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無彩色の願望  作者: 哀川
第四章 屍の器

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第二十六話 復讐

 ×白瀬九織


 わたしの両手から爪は無くなった。痛みに慣れさせない為だろう、風荻くんは時間をかけて十枚を剥がした。

 彼の目論見通り、痛覚は正常に反応している。

 しかし、彼の加虐心を煽らぬようにわたしは声を上げなかった。黙って唇を噛み締めたまま──噛み切って余計な出血をしたまま耐え凌ぐ。

 わたしの意思に反して流れる涙を風荻くんは指ですくった。


「……なんか違うな」

「萎えたかい?」

「萎えませんよ。ただ……あまり死に怯えているように見えない。痛みに悶えているだけだ。……まあ、いいですけどね」


 軽く笑んで、風荻くんはわたしの人差し指を握る。そして躊躇なく逆方向へ折り曲げた。


「ッ──!」

「すぐにそんな余裕もなくなるでしょうし。この段階で過去一の大怪我っすよね?」


 痛覚は正常に働き、対極に思考は麻痺を始める。

 まとまらない。まとまらない。

 痛いって、なんだ。

 折れ曲がった指。赤い肉の露出。

 これが地獄なの? 楊絵。

 違うよ。これは痛いだけだ。

 わたしにとっての地獄は彼に想いを伝えられていないことにある。


“あは”


 聞き慣れた幻聴がわざとらしく笑う。


“どうしてそこまで好きになったの。何をどう頑張っても、他人をそこまで好きにはなれないよ。自己投影だって無理。クローンにだってそこまでの愛情は持てない。あなたの恋の正体はなに?”


 悪いけど、好きの理由はどうでもいいんだ。正体が何であれ、わたしは今の自分に満足している。恋心を持ったところで損はしないだろう?


“人の受け売りでカッコつけちゃって。まあ、九織が満足しているのならそれでいいけれど、姫乃はどうだろうね。彼は九織が死んでも泣かないんじゃない。あなたの死体を誰よりも早く彼が発見したとして、一週間もすればあなたの存在なんか忘れるかもしれないよ”


 構わない。

 わたしが彼を覚えていられるのならそれでいい。

 遠くを見るような目で本を読んでいる彼を、つまらなそうに教室を俯瞰している彼を、静かに歩く彼を、物を丁寧に扱う彼を、儚い顔で世界を見る彼をわたしが覚えていれば。


「それだけで、満ち足りるんだ」


 わたしが薄く笑うと、風荻くんは目を見開いて顔を覗かせた。


「その顔だ。すげ……マジで綺麗。よくそんな完成された容姿で生きてきましたね。白瀬先輩を犯そうとした奴って相当多かったんじゃないですか?」

「……さあ。言っただろう? わたしは鈍感なんだ」

「痛みに対しても鈍感になれたら楽でしたねー」


 右手残り四本の指を、風荻くんはヘラヘラと笑いながら続けて折る。

 ────痛い。その感情は飽きることがない。

 口内を噛み砕く。

 血の香りが広がる。

 左手も破壊されるのだろうという予想に反して風荻くんはナイフを片手に退席した。五分ほどして、熱によって赤みを帯びたナイフに変わっていた。


「……そこまでしないと、君の欲は収まらないのか」

「人間としての衝動の方向性が違うってだけでしょ。多数派が常識となるこの世界で、俺はずっと息苦しかった。虚無に殺されない為に他人を殺して、私利私欲の破壊衝動を押し殺していた──」

「誰かを殺さないと満たされない君が、死を恐ると?」

「戯言に聞こえますか? もちろん怖いですよ。しかし、死んでも壊したい。あなたを壊したい。白瀬九織はそれほどまでに他人を狂わせる」


 わたしの左手の甲にナイフを押し立てようとする直前に、風荻くんは遠い目をして言う。


「白瀬先輩にはありますか? 己の為だけに叶えたいことが。死んでも成し遂げたい願いが」

「あるよ。わたしも聖人じゃない。欲に溢れる人間だ」

「その割には俺を殺す類の発言が出てきませんねえ」


 彼の言葉の続きに、藍歌くんに言われたことを思い出す。

 そうだ。これがわたしの本質なんだ。

 狂わなければ変化することのない欠陥──。


「やっぱり、あなたは『良い人』ですね」

「────」


 風荻くんがナイフを押し当てる。何も感じなかった。焼ける肌は現実なのに、それを自覚させる為の痛みはなかった。


“たった一人から理解されただけで、あなたは壊れることができるみたいだよ”


 わたしは声を出して笑う。痛いよりも嬉しいが勝った。気分がいい。


「どうしたんすか?」

「いや……わたしは良い人なんかじゃなくて、人がいいだけなんだよ。結局、君もわたしを都合の良い鏡として見ていたにすぎない。わたしを白瀬九織として見てくれている彼とは違う」

「……?」


 訳がわからないと言う顔をする風荻くんは滑稽に見えた。


「……なんかムカつく。誰ですか、彼って」

「さあね。誰なんだろう」


 ついに無言で風荻くんがナイフをわたしの左目に近づける。


“マゾなの?”


 今から目を焼かれるわけだけど、その痛みすら無視できたのなら、マゾかもしれない。認めるよ。

 目が潰れる──直前だった。


「ああ! 畜生!」


 大声を出して風荻くんは振り返った。


「もう来やがった! 恋毒か……? らしくもなくやる気になりやがって! ……くそ! くそ!」


 怒気を前面にして彼は部屋を出ていった。


「……誰かここに来たのか」


 彼の独り言からしてそうなのだろう。しかし一体誰が──


「……ッ!」


 遅れて感知する。

 言語化不可能の同類を探知する感覚。

 ──藍歌くんが近くに居る。近くに居る。


「ああ! なんで!」


 痛みなんて二の次だ。わたしは拘束を解こうともがく。

 神秘の拒絶。ここに魔術師は立ち入れない。生身の人間。魔術師以外の純人間。藍歌くんは藍歌姫乃としてここに居る。わたしを助ける為──風荻くんを……倒すのだろう。

 疑う訳じゃない。

 信じたい。

 それでも、わたしの見えないところで殺し合いはしないでほしい。

 万が一が頭を過ぎる。


「くそ……」


 もがけばもがくほどに手首足首の皮が剥がれ、自覚しないようにしていた痛みが大きくなる。

 剥がれた爪。

 五本の折れた指。

 黒く焦げた左手。


「いいよ……こんな体、壊れても。だからせめて、彼の元へ──」


 意味がないと頭の片隅で理解しつつも、わたしは抵抗を続ける。


『人間って、本来の力をセーブしてるんだってね……』


 ──いつの会話だっただろう。楊絵と話しをした。


『ああ、よく聞く話だ。三十パーセントほどしか発揮していないんだったか』

『そう。百パーセントのパフォーマンスに肉体が対応できないから。アドレナリンを血液中に放出させたりすればいくらか枷は外れる。生死の境目に居る時なんかは結構できるって聞くね……。

 勿体ないとは思わない。残り七十パーセントもの力を、大半の人間は余しているの。備わっているのだから、使いたいと思うのが自然よね』

『……そんな力必要かい?』

『必要。人間はこの力を使って戦争をする。戦争は文明発展のトリガー。進化の為に備えられている道具なの、力というのは』

『楊絵は戦地に駆け込むつもり?』

『ただの使い道の一つを述べただけ。私欲に使いたい。例えば──うん。自殺の時とかに使う。歯止めが利かないように、ね』

『縁起でもないことを言わないでくれ。……しかし、そう簡単に力を発揮できるだろうか』

『できるでしょ』


 楊絵は何食わぬ顔で言った。


『守りたいもの一つでもあるなら、できる。その為なら、狂える』


“あなただって、たったひとつの恋のために狂えるんだ”


 左腕を引く。

 限界を作るな。

 狂気の入り込む余地がないのなら、新しく創ればいい。

 できるとも。わたしは、彼のことがたまらなく好きなのだから。


「あああぁぁぁぁあああああ!」


 べきべきと、手首から先が破壊される。

 砕け切った骨のおかげで左手はするりと抜けた。


「あ、はは……正気じゃないよ。こんな──こんなのバカみたいじゃないか。自業自得とはいえ……いや、自虐に走りすぎか? 原因は風荻くん自身にある。彼に言わせれば『虚無』の責任なのだろうが、それにしたってしかし……」


 尋常じゃない痛覚を誤魔化す為に独り言を続ける。傷を極力見ないようにしながら、ほとんど動かない左手で作業台からペンチを取った。金具を固定しているネジの回転を試みて、力を入れればペンチを落として、次の道具を取って──

 繰り返し、繰り返し。

 全ての拘束を解くまでにどれだけかかっただろう。五分か。五時間かもしれないし、五日かもしれない。冗談だ。狂ったように(狂っているのだけれど)独り言を呟いていたものだから、その退屈さ故に体感時間が長く感じられただけだろう。現実的には十分くらいだ。

 立ち上がる。足の爪が無事でよかった。

 扉を開けた先には短い廊下が続き、その先は上への階段がある。一切窓のない地下室がこの場所の正体。さすがにもう拘束されることもないだろうと足を進めて……気づいた。すぐ横に扉があった。


「これは……」


 内鍵が付いていた。

 圧倒的違和感。外側に内鍵? それはまるで……。

 よからぬことを考え、ふとわたしが出てきた扉を見てみる。

 やはり、同じく内鍵が付いていた。

 この扉の向こうには、何がある?

 誰がいる?

 鍵を開けた。

 わたしの居た部屋と全く同じ構造の中、椅子に少女が拘束されていた。おそらくは中学生。ボロボロなのはセーラー服のみならず、その肉体までもが──悲惨なほどだ。両手だけ破損したわたしが軽く思える。きっと彼女は歩けないだろう。

 肩までの黒髪を揺らし、死んだ瞳でわたしを捉える。

 掠れた声で「だ、れ」と彼女は言った。


「たすけて、くれるの?」


 懇願が続いて、わたしはすぐに動いた。彼女の横の作業台から刃物を取って拘束を解く。二回目ということもあって案外すぐに解けた。

 椅子に力無く座ったままの少女は「だれなの」と意味もなく繰り返す。


「君を助けに来た……なんて言えば少しはカッコつけられるのだろうが、実際のところ、わたしの自分勝手でこうなってしまったんだ。言い訳を付け加えるとすれば、運が悪かった。しかし……」


 わたしはほとんど腕だけで少女を横抱きにする。


「こうして誰かを助けることができるのなら、自分勝手も捨てたもんじゃない」


 階段を上がり、小屋を出て裸足で森を駆ける。

 とりあえずこの娘を安全な場所に置いて、それから藍歌くんの元へ行こう……いや、考えなしに行動したら邪魔になるだけかもしれない。そうだ、結界の外に出て狂気を操ることができたのなら、結界そのものを破壊することができるんじゃないか? 和服の彼女と戦った時のように──


「ありがとう……でも、どうして」


 少女は涙を溜めて訊ねる。そんな目をされたら考えざるを得ない。誤魔化すことは不可能だ。

 わたしは鏡のままでいるつもりか? もちろん、そんなつもりはない。それはわたしのために動いてくれた彼らに失礼だ。

 そうさ。昨日の宣言通り、わたしはわたしのための幸せの為に生きてみせる。こうして名前も知らない赤の他人を壊れた身体で助ける理由はつまり……


「自己満足だよ」


 × 1


 その森のひらけた場所で吉野は足を止めた。静かに息を整えながら、なるほどと納得を見せる反面、驚愕と動揺が渦巻いている。

 弱さを見せるメリットはない。読み取られないように、吉野は状況を笑って見せた。


「ははっ! おかしいとは思ったんですよ! 恋毒が動くには早すぎる。そもそも奴は想圏に信頼を置いていたとはいえ、敵討に走る性格はしていないから部下を遣すにも不自然。教祖の制裁はあり得るが、それにしたって早すぎる。なら誰がここに来やがったのか……あなたなら納得ですよ──姫先輩」


 数メートル先に立つ屍の器、藍歌姫乃は無表情のままだった。

 初めて見た時からそうだ。彼はその顔から情報を読み取らせない。

 第一印象は不気味。それは今も不変である。


「あなたが誰かを助ける為に動く人だとは思わなかったんですけどねぇ。白瀬先輩は特別でしたか?」

「うん。僕は彼女に好奇心を向けている。勝手に破壊されると困るんだよ」

「……俺さ、姫先輩なら分かってくれると思うんですよ。殺人衝動──生きるための手段。罪深いと思っているのは法が存在しているからであって、行為の根本を悪いとはどうも思えないんです。あなたも同じな気がする」

「そういうことは白瀬さんに言えよ」


 ──両断された。あまりにも冷たい声色に吉野は足を引く。


「ここで同情を誘うってことは、おまえに初志貫徹の心はなさそうだ。りんなちゃんとは仲良くできそうだったんだけどな……」

「…………」

「僕はおまえの鏡になってやるつもりはないよ。自分勝手に人を殺す奴は死ね。場合によっては殺してやる。今がその時だ」


 彼の目が少し見開いた──気がした。反射的にナイフを構える吉野。


「まあ、僕は少し憂さ晴らししたところで引っ込むけど」


 それが彼の中に潜む幽霊と切り替わることを意味していることはすぐにわかった。しかし、生死のかかった状況下において、己の肉体の主導権を他人に握らせることには理解に苦しむ。

 この人に勝ちを確信させるだけの情報を与えた覚えはない。ならば何故? よっぽど幽霊が強いのか?


「そう不思議に思うこともないだろ」


 姫乃が容易に吉野の感情を読み取り、無表情のまま続ける。


「おまえ、魔術師としてはかなり弱いんだろ? だからこんな『神秘出禁』の結界……防壁を張ってるんだ。この環境を作って殺しを楽しむってのは、それだけで弱さの証明になるんだよ」

「言ってくれる……。そんじゃあ、殺される直前の方がごめんなさいしますか?」

「一人でやってろ」


 × 2


 一撃喰らわせたら交代。森に入った時点でそう決めていた姫乃は、攻撃に回らずひたすら回避に徹底していた。

 魔術が介入する余地のないこの場において、これはナイフを持った高校生の喧嘩でしかない。問題なく動きにはついていけており、完全にどちらが先手を入れるかの問題になっているのだ。魔術を抜かせばこうも単純化する殺し合い。

 一体どこを傷つけてやろうか……このフラストレーションを晴らし、尚且つ殺さない程度の傷──。

 吉野のナイフを躱しながら考える中、姫乃は憎しみによって突き動かされている事実に目を向ける。頼人の言う通り、姫乃は穏やかではなかった。

 殺すに値するではなく、率直に殺したい。

 よし。決めた。

 ──狙いが定まったとは言え、相手は物言わぬ地蔵などではない。生き生きと生き、こちらに殺しかかってくる。動きを止めることが必須だ。

 よし。これも決めた。決めたというか、これしか思い浮かばない。

 吉野が顔面目掛けてナイフを突き出す。姫乃はそれを左手で受け止めた。焼ける痛みに顔を顰め、それでも吉野の手を受け止める。


「まじかこの人」


 苦笑を浮かべる吉野の左目を斬り上げた。

 凄惨な声を上げながらも、吉野はナイフを引き、姫乃の膝に蹴りを入れて距離を取るという冷静な判断に出た。


「マジか! マジなんすね! 痛くないんですか?」

「痛えよ。でも、これで少しはすっきりした。後は久留田の役目だ」


 そう言って姫乃は静かに目を閉じる。

 そして、頼人が目を開けた。

 目の色が変わったことに、吉野は警戒を顕にする。


「不思議だ」


 頼人はどこ見ることもなく語る。


「今の今までおまえを殺したくて堪らなかったのに、妙に冷静な自分が居る。状況を客観視できている。なんでだろう──お前の顔を見て萎えてるわけでもないんだけどな」

「死人の考えてることなんて分かるわけねーだろ」


 高笑いをして吉野が走り出す。片目を失ったとは思わせない機敏な動きで頼人の懐に潜り込み、ナイフで腹部を裂こうとする。

 そんな彼の手首を頼人は血だらけの左手で掴み、捻り、足を払う。宙に浮く吉野もまた器用なもので、回転を利用して勢いの乗った蹴りを側頭部に放つ──が、頼人は右腕で防いだ。

 吉野は手首を、

 頼人は前腕を、

 二人は傷を負って再度距離を取る。


「そうだ……俺には分からないんだ。お前みたいな人間が何故今を生きているのか。何故その顔が死んでいないのか、疑念が怒りの先にあるんだ」


 結論に不信はない。

 身体に痛みはない。

 この体を持つ彼の心は、殺せと背中を押してくれる。


「殺してやるよ……! 来い、人殺し!」

「誰だか知らねえけど、もう一回死ねば大人しくなんのかなぁ⁉︎」


 × 3


 殺し合いは熾烈を極める。

 血みどろの攻防は一進一退。周囲の緑に赤が付着する中で、状況は拮抗にあった。傷を恐れることのない獣のような精神に、最低限のカウンターを喰らわせる知性。力量と技術に差異はない。

 あるとすれば──それは体力。

 左手に持ち替えた吉野のナイフが頬を掠めた時──反撃の一手が空を斬った。


「スカしたな」


 吉野のから一度距離を取り、肩で息をする頼人。

 姫乃の肉体には人並み以上の運動神経が備わっているものの、体力は平均を僅かに下回る。痛覚と違い、疲労は我慢で誤魔化せるものではない。体の至る所にできた切り傷も出血量も吉野に大差ないが、この状況が続いて先に足をつくのは自分の方だと頼人は自覚する。


「マジで誰なんだよ、あんた」


 吉野は口元の血を拭って言う。


「やりあってても面白くないし、さっさと引っ込んでくれない? 俺、姫先輩に一つ訊きたいことがあったんだよ。答えによってはあの人の評価が大きく変わる。この場を凌いだって俺はいずれ殺される……その前に、確かめたいんだ。確かめてから、虐待の続きをしたい」

「おまえ……罪悪感はないのか?」

「あるよ。勿論。自分がズレた存在だということも分かっている。代わりとしてはなんだけど、俺が殺す人の顔もしくは名前を一人一人覚えている。『いただきます』をいう感覚に近いかも……」

「……俺の名前を訊かないのか?」

「あ、ごめんなさい。死んでる人はノーカン。死んでる人を殺したってバチは当たらんっしょ?」


 怒りは最高潮に達する。

 自然と肩が揺れなくなった。

 理性が飛びそうになる直前の今、唯一無二だったさなえを思い出し、続ける。


「久留田さなえの名に覚えはあるか?」

「ああ!」


 吉野は考える間もなく笑顔で応じた。

 その頬に朱色を混じらせて、胸を張って言う。


「俺の命の恩人さ!」

「────」

「去年に学校サボったんだよ、虚無から逃げるように。当てもなく電車に乗って、市余町に着いて、金無くなって、やべえどうしようって困ってた時に声をかけられたんだ。すっげー綺麗なお姉さんに。困っているのならウチに来るといいって言ってくれてさ。話していて良い人なのは伝わったけど、人を疑えないアホっぽさが前面に出てて面白かったよ。知能がたりないっつーか……」


 呼吸を止める。

 憎しみは、その先へ。

 頼人は駆け出した。地面を蹴るその力は、明らかに肉体の限界を超えていた。

 余裕綽綽の吉野の反応が遅れる。

 吉野が横にナイフを振るう──それが遅れて見えた頼人は身を低くして躱し、開いた彼の腹部にナイフを突き出す。

 刃先の数ミリの侵入を許したところで吉野が大きく身を引くが、ただでは逃さない。鋭い蹴りを彼の鳩尾に入れる。


「──ッ」


 吐き気を抑え込みながら、転がり上手く受け身を取る吉野。表情からは焦燥が見えた。


「てめえ、あの薄汚い民宿の奴か! 久留田頼人!」

「つくづく地雷を踏むのが好きな野郎だ低脳殺人鬼!」


 状況が動く。

 限界を超えた頼人の動きに対応できず、吉野の反撃が届かなくなった。

 神秘介入の余地はない。身体能力の向上は怒りに身を任せた一時的な火事場の馬鹿力──だけじゃない。

 頼人は猛攻の中で笑んで見せた。

 藍歌が俺の背中を押してくれる。

 彼の殺意は白瀬九織を想ってのことでもあるが、それだけではない。頼人はたしかな同情と共感を汲み取った。

 姫乃の心に沈む間、彼の過去の大体は把握していた。故に、頼人は確信を持って言える。

 ──お前にだって、姉という存在は唯一無二だもんね。

 刻む。刻む。刻み続ける。

 息を忘れ、目的を忘れず、さなえの笑顔を思い浮かべる。

 あのような死に方をする人生ではなかった。こんな奴に殺される為の命ではなかったのだ。


「あんな良い女放し飼いしてちゃダメだろー⁉︎ 善意の塊をさ! 悪意が欠落しているのにさ!」


 吉野は回避に徹底する中で煽る。それが頼人の動揺を誘うことが狙いなのは明白だ。


「そんなあの人でも痛覚だけは正常だったな! 堪らなかったよ! 無知な美女が世話を焼いた年下に殺される構図ってのは!」


 ──姉貴はどう想ったのだろう。善意を向けた相手に殺される結果を誰のせいにしたのだろうか。風荻吉野の言う通り、姉貴は他人に悪意を向けることができない『欠陥』を抱えていた。ならば、死ぬ直前まで、殺されるのは自分に責任があると……そう想っていたのだろうか。

 許容できない。

 そのような事実を認めるわけにはいかない。


「顔面にブッ刺す直前だってさ、ずっと『ごめんなさい』なんて言ってたよ! 最期の言葉教えてやろうか? 『明日はいい日になりますように』だってさ!」


 それは、さなえの口癖だった。いつも失敗ばかりをしていた彼女が、自分の励ます為のまじない。頼人自身、その言葉に救われたことも多かった。

 そうか──それが最期の言葉だったのか。


 一瞬。

 頼人が持つ冷静を手放そうとしたその時だった。


“今じゃないだろ”


 らしくもなく、姫乃が語りかける。


“他人の体を使って人を殺せるなんて最高なのにさ、一瞬の涙で台無しにしようとしてんじゃねえよ。今すぐに入れ替わって僕が復讐を横取りしてやろうか?”


 今じゃない──その言葉には彼なりの優しさが滲み出ていた。己の肉体の損傷を気にすることもなく、死ぬかもしれないこの状況で焦る素ぶりも見せない。

 姫乃が死に抵抗がないことを頼人は知っているつもりだ。それを察したからこそ九織から乗り移ったのだから。しかし、その本質は今になって変わったように思えた。

 他人を気遣う心。白瀬九織と同じだ。

 あくまで自己満足にまみれた偏見だが、それでも、頼人は笑顔で言った。


「ありがとう。生きているうちにおまえと出逢いたかった」


 心からの想いに照れ臭さを感じながらも、目前の殺人鬼を削る。

 必死の形相で後ろに飛ぶ吉野の首にナイフを伸ばす──あと一歩のところだった。


「がッ──」


 息が乱れる。

 訪れたのは肉体の限界の、それを超えた限界。

 胸が痛い。傷口が焼けるようだ。うまく息を吸えない──吐き出せない。

 バランスを失い膝を着く。このような好機を吉野が見逃すはずもなく、今度は彼が飛びかかる番だった。

 しかし。決死の想いは彼も同じ。最初の冷静な技はなく、カウンターを念頭に入れていない襲撃だ。

 ──相打ちなら。相打ちなら、決められる。しかし、それは藍歌姫乃の死も意味する。身勝手な復讐の為に憑依しておきながら、そんな葛藤が生まれた。


“いいよ”


 熱意のない声は、頼人の右腕を突き出させる。


“不本意ではあるけれど、僕にとってもいい機会じゃないか。殺したい相手を殺して死ぬってのは”


 ×白瀬九織


 道なき道をひたすらに駆けた。

 風荻吉野という人殺しからの逃亡のみならず、未知の森という恐怖感はわたしの精神を見事に削る。

 しかしそんなのは二の次で、何が厄介と言えば、やはり制服姿かつ裸足で森を走る蛮行。シャツもスカートも破れ、太ももにまで擦り傷ができる。両手ほどまではいかないが、足にも相当な傷ができていた。

 よくよく考えてみれば、あの小屋の玄関には靴があったのではないか。少し焦りすぎたかもしれない。急がば回れとはよく言ったものだが……。

 なんにせよ、結界を出るにはただ走るしかない。どれだけ痛くて苦しくても、わたしの自己満足は止められない。この娘も藍歌くんも助けるんだ。


「……音。音が、聞こえます」


 少女が言う。


「そうか……? わたしには聞こえないが……」

「わたし、聴覚は人よりも優れていて……ここから北西──北北西かな……多分」


 疑うようなことはしない。無様に駆け巡り続ける今を打開する可能性があるのならば、それに賭けるまでだ。

 一直線に走り続けること数分、たしかに不思議なメロディが聞こえてきた。やがて森の隙間が見え、道路に出る。

 音の正体は車から漏れ出るスピーカーだった。音量を最大にして窓を開けているのだろうか、かなりうるさい。しかし、その素行の悪さに救われた。

 助けを求めようとわたしは車に向かって歩く。


「だから『rule the battlefield』と『swordland』はまったく別の曲でしょうが! 仙田! 本当に殺すわよ! 耳をかっぽじって聴きなさい!」

「何も同じだなんて言ってないでしょ! 少しリズムが似ていると思っただけです! 落ち着いてください七葉様!」


 物騒な言い合いはともかく、七葉様? それは知っている名前だ。

 ──まさか。

 わたしは後部座席を覗く。そこには肩までの茶髪の女の子──空明七葉が居た。彼女はわたしに気付くと「嘘ッ⁉︎」と仰天しつつも車を降りてくる。


「九織ちゃん! 大丈夫? 何その怪我! 誰にやられたの⁉︎ そんな怪我でよくここまで……痛い? ごめんね、もう少しでウチの医療班が来るから!」


 高い声がキンキンと耳に響く。少女も耳を塞いでいた。


「仙田! 音楽止めなさいよ! ほんと気の利かないグズね……」

「空明さん……すまないがこの娘を」

「仙田ァ!」


 黒スーツの男性が車から降り、少女を抱える。そのまま後部座席に彼女を寝かせ、簡単な治療を施してくれた。

 一安心し、わたしは曲げかけていた足を伸ばす。ここからだ。そう思った時、既に狂気はわたしの中にいた。

 よし、いける。


「しかし、空明さん……状況から察するに、藍歌くんと一緒に来てくれたんですか?」

「ええ。あなたが危険だって言うから。あいつ、結界の中に堂々飛び込むんだもの。考えなしで頭も悪そうだから、来た道も覚えていないでしょうし、こうして爆音で音楽を流していたってワケ」

「そっか……。わざわざありがとうございます」

「気にしないで。あなたみたいな人間が死ぬべき理由なんて一つもない。ただそれだけよ」


 絶対的な自信を持って言っている。なんて意志の強い人だ。


「さ、あなたも乗って。今は簡単な治療しかできないけど……」

「すみません。それはできないです」わたしは森へ振り返る。「わたしは行かないといけない……彼の元に」


 狂気を発現させる。

 空明さんが一歩引く音がした。


「……あなたを助ける為にあいつはここまで来たのよ。戻ってあなたに万が一があれば、今までの行為が水泡に帰す。分かっていて?」

「分かっています。空明さんが心配してくれている、その想いすら無視する行為だって自覚もあります。けど──無理なんです。彼のいない明日は、考えられない」


 狂気の口を開く。

 風荻くんが神秘を封じる結界を創ったということは、つまり彼は魔術での戦闘は不向きということ。結界は防壁だ。それを破壊することは確実に風荻くんを追い詰められることに繋がる。

 狂気が叫ぶ。断続的な風を切る音は確かに結界を破壊した。

 わたしは再度森へ走る。


 × 4


 互いのナイフが交差するよりも先に、二人に衝撃が走った。

 不愉快極まる音が聞こえたかと思えば、すぐに鎮まり、魔力がその身に戻っていたのだ。

 結界の崩壊。

 頼人の目が変わる。彼は瞬時に身体強化を施し、大きく後ろに飛んだ。近くの木に手を付いたと思えば、直後に木の根が吉野の足に絡みつく。

 錬金術の応用か──吉野は自分の不利を自覚する。

 上空へ持ち上げられ、地面に強く叩きつけられる。


「ぐあッ」


 後頭部を打ちつけて思考が混乱する。呼吸の乱れが加速。手放したナイフはどこかへ行ってしまった。

 まずいまずいまずい!

 頼人が飛びかかる。最後は自分の手で殺したいという意志があったのだろう。吉野に馬乗りになり、ナイフを心臓へ──

 明確な死への意識は、吉野に最後の時間を与える。彼は己の肉体に刻んだ魔術を発現させた。

 風荻吉野の得意──否、特異とする魔術は産まれた時から身体に刻まれていた文字式による幻術の一種。己の容姿を、自分の記憶の誰か、或いは他人の記憶の最も大切な人に見せるという、攻撃として使うには心細い防御の魔術。

 吉野は知人の前以外では常にこの魔術を使っていた。想圏の不意をつけた理由も、彼女に一度も『風荻吉野』を見せたことがなかったからなのだ。

 今、吉野は他人──藍歌姫乃の大切な人に見えるように幻覚を仕掛けた。

 久留田頼人は幻覚だと確信して攻撃を止めないだろう。姫先輩に一瞬の動揺が生まれたら、俺に反撃の余地が……。


「え……マジ、かよ」


 魔力補正のかかったナイフは吉野の心臓へまっすぐに突き刺さった。それで終わることもなく、刃を下ろし、胃まで切り裂く。


「姫先輩……あんた、俺と同じかもしれない」


 今、吉野自身がどんな姿に見えているのかは分からないが、幻術はたしかに発動している。藍歌姫乃は今、間違いなく彼の大切な人が切り裂かれるところを見ていた。動揺も一切なく、見捨てた。

 かつて、この幻術で隙を見せなかった者はいなかった。

 だというのに──


「冷たい奴」


 そんな負け惜しみを、表情の落ち着いた姫乃に向かって言った。


 ×藍歌姫乃


 肉体の主導権が戻った。それは僕の意思ではない。久留田が眠るように僕の心に沈んでいったのだ。

 風荻は上手く呼吸ができていない。確実に死ぬ。問題はないだろう。


「痛えな……」


 死体になりかけている風荻の横に尻餅をつく。

 全身が焼けるようだ。汗が止まらない。


「姫先輩……あなたはどうなんですか?」


 出血を気にすることもなく、しかし苦痛に顔を歪めながら風荻が言った。


「どうしても確信を得たい……。あなたは、白瀬先輩を犯したいと思ったことはありませんか?」

「死ぬ直前の彼女を美しく思ったことはある。でも、そこから殺意へ発展することはないよ」


 目を見て、本心を口にする。

 見つめ合うような睨み合うような時間が少し続いて、風荻は涙を流してこう言った。


「イッテー……」


 絶命した。

 僕を睨んだまま、死んだ。

 死んだやつのことはさておいて、思い返してみれば良くない感情が働いたことがあった。十一日──桜内に白瀬さんのことを詰められた時だ。正直に答えることは白瀬さんの望むことではないと分かっていた。それでも二人をぶつけてみたいと思った。

 もちろん殺人衝動に並べられることはないが、風荻に言わせれば破壊衝動程度にはなったのだろうか。そして、満足して死ねたのだろうか。だとしたら、だとしたら……


「……忘れていてよかった。お前が満足して死んでいいはずがないもんね」


 言っているうちに意識が飛びそうになる。まだやることがあるというのに……この程度で死ぬほど人間は脆くないだろうけれど、このまま寝てしまったら、流石に無事ではいられない。


「あー。眠い」


 考えるのが面倒になった。その時、数メートル先の茂みから枝を踏み折る音がした。熊だったら困るなあと思っていると……白瀬さんが現れた。

 ボロボロだった。一瞬にして僕の意識が醒めるくらいに。

 安堵に満ちた顔で歩いてくる彼女。裸足だ。つま先から太腿まで切り傷と微量な出血でいっぱいだ。右手は爪が一枚も残っていないし、のみならず、五本の指が全て曲がってはいけない方向へ曲がっている。左手も爪は残っていない。指の関節は無事だが、手首から先は骨が砕け若干肉も剥がれ、甲には黒く焼けた跡が痛々しく残っている。

 白瀬さんは僕の前で止まり、横目で風荻の死体を見て言った。


「これは、わたしの背負うべき罪だ」

「……そうでもない。君から僕に乗り移った久留田頼人がこいつを殺すことを望んでいた。君はただの被害者で──」

「ごめんね。引けない」

「……、……」


 気圧された。

 ……まあ、そこまで背負いたいなら背負えばいい。どうせ明日には軽くなる罪悪感だろうし。


「色々言いたいことはあるんだけど……うまく言葉がまとまらないんだ」白瀬さんは照れくさそうに言う。「だから、今すべきことではないと分かっているんだが……少しだけでいい。抱きついてもいいかな?」


 その割にははいっきりとした主張ができてるじゃないか……。


「困るよ。見てくれ。僕だって無傷じゃない」


 君に負けず傷だらけ。僕はわざとらしく両手を上げて見せた。頭部から足元まで刻まれたんだ。こんな状態で抱き付かれるなどありえない。そう言うよりも先に、白瀬さんは僕に抱きついてきた。

 というか、ほぼタックル。

 傷口が開いた。

 草むらに倒されてシリアスな叫びが出そうになるが、耳元で白瀬さんの嗚咽を聞いてしまえばその気も失せた。

 血の香り、彼女の持つ熱、早まる鼓動。そのどれもが僕に生を伝達する。

 白瀬さんは僕の視界を涙でくしゃくしゃにした顔で埋める。そして、笑顔を作って言った。


「無事でいてくれてありがとう」


 そんな初めての感謝に僕は答える。


「どういたしまして」


 ×七月十四日火曜日


 目を開けた。完全に眠っていた。気を失っていた。というか、死んだと思った。

 あの後──白瀬さんにふざけた答えをした後、僕は気絶した。気絶したことをはっきりと覚えているので、状況がまるで違うことには特に混乱はない。景色が地獄だったら多少の混乱も生まれただろうが、ごく普通のベッドの上だった。白一色の落ち着いた雰囲気が漂う部屋。とりあえず軋む体を起こす。患者衣を着ていた。身体のあちこちに包帯が巻かれている。


「おはよう」


 ──右隣のベッドには白瀬さんが居た。彼女もまた患者衣だ。

 僕に同じく包帯を巻かれている両手。形も肉もある程度戻っているように見えるが、包帯越しなのでその詳細はわからない。

 ひとまず「おはよう」と返すと、彼女は微笑んでから、


「……とは言ったが、この時間だ。さすがにおはようは無理があるかもしれないね」

「この時間……」


 言われて、部屋にかけられていたデジタル時計を見る。七月十四日火曜日の十五時十五分。


「半日以上寝てたのか」


 まあ、疲労の他に未来視の反動もあるのだろう。そう考えればまだまだ寝足りないくらいだし、こうして意識を覚醒させたことは褒めてもいいくらいだ。


「君も?」

「いや、わたしはもっと早くに起きたよ。それから家族や学校に色々言い訳を考えて……」

「あー……学校ね。しまったな」

「気にすることはない。君が休むことも浅沼先生に伝えておいた」

「え? そりゃあ助かるけど……、……なんて伝えたの?」

「君が熱を出したからその看病をすると」


 うーん。変な誤解を生みそうだけど、それで誤魔化せるのならどうでもいいや。


「……ここは」


 僕は白瀬さんの奥──窓の外を見る。景色には緑の木々がゆらめくばかりで、人工物は視界に入らない。


「空明家の息のかかった『人形医療研究所』だそうだよ。表向きは小さな町の一般病院。ありがたいことに、わたし達は無償で治療してもらったんだ。見てくれ」と、白瀬さんは右手の指をゆっくりと曲げてみせた。「違和感も痛みも酷いが、たった半日程度でここまで治ったんだ。人工皮膚が馴染んでいなくて包帯が取れるのはまだ先とのことだが、なんというか……すごいよ。それ以外に言葉もない」

「ふうん。それじゃしばらくはテニスができないね」

「うん。マネージャーに専念するかな」


 軽く笑う白瀬さんを見て流石と思う反面、常人の精神を遥かに超えていると思った。


「昨日は怖くはなかった?」


 ただの興味で僕は訊く。


「……もちろん怖かった。しばらくは他人の視線が痛いくらいになるかもね」


 ……彼女が風荻に何をされたのか、どんな会話をしたのかは分からないけれど、視線が痛い程度で済むのなら全然良い方だろう。


「さすがのメンタルだね」

「伊達に狂ってないから」


 彼女は笑う。

 僕は頷いた。

 それから、僕たちは昨日に何があったのか、その行動の詳細を語り合った。余すことなく、騙ることなく──虚言は一切含まれていない。僕に嘘を見破る能力があるわけではないけれど、そんな力はこの人相手に不要なものだ。

 白瀬九織は僕に嘘をつかない。……と思う。


「わたしは君にどれだけの恩を返さないといけないのだろう……」

「さあ。忘れてもいいんじゃない? どうせ僕もそのうち忘れるし」

「忘れないよ」


 白瀬さんは断言する。僕と彼女のどちらが忘れないというのか、少し考えて、すぐにどうでもよくなった。


「それより、ここから妻城までどれくらい?」

「車で一時間半くらいかな。今夜中には送ってくれると空明さんが言っていたよ」

「夜……そっか」


 教祖を殺しに向かわなければならないのだが、まあ、この体で焦って得することなど一つもないか。

 組織の崩壊は機関に捕らえられやすくなったこともあるだろうが、勝手をする奴らだって増えるだろう。それは殺人であったり、或いは意思の伝染。不安要素がどうしても残る。

 それに……


「久留田くんは、まだ反応がないの?」


 白瀬さんは目を伏せて言った。心の中で殺意を発露していたようだし、苦手意識を持つのも無理のない話だ。


「うん。たしかに僕の中には居るんだけど、一切反応がない。何かの感情に引っ張られることもないし、別にどうでもいいけどね」


 賢者モードみたいな感じかもね。そう言ってみれば、白瀬さんもさすがに引いただろうか。

 ……しかし、久留田は本当に何をしているのだろう。せっかく殺したんだから喜ぶなりしてさっさと出ていきゃいいのに。

 ひとり暗い顔をしていると、白瀬さんが指を立てた。


「少し、歩かないか?」


 と、ベッドから降りる。


「……屋上開いてるの?」

「うん。いや、多分」


 らしくもなく適当を言う。


「あ。まずは先生を呼んだ方がいいんじゃないか? 検査……検診? みたいな」

「先生は優し気なおじさんだったから、少し抜け出したくらいで怒られはしないよ」


 適当というよりも無茶苦茶だ。

 しかし、学校で見せていた、正体不明の郷愁を感じさせる様な──匂わせるような、薄っぺらい笑いではなく、ごく自然に微笑む彼女に手を伸ばされては、流されっ子に断る術など思いつかない。


「左手の方が痛むだろ」

「右手も変わらないさ」

「手なんか借りなくても歩けるよ」

「もっと楽に歩けるよ」


 乱暴になった。しかし、迷いない白瀬さんもまた、死ぬ直前の時同様に美しい。

 僕は彼女の手をそっと握った。彼女は強く握り返してきた。

 互いに包帯越しで感じるものは何もないが、どうしてか……僅かな熱を帯びていた。

 どうしてか──じゃないな。

 生きてるから。

 それだけだ。


 ×


 山に立った施設ということだけあって、屋上からは景色が一望できた。小さくどこか淋しい町と、それを囲む緑達。最近は知らない町を見ることが多かったから、雄大な景色を見たところで新鮮さも何もない。

 すぐにベンチに座る。

 飽きた。景色で腹は膨れない。


「復讐は正しいのかな……」


 白瀬さんも隣に座り、遠くを見て言った。


「久留田くんのしたことは、誇れることだったのだろうか……」

「……法律は感情もなく機械的に裁くだけ。それが正しいのだとすれば、復讐は間違っている」

「わたしも中学までならそう思っていただろうな。……君自身はどうだい? 復讐の善し悪しをどう考える?」

「殺されるべき人間は殺されるべきだ。復讐に関わらずね。もし久留田が関係なかったとして、僕が風荻を殺さない選択肢があったかどうか……。君に手を出した時点で、あいつを見逃すことはできなかったな」


 あいつが赤の他人だけを殺し続けたのなら、僕は『早く死ね』としか思わなかっただろう。

 ……白瀬さんの話によれば、風荻は『自分を好きになった人間を殺したい』という欲求があるのだったか。薔薇はかなり危なかった。危ないところだったし、危ないことをしようとしていた。風荻の願いを叶える為に動いていたのだから、間接的な加害者になりかけていた。

 過去視を使っていたのなら、この一件は未然に防げていたかもしれない。それは僕の未来視にしたって同じことだが……。

 とにかく、この一件は薔薇に共有してはいけない。あのお人好しのことだ、きっと無意味な責任を感じるに決まっている。


「わたしがもし君の立場だったとしても、おそらく風荻くんを殺しただろうな」

「君にしてははっきり言うね」

「曖昧で得することなんて、何もないから」


 そんな当たり前を言って、白瀬さんは空を見上げる。僕も釣られて見た。

 青と白。照りつける日射しは殺人的だ。


「ねえ、藍歌くん」


 こんな最高な天気だってのに、先の予定に殺し合いが待っている。気を抜いていられるのも今のうちか。


「わたしは君のことが──」


 視界の端で紅潮している白瀬さんを無視するように、僕は世界に耳を傾ける。

 風が鳴くだけだった。

 ここでどこからか爆発音でも聞こえたのなら、彼女の言葉を先延ばしにすることができただろうに。

 そんな期待も虚しく、白瀬さんが続きを言うところだった。屋上の扉が蹴り破られた。そこから二人の若い女性看護師が、一方は憤怒の顔色、一方はにこやかに僕らに向かって歩いてきた。


「何を勝手してるの! 十五時三十分には検診と治療の説明があると言ったじゃない! それなのに病室抜け出したと思えばこんな青春して……クソ妬ましい!」


 おお。これはまた性格の悪そうな人が現れた。左胸には笑原えはら笑子えみこと名札に書かれていた。全然笑ってねえのに。


「しまった」


 紅色からいっきに蒼白になる白瀬さん。

 笑原さん苦手なんだ。そりゃそうだよね、こんな人。隣にいて欲しくないもん。

 ……思っていると、笑原さんの隣の女性──蜜鉢みつはち子柚子こゆずさんが軽々しく白瀬さんを担ぎ上げた。


「はいはーい。大人しくお部屋戻りましょうねー。人形医療術って、馴染むまでに時間がかかるんですよー。注意されましたよねー」

「ちょっ……すみません。ほんの出来心というか──なっ! どこ触ってるんですか!?」


 セクハラに抗議を訴えつつ彼女は去っていった。なるほど。僕が起きる前に色々あったんだなあ。後輩に甚振られたのみならず、入院先の看護師にイタズラ(性犯罪?)をされることになるとは。白瀬九織の不幸は伊達じゃない。


「…………」


 つまりは、あれか。この場に残って僕を見下ろしている笑原さんが僕の担当なわけだ。


「……初めまして。ご存知でしょうけど、僕は藍歌といいます」

「いいよ。そんな畏まらなくても。君の体拭くときに全裸見てるし、もう他人って間柄でもない」

「はあ……」


 そういうもんなのかな。空明さん、ヤバい病院にぶち込んだってことはないよね。


「はーうざったい。院内でいちゃついてんなよ。見せつけてるわけ? こちとら九割女で出会いがないまま歳食ってるのにさ」

「とんでもないです。笑原さん、まだまだ若いでしょう」

「は? じゃあ抱いてよ」


 なにが『じゃあ』なのかさっぱりわからない。普通にしていたらモテそうなのに、どうしてここまで必死なんだこの人。


「…………………………………………冗談よ。ったく、ガキはこれだからさ」


 今の間、絶対冗談じゃないよな。やべえ病院だ。

 確信している僕を変わらず見下しながら、笑原さんはパンパンと手を叩く。


「そら、先生の説明があるから部屋に戻るよ。立てる? それとも戻りたくない? なら手足を縛って死ぬほどセクハラしてから無理矢理連れてくけど」

「例え嫌がっていたとしてもそんな工程踏まないでください。行きますよ、嫌がる理由なんてありません」

「あとさ。わたしの前でイチャつくのはマジ勘弁だけど、あの娘を泣かせんじゃないよ」


 浮きかけていた腰を下ろす。変わらず見下しながらではあるが、その声はたしかな優しさを含んでいた。まあ、発言からして僕への優しさではないのだが。

 それにしたって余計なお世話だ。


「大丈夫ですよ。彼女は泣くほど脆くない」

「馬鹿だねえ。ま、後悔しないんならいいや」

「……泣くことになったとして、そこに僕の責任はないでしょう」


 笑原さんは「ハッ」と軽く嘲笑し、その短い茶髪をかいた。


「童貞極まった発言だね!」

「……、……何かアドバイスがあるのならお聞かせ願いたいですね」

「わたしみたいな処女にできるアドバイスないだろ」


 

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