との対峙よりも先にこういう事態になることを頭の片隅にでも入れておくべきだった。僕の阿保。
どうする……どっちだ? どっちから殺せばいい?
「逸るなよ、姫乃くん。まだ俺と会話をしている途中じゃないか」
背後で火駒番が言う。視線を遣る隙はない。
「ねえ、火駒番! 敵にばっか話しかける癖やめなよ! 『孤独』は『弱さ』の現れなんだからさ!」
「姫乃くん。君は人を殺したことがあるか? この人なら殺してもいいと、そんな納得をしたことがあるか?」
「殺す相手にしか話しかけられないってのは情けない限りだよ。『客観』は『成長』だよ、火駒番」
よし、決めた。この娘から殺そう。そうと決まれば善は急げ。ナイフを抜いて少女の懐に駆け込み──
+++
「は──」
息を切らす。
ぼうとする脳みそに酸素を送る。
今生きているのはここにいる僕であり、予測の中の僕はあくまで未来だ。それはただの架空。僕は二人もいない。僕みたいなのが二人もいたら地獄だろ?
「何言ってる……」
頭痛に顔を顰める。意味もなく頭を押さえ、自覚を言葉にする。
「僕は僕だけだ」
同時並行で進む乖離した現実はたしかに未来だと自覚できた。僕の居る未来は一人称で視ていたし、関係ない場所ではテレビを観るかのようで──とにかく、時間感覚が狂うことは確かだが、その境界を混じることは決してなかった。
しかし、僕はあの時間に確かに生きていたのだ。
嘘。
あの時間に僕は生きていない。
頬を叩く。まだ足りない。頭を殴る。これで大丈夫。
「さて……僕が外にいるうちに挟み撃ちに遭うってことは、時間的にはもうすぐだよな」
なにせ、僕はもう教会内部に侵入しようとしていたのだから。
人混みに逃げる時間はない。トラップを仕掛ける力もない。
ナイフを取って待ち構えるのみ。
「やってやるよ……」
瞬殺されるとは思う。組織としての良心が消えた今、その残虐性は止まることを知らない。敗北を確信したところで逃亡は叶わないだろう。
それでも。僕の周りの人間が僕の意思に反して死ぬ可能性の芽は摘まないといけない。
──で。
十九時が過ぎた。
陽が落ちる。
「………………」
まあ、予測でしかないしね。見たこともない奴らと戦う予測なんてそうそう当たらないだろう。
「よし」
教会で寝よう。
新たな決意を胸に扉を開く。
×白瀬九織
昨晩の告白は今思い出しても恥ずかしい。きっと一年後、十年後、この命尽きるまで恥続けるのだろう。それほどに重く、痛々しい告白だった。
そこに後悔はない。今しかない時間を丁寧に過ごすことが幸せなんだ。こんなことで後悔をしてしまっては、わたしに憧れた君にそれこそ恥をかかせることになる。
「じゃあね」
彼は颯爽と姿を消した。放課後に賑わう生徒達の波に呑まれることなく、孤を貫いて──。その光景をわたしは一年生の頃から毎日のように目にしている。まったく普通のことだと言うのに、一体どうしてその背中が遠く見えた? ……明白。彼に答えてもらうまでもなく、わたしは告白の応えを知っているから。
自分の気持ちにも鈍感でいられたのなら、それはどんなに楽だったことだろう。
×
帰り道に意外な人に出会った。住宅街にあるアイスクリーム店、そこのテラス席でアイスに囲まれている桜内桃春が居た。ハーフパンツにシャツ一枚という、なんとも彼女らしいラフな服装。
……うん? たしか今日は珍しく桜内さんが欠席したと話題になっていた。そんな彼女がどうして堂々とアイスを食べているのだろう。
「自主休校以外にないか……」
あそこまで堂々とされたら講義後の大学生に見られて補導されることもなさそうだ。
感心にも近い感情を覚えていると、彼女はわたしの視線に気づいて大きく手を上げた。
「おーい! おっぱ……白瀬ー!」
以前に揉みしだかれた胸の疼きを抑えてわたしはなんとか苦笑を浮かべて応じた。
彼女に手招きされるがまま正面に座る。
「奇遇だね。桜内さん」
「ほんと。どうしたの? 制服なんか着ちゃって」
「学校だからね……」
「なんだよ真面目ちゃんかよ」
世界の真面目の基準が桜内さんレベルになったら恐ろしいことになるだろうな。わたしの表情から思ったことを察したのか、彼女は身を乗り出して「いやいやいやいや」と否定から入る。
「当たり前のことが当たり前にできない人ってこの世に溢れてるっしょ? 赤信号を渡ってはいけない。約束を破ってはいけない。人を殺してはいけない。こんな当たり前をあまつさえ常識と認識できない奴すら居る。だから白瀬、あんたは真面目なのよ」
「相対的にって話だろう? ちょっと乱暴だよ」
「理由もなく悪意を向ける奴らよりは優しいっしょ。そいつらよりも好かれてる自信はあるわ」
「それはそうだね」
校内での彼女の評判を耳にすればそれは明白だ。井宮くんと合わせて二人、黒い噂一つ聞いたことがない。自分を偽ることなく、ありのままを曝け出して尚も周囲に愛される。
──だからわたしは嫉妬した。
君達みたいに眩しくなければ、彼の隣にいることはできないのか? わたし程度の存在では彼の記憶に留まること一つ叶わないのか?
……余計なことを考えだした。思考を誤魔化すために、わたしは「ところで」と話を変える。
「どうしてここに?」
「今日も今日とてくっそあちぃじゃん? ここのアイスめちゃ美味いじゃん? 当然の帰結よ」
「じゃなくて……どうして学校を休んでここでアイスを食べているのかって話だよ。単純な疑問なんだが……」
「んー…………まあ、そうだな……別に無関係でもないんだし、吐露したところでバチは当たらんか……」
その独り言だけで藍歌くんの話だと察することができた。
「姫乃のヤツが教祖と直接やり合うってのは聞いた?」
「……、……。……ああ、うん。聞いたよ。彼から直接」
「そ。あたしは奏斗から聞いてさ……。聞かされた時点で何もできなくなるだろ? 姫乃と教祖の二人だけの戦場に干渉すれば不利益が起こるかもしれないから……。でも、奏斗は何か企んでるみたいなんだよ。それを問い詰めようと思ったら見事に逃げられて……なんか、学校行く気なくなった」
「……そうだったのか」
この人の性格ならば、それはきっと悔しい思いをしただろう。信頼している人から頼りにされない時の心は知っているつもりだ。
悔しくて──それでいて苦しい。
相手が井宮くんというのも厄介だ。彼ならばきっと正しい判断であろうという、こちら側からの信頼があるのだろうし……。
「出来ることと言ったら自己嫌悪よ。勘違いしないで欲しいんだけど、こりゃあ弱さじゃない。向き合うことは強さだ。あたしにはそれができる。ただ相手が奏斗ってこともあって、この自己嫌悪には終わりがない。だからあたしは動けないんだ。アイスを食うこと以外に能がない」
「卑屈だな」
「ここで哄笑できたなら、そりゃあ気狂いだ」
と、彼女は顔の右半分だけを歪めて見せる。
半分だけで──笑う。……それは哄笑には満たないが、純粋な気持ちの表れだった。
本当になんて素直な女の子なんだ。一年生の頃から知っていたが、まさかこれほどにまっすぐな人だなんて。
……違うな。
視界に入れているだけで、わたしは観ようとしなかったんだ。
拒絶されて、
死を知って、
それならばと一定の距離を保つ俯瞰的視点を持った。わたしを知ろうとしてくれる人たちの気持ちを差し置いて──。
まったく呆れてしまう。視点一つでこんなにも見方が変わるというのに、わたしは今まで何をしてきたのだろう。
「桜内さん」
未来視があれば、もっと早くに気づけたのかな。
「わたしは藍歌くんのことが好きだ」
「……にょッ⁉︎」
こっちが驚くほどに驚愕していた。
こちらに大きく身を乗り出し、鼻息を荒くしてやや興奮気味になる桜内さん。
「ほ、ほほほほ、ほほほーん! まさかあの白瀬がねえ? しかもあいつを! こいつはおもろい! いやマジで……やっべ、恋をする白瀬ってなんかエロい!」
「ほんと女の子って恋が好きだよね……」
「絶賛恋愛中のアンタが言うか!」
「そう返されると弱い」
──わたし達は笑い合った。過ぎゆく時間を同じ感情で共有する。そんな当たり前が特別に思えた。
「聞かせて。あんたのこと」
親友を、初恋を、狂気を、そして両手の包帯を巻くに至るまでを語る。
否──昨夜の告白を含めた総括。
「行動力どうなってんのよ」
引かれてしまった。桜内さんに引かれるのは一周回って誇らしくもあるのかな。
「そんなにも好きなのね」
「うん。屍の器としての本能なのかもしれないけどね」
「……? 白瀬、あんた気付いてないの?」
「え……?」
「……はは! まじかよあんた。頭いいくせして変なところで抜けてんだなー」
「どういうこと?」
訊くと、彼女は舌を出して悪戯に笑んだ。
「やだね。教えてやんない。どうしてもってんなら、姫乃に訊きゃいいよ。あいつも絶対に指摘できるから」
「……意地悪だなぁ」
まあ、敵意や悪意が含まれた話でもないだろう。ここは素直に従うとするか。
「しっかしなー……意中の相手が教祖とやりあうってなると、流石のアンタも気が気じゃないだろ」
「いや、そこは彼を信頼している。どんな交渉をして勝負に挑むのかは分からないが……きっと、彼ならやり遂げてくれると」
「告白の応えを先送りにしてる時点でそれは通じないわ」
否定のしようがなかった。
そう。わたしは応えを聞くことが怖いわけではない。昨夜にそれを聞いてしまえば、彼との縁が終わると直感したのだ。
信頼をしていることは事実。しかしながら不満が含まれることも事実。
「一緒に考えようぜ。あたし達にできることを」
「……いいのだろうか。わたし達が何かをすることによって、それが彼の邪魔になるかもしれない。未来は視える人にしか視えないのだから……」
「……現状、恋毒と想圏が教団から消えたことによって、組織としての統一が失われつつあるんだっけ?」
「藍歌くんはそう言っていたよ」
「教団のアホ共は動きを大きく、それも派手になる訳だな。その分機関も教団拘束に動きやすくはなるが……。なあ。あたし達のすべきことって、あいつと教祖のタイマン前に妨害が入らないようにすることじゃないか? 暴れる奴らを引きつけてさ」
「なるほど……」
それはたしかに現実的なラインだ。妨害の妨害というのなら藍歌くんの邪魔にはならない。
「教祖とは零時に戦うらしいじゃない? それ以降はあいつのことだ、血の契約で第三者介入の場合も何かしら縛りを入れるだろ。だから、それまでなら──」
「彼らは屍の器を割り出す手段を持ち、人気のないところで手を出している。わたし達が探す必要もない訳だね。……ああ、これが唯一できることだ」
わたしが頷くと、桜内さんは不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。
「行こうぜ狂人。あんたが狂ってるところ、あたしに見せてよ」
そんなことを言う彼女に微笑で応じる。
……これは友達というよりも悪友に近い感覚だな。
×
「いい所知ってんだ」
桜内さんが嬉々として案内してくれたのは南西の街外れにある廃校舎だった。放棄されてからどれくらい経つのだろう……グラウンドは雑草が茂っている。校舎は蹴りを入れたら崩れそうなほどだ。心霊スポットとして名を馳せることができそうな雰囲気。正体不明の危険信号が侵入を拒絶させる。
「怖い?」
唇を歪めて桜内さんが言った。
「絶対に人が居ないって確信があるからこそ、そういった恐怖が生まれるのかもね。あたしにゃ分からんけど」
校門を潜る彼女の後に続く。
「もし窓から数人が顔を覗かせていたら恐怖も感じなかっただろうよ」
「それはそれで怖い絵面だけどね。……ところで、ここは?」
「奏斗が夢を諦めた所らしいわ。きゃはは!」
「夢を……諦めた? 彼が?」
あそこまで完璧な彼が夢を諦めた──冗談にしか聞こえない。夢を諦めるだけの欠点が彼にもあると言うのか。
「完璧な人間なんていないっつー話。あんたを含めてね」と、桜内さんは優しく微笑みかけた。「分かっているとは思うけど、蔑視してるわけじゃないわよ。眉目秀麗な奴が意外なところでポンコツだったりするのが人間として最高に可愛いじゃん? それが普通なのよ」
友人にここまで真っ直ぐに褒められたことは初めてだ。どう返していいのか分からないわたしは「バカにして……」と捻り出す。
そんな答えにこそ、桜内さんはバカにするように笑った。
「とりま、ここなら敵さんも襲撃しやすいだろ? 他人の目を気にすることなく、動きやすい」
「そうだね。逃げることも、逃すこともできない」
「はは! 狩人かよ」
「桜内さんの雰囲気に合わせて言っただけだよ。わたしに狩人の器量はない」
藍歌くんを言い訳に恐怖を誤魔化すだけ。恋は盲目というのはなるほど、こういう使い方もできるのか。便利だ。
「なあ、敵が殺しに来るまで暇だしバスケでもしようぜ!」
中々にインパクトのある文章だった。察するに、桜内さんには恐怖という感情が欠落しているらしい。
──なんて他人を知った風に分析するわたしはその誘いを断ることはしなかった。きっと、友人と不法侵入といういただけない行為に、多少の高揚感を味わっているからだ。
土足のまま体育館に入り、倉庫からボールを拝借して一対一を楽しむ。
あっという間に陽が落ちて、さすがに休憩をすることにした。わたしはステージに座るが、桜内さんは体力底なしのようで、一人でドリブルの練習をしている。
「罪を憎んで人を憎まず」彼女は突然言った。「人を馬鹿にしてるような言葉よね」
「其の意を悪みて其の人を悪まず……孔子だね。昔の裁判官は罪人の心を憎んだがその人そのものを憎むことはなかった──と」
「え? 犯罪被害者への煽りの言葉じゃないの?」
「ひどい曲解だよ。犯罪者に都合の良い言葉になるなんて」
もっとも、その言葉の載る孔叢子は孔子が死んでからかなりの年月が経っていたので、本当に孔子の言葉なのかという疑問はあるのだが。
……当然、わたしの知識にすら誤りが含まれているかもしれない。
「あたし達が教団の奴を返り討ちにして殺したとしてさ、裁判官様は罪だけを憎んでくれるのかね? ま、実際のところは裁判官じゃなくて表裏協会だろうけど」
「どうだろうね……」
曖昧に濁しているわけではない。本当に分からないのだ。わたしはきっとわたしを赦すことができる。しかし、それが第三者となれば何も分からない。
己を赦すことができる時点で、それ以上の発展はないのかもしれない。
罪と人を切り離して考える意味すらも無になる。
「君はどうだ? 桜内さん」
「あたしはあたしを憎む奴を憎む。そんだけだ。それだけが正しくて、そこに罪はない」
そんな痛快なことを言って、彼女はスリーポイントシュートを決める。外れていたのなら多少説得力に欠いていただろうに。
「あたしはあんたの言葉が聞きたかったけど。説得力あるし」
「言葉は流動的だよ。説得力なんて、聞く人聞く人によってさまざまさ。さっきの言葉もそうだが、わたしだって曲解しているにすぎないのかもしれない」
「誰が言ったかは重要よ。流動の方向性が決まる。あんたの言葉が悪い方向に行くことはないわ」
言われて満足してしまう。不意に熱を帯びる頬。恋のそれとは当然違うが、嬉しい気持ちの証明だった。
そうか……他人に踏み込まれると言うのも、悪くないな。嫉妬の感情を抜かすことはできないが、そもそもそれは他人に踏み込む意識の表れだったのではないか? わたしは一体どれだけ曖昧な女なんだ……。目の前の彼女はこうも真っ直ぐなのに。
「──ありがとう。桜内さん」
「呼び捨てでいいわよ。あんたがまだその距離感でいたいってんなら別だが」
「じゃあ……桃春」
「おう。あたしは白瀬って呼びのままね。こっちの方が呼び心地がいいし」
「え……」
どこまでも予想外を貫く人だ……。ここはお互いが下の名前で呼び合って関係を深めるところだと思っていたのに。
しかし、それもまた彼女らしい。
「なるほど」
──安穏の空間に、男の声が響く。彼は非常口から踏み込んでいた。
至極つまらなそうに──不愉快を極めたように言う。
「これが、想圏の失態か」




