第二十五話 血に沈む
死体があった。
館を出てすぐの道路に堂々死体が転がっていた。
首の捻れた死体。和服を着ており、そのあちこちが破れていた。そんな状態だというのに彼女は美しいと思わせる。
壊れた肉。
それでも尚美しくあり続ける。
彼女が生きて動いていたのなら、それはきっと自殺直前の白瀬さんすらも相手にならないだろう。
……体だけでなく、地面までも破壊の跡がある。殺し合いがあったことは想像に難くない。
「もういいよ」
足を止めずに駅へと向かう。
保管庫付近での殺し合いだ。無関係だと切り離す訳にもいかないことは明白。
でも、もういい。僕はさっさと石白のビルに行かなきゃなんだ。寄り道をしている暇はないし、そもそもその体力もない。
──帰りの電車。
夜の山という退屈──虚無に満ちた景色を見ながらりんなちゃんを思っていると、
“だいぶ疲れてるな”
久留田が言う。
“あの娘の話が本当なら、いよいよ恋毒の相手だ。あいつは手の内を明かさないからマジに警戒しないといけない敵だが……大丈夫?”
もちろん大丈夫なことはない。今すぐにでも眠りに落ちそうだし、眠ったら眠ったで次にいつ起きられるかは不明だ。
“……やっぱりわからないよ、おまえ。信用のない相手にそこまで尽くせる理由はなに?”
またそれか。……いいんだけどさ、どうでも。
この車両に僕しかいないことを確認し、やけくそ気味に携帯を取り出す。画面には白瀬さんからの着信があった。喫茶店で爆睡していた時か……。まあ、昨日に手を振り返しておいて早速学校をサボったとなれば連絡はしてくるよな、彼女なら。
とりあえず白瀬さんは無視。井宮と桜内の名前に少しだけ悩み、通話をかけた。
『何かあったのか?』
ワンコールで彼、井宮奏斗は応答した。第一声から緊迫感が伝わってくる。
「あった。これからも何かしらあると思う。その全てを語る。その間おまえは黙っていてくれ」
『分かった』
流石に冷静な男だ。彼は黙って僕の言葉を待った。
──それから久留田が僕の中に入ってきてから今までのこと、そしてこれからのことを含めて語った。
その間、井宮は相槌一つ打つことなかった。ここまで冷静でいられる人間は、きっと僕の前には二度と現れないだろう。
『──大体は理解したよ。それで、質問時間はくれるのか?』
「まあ、いいよ。どうせ暇だしね」
『暇じゃなくても質問くらいさせてくれ』
苦笑を作る井宮が想像できた。
『何故打ち明けた? どうにも藍歌は勝手に終わらせるつもりだったようだが……』
「……そこは省略したか。うん。久留田に言われてね。『お前の守りたいものは信用がない』って」
『面白いことを言う人だな。そして中々に確信をついている』
後半、井宮は明らかに声色を変えた。明らかにくぐもっている。
『つまり、あれだろ……藍歌は俺──俺達を試しているんだろ? 状況を全て打ち明けて『何もするな』と、そう言うんだろ?』
「言う」
と、僕は賢い彼に放つ。
「これは八つ当たりでもあるし、僕が気合を入れ直す為の行為でもある。どっちにしたってただの自分勝手」
『卑下するなよ。おまえはきっと正しい』
「……それで、どうなの?」
『応えるよ。期待に応える。藍歌を信じて、何もしない』
「素直だね。二、三は反抗があると思ったけど」
『勿論理想の形とは言えないさ。しかし、俺の信じる道だけが正解とは限らない。俺の周りにいる人の数だけ選択肢はある。……それだけだ』
……明らかに以前の一件が過っていることだろう。井宮の言葉には重みがあった。
『ただ一つ……死ぬなよ。お前が死んで得することなんて何もない』
「……損得を決めるのはお前だけじゃないけどね。努力はするよ」
『本当に捻くれてるよおまえは』
今更だろ、と僕は答える。
通話を切ろうとした時、
『すまん、もう一つ』
と、井宮。
『白瀬さんには伝えたのか? 彼女は良い人だから、おまえが欠席すれば心配すると思うが……もしまだなら、俺の方からうまいこと誤魔化しておくか?』
「うーん……いや、必要ない。僕から連絡するよ。そうでないと彼女も納得……というか、満足しないだろうし」
『……? えっと、つまり?』
そっか。そこも省略していたか。
「つまり、白瀬さんは僕のことが好きでたまらないってこと」
『え? ……え? え⁉︎ マジか⁉︎』
井宮らしからぬアホっぽい声を聞いて通話終了。
かなり初心な反応だったな……。井宮はあのなりで彼女もいないようだし、そういう話や感情には疎いのかもしれない。
僕も僕で人のことを言える立場ではないけれど。白瀬さんはあくまで分かりやすい人間ってだけなのだ。
みちるのことがあると──彼女との過去があると、僕も大概なのだと自覚してしまう。
鈍感ではない。
それだけのことである。
「さて……」
電話かメッセージか……。言葉を交わすのは少々面倒だが、文字にするにしたって要約が面倒だ。
思い切って電話をかけてみた──が、彼女が出ることはなかった。
「…………」
まだ八時過ぎの時間とは言え、彼女には彼女の時間の使い方というものがあるだろう。当然僕にだってあるし、誰にでもある。
それだけのこと。
「それだけのことじゃないか」
一応『連絡くれ』とメッセージを送信して携帯をしまう。
ああ、まったく。
本当につまらない景色。
×白瀬九織
「どこからが信用できる人なのかって問題は、中々に悩ましい問題だとは思わない」
心に沈んでいるのか、ただ夢を見ているのか曖昧だ。
今はとにかく暗く、それ以外の情報は彼女の声以外にない。
「初めて会う人には誰もが警戒心を抱く。その防壁が崩れる時は、一体いつ?」
本心の笑顔を見せた時。その時だろう。そこに油断はなく、警戒心もない。それこそが信頼の表れだ。
「ふうん。なら、あなたは風荻吉野の前で笑ったの?」
…………。
笑ったよ。
「本心で笑った? 白瀬九織は本気で笑顔を作ったの? そこに含みはなかったの?」
──舞い上がっていたと、そう言いたいの?
「もちろん」
……、……。
「目覚めたら地獄だよ。でも、どうか、あなたが賢いままでいられますように」
×
目を開けた。
意識の覚醒は寝起きのそれとは違い、微量の光にも目を眩ませることはなかった。
古びた木の部屋。
裸電球一つが照らす五畳。
そこの椅子にわたしは拘束されていた。手首足首の動きを封じられている。大きく動いてみるも、わずかに腰が浮く程度でなんの解決にも至らない。横にはステンレスの作業台があり、その上には鈍器や刃物の数々が置かれていた。
──この状況は何だ?
最後の記憶はわたしが和装の彼女に敗れて……風荻くんが何かを言って……?
ダメだ。記憶につながりがない。
状況からしてわたし達は『敵』に敗れて拉致されたことになる。風荻くんはどこだ? わたしと同じように拘束されているのか? あるいは既に──
「失礼しまーす」
陽気な声だった。
扉を開けて入ってきたのは意外にも無傷の風荻くんだった。
「お目覚めですか。いや、マジな話驚きましたよ。俺があの女を殺すよりも先に先輩が倒れちゃって。あの怪物を無反動で扱えるようになるのはまだ先のようですねえ。しかし、それにしたって彼女をあそこまで追い詰められたのは驚愕でしたが」
「………………」
「和服のアイツね、想圏っていうんですけど、教団の中で一番強い奴だったんですよ。前々から目障りで……白瀬先輩が限界まで追い詰めてくれたからあっさり殺せました。ほんと、なんてお礼をしたらいいのか」
「……風荻くん」
「どこかの国の風の神を模した魔術だったかなぁ。想圏はとにかく隙がなかったんですよ。『組織的縛りをなしにする』って話だったのにあんな監視付けやがってさ……」
「風荻くん」
「しかしもうどうでもいいんです。俺はこれでおしまいだから」
「風荻くん……わたしはどうやら鈍感らしいんだ。他人に避けられている事を知らなかった。己を客観視できていない。そんなわたしでも、たとえ今の独り言がなくたって、君の表情で状況の察しがついてしまう。……わたしを拘束したのは君だな?」
「……鈍感は悪いことではないですよ」
遠い目をして心底羨ましそうに彼は言った。作業台に近づいてペンチを手にする。
これから何をされるのか。いとも簡単に想像できたものだから、わたしは反射的に狂気の発現を試みた。
……しかし、試みただけに終わった。
「そんな──」
心に空白があった。
知覚できない。狂気が抜け落ちている。
わたしが欠けている。
「ああ、無駄ですよ。ここは神秘を拒絶する結界を張っている。魔術の持ち込みは不可能だ。勿論俺だって例外じゃないです」
「……わたしをどうするの?」
できる限り焦りを見せずに訊ねる。冷静さを失えば会話の余裕すらもなくなってしまう。
……鼓動がうるさい。
「世界に殺されそうになったことはありますか?」
「世界?」
「虚無ですよ。産まれてから知覚していて、このままじゃ死ぬと自覚したのは一年前でした。その退屈の壁に圧死させられそうになっていたところ、すげー綺麗な人を見つけたんです。……俺はその人に命を救われました」
「殺したのか……」
「誰が何を持って幸せになるのか。他人にとってそれはどんな意味を持つのか。あの時、全てが分かりました」
淡々と話す。
ただ思い出話をするかのように、
罪を告白する。
一切理解できないでいるわたしの右の親指の爪をペンチで挟む。
「わたしには分からない」
「自覚していないだけです。人を殺せない人はいない。殺す理由が違うだけで、誰だって人を殺せるんだ。あなただって想圏を殺すつもりだったでしょ? それは普通のことですよ。白瀬先輩にとって、姫先輩との再会の邪魔をすることは殺すだけの動機になった。それだけのことだ」
「わたしを殺すのも虚無を砕く為?」
「まさか! 冗談でしょ。虚無を砕くのは器を殺すだけで事足りた。俺はね、それとは別に『俺を好きになった人』を殺したくなったんです。単なる衝動ですよ。手当たり次第に告白しましたけど……白瀬先輩。あなたは特別だ。完成された容姿、完成された性格、そのうちに秘めた狂気、全部壊したいと思った。キュートアグレッション? ってやつですよ。きっと、ドーパミンの分泌量がとんでもないんじゃないかな」
風荻くんは笑う。
わたしは当然笑わない。
「器でない一般人の破壊は教祖の意思に背くから、白瀬先輩を殺したら俺は殺されるだろうな……。でも、死んでも叶えたい目的なんだから仕方ない」
本当に一切笑えない。
大人しくしていればよかった。藍歌くんの連絡を待てばよかった。好きという気持ちを言い訳に勝手をし過ぎた。
──違うな。風荻くんと行動を共にしなかったところで、この子の破壊衝動はわたしに向いていたのだから結果は変わらない。
悔いるべきは、わたしの存在そのものか。
「この愚か者……」
俯いて呟く。
これからゆっくりと苦痛を与えて殺される。それが藍歌くんの為になるのならば話は変わるが、これは風荻くんの勝手でしかない。何の意味もない殺人だ。
……彼に会えず、想いを本人に伝える事もできないまま、訳のわからない死に方をする。
ああ──なんて地獄だろう。
「大丈夫!」
風荻くんはその顔を──邪悪に歪み切ったその顔を近づけた。
「生きてて可愛くて綺麗な人が、死ぬ時に限ってそうでなくなることなんてあり得ない」
爪が剥がれる。
×藍歌姫乃
石白付近の雑居ビルでの殺人事件──ここまで情報を絞れば未来視に頼らずともインターネットという文明の力で事足りた。
ビルの三階で殺人があったという。事件の詳細よりも死体の描写に気合を入れていた記事だった。妻城市で起こった殺人の中でトップクラスに猟奇的らしい。すごいねりんなちゃん。
暗い階段を上る。このビルは何に使われていることもないようなのだが、しかし取り壊しが決定している訳でもなさそうだ。なるほど、隠れるにはもってこいの場所と言える。
ここで殺しても、殺されても、確実に夜は沈んだままだ。
三階に着いてナイフを抜いた。扉を開けた向こうはパイプ椅子が二つ、向かい合わせに設置されているだけで、月明かりだけが室内を曖昧に照らしていた。
「簡素な面接会場だ」
僕は椅子に座った。本来ならこんな間抜けなことはしないのだが……とりあえずここは疲労の蓄積を言い訳にしよう。
“その賢さ故に恋毒は俺にほとんどの情報を落とさなかったが……奴の前では大抵の揉め事が鎮火するらしい”
それは、千畳夢みたいに敵意が向けられないってこと?
“断言はできない。ただ、奴が暴力的な一面もある以上、どれだけ些細な油断も命取りになる。これだけは覚えておいた方がいい”
「はい、油断した」
──女の声だった。その正体を探す必要はなかった。彼女は目の前の椅子に足を組んで堂々と座っていたから。
夏だと言うのに灰色のコートを着ている。雑にカットされたショートカット。その整った表情が涼しげだ。顔面だければ二十代半ばといったところか。
「恋毒……」
僕はぽつりと呟いた。握ったままのナイフをどうすることもなく、ぼうと彼女を見つめる。
「わたしが殺す気だったら、あなたは自覚するよりも先に死んでいましたよ?」
恋毒は静かに、穏やかに言って微笑んだ。
彼女を敵として認識できている。だと言うのに殺意が湧かない。それは僕の意思による決定であり、彼女に何かをされたという訳ではないだろう。
それにしても、白瀬さんの話とは随分とイメージと食い違う。この人は僕の頭部を攻撃したり、教祖と口論をしていたのではなかったか? こんな優美な雰囲気を纏っていては人を恨んだことすらなさそうに思える。
「あなたに顎を外されただなんて、とても信じられないですね」
「そうでしょうとも。そう言う人格ですから。今のわたしは『他人の冷静さを最大限にまで引き出す事』に長けているのですよ」
「人格……」
訊き返すほどの不思議はない。桜内とは勝手が違うだろうが、方向性は同じだろう。暴力と平和──二つの対極を持った人格。
「なるほど……。打ち明けなければ武器にすらなり得たでしょうに」
「武器を使う必要がない、ということですよ。ああ、『あなた程度に武器を使うまでもない』なんて意味ではありませんよ?」
「争う気がないって? それは無理でしょ。僕達の目的は互いに叶うことがない。だから衝突するしかないんだ」
「殺し合い以外に解決策がないだなんて、そんな残酷を言わないでください。お話をしましょうよ、人に生まれたのだから」
「…………」
拒絶する気にはなれなかった。話し合いで済むのならそれに越したことはない。途中で恋毒の人格が切り替わって殺されるとなったとしても……まあ、僕らしいオチではある。
「僕の願いは二つ。僕の周りの人の安全を未来永劫保障すること。もう一つは器を殺している人を僕に殺させること。無防備のまま寄越せとまでは言いません。正体と居場所を教えて、殺しの邪魔をしないでほしい」
「難しいですね」
即答し、恋毒は少しわざとらしく首を傾げる。
「機能している器を見逃すことはできません。あなたの周りというのは、先日の二人を言うのですよね。霊を武器とする者、人格とする者。……ええ、彼は絶対に見逃してはくれませんよ」
「彼ってのは、教祖のこと?」
「はい。器周りの最終決定権は彼にあるのですよ。逆にその他のことはわたしにありますが……。とにかく、あなたの願いは叶わない。しかし、お互いに妥協することはできるでしょう?」
「……、……」
「あなたの命は保障します。代わりとして、お友達二人を諦めてください。あの二人を捕える際、あなたには協力してもらいます。我々の無事の為にもね。そして殺人執行人ですが、そうですね……半年後に処分します。今はまだまだ制御できているけど、あの人は中々に勝手がすぎる。不利益が出る前に手を切るつもりでしたから、半年ほど待っていてください」
「うーん……」
ダメだ。全くと言っていいほど交渉になっていない。僕が井宮と桜内が殺されることを呑んだら本末転倒だ。これまでの時間が水泡に帰す。殺人担当についても、あと半年もの間久留田を僕の中に住まわせることになる。絶対にごめんだ。
……あれ? この人、さっきから彼女のことを抜かしていないか?
「そういえば──」変わらず穏やかに言う。「彼女、九織ちゃんでしたか。とても可愛らしい女の子ですね」
悪意も何も含まれていない無機質さこそ、今の僕には魔的に見えた。
「彼女は除霊に成功したそうで。それは器として機能していないということですが、その身に宿した狂気が消えたわけではない。あなたもご存知でしょう?」
「なぜ、それを」
「言ったじゃないですか。脅威を排除した後に迎えに行くと。今の状況はそういうことです」
僕は恋毒の喉にナイフを押し当てた。
一瞬、冷静の心が失われたが、恋毒の変わることのない表情に再び落ち着きを取り戻す。
「怒っちゃいました?」
「……どうなんでしょう」
「分からないのならばこのナイフは引きましょう」
と、人差し指で押し返す。
僕はナイフをしまって再び腰をかける。若干汗をかいていた。
「九織ちゃんが『アレ』を自由自在に操れるようになれば危険ですから、舞台から降りてもらったのですよ。彼女は怖い。今は自由に動いてほしくない」
「……生きてるんですね」
「約束します。九織ちゃんを降ろしに向かった者は教団の良心ですから」
この人にとって『良心』とはどんな意味合いを持つのか、僕にはわからない。
「組織を維持する上で最も必要とされるものが何だか分かりますか?」
「……それが良心だと」
「ええ。絶対的な支配を可能とする力を持とうと、反抗心や反発心は必ず芽吹く。それを摘み取るのが安全装置です。同一の目的を持つ常識人は、目的以外を見失った人にとっては眩しく見えるものなのですよ」
「そっか……全員が狂ったままだとしたら、そんな組織すぐ捕まりますもんね」
「必要以上の事はしない、信仰は人の数だけ存在する。当たり前の事を当たり前だと捉えることのできる人って少ないですから。罪を自覚した次には死ぬべきと、そうは思いません?」
「罪と罪悪感は別ですよ。僕も人を殺しました。それが罪であることは自覚しているけど、別に悪いとは思っていない」
「それはあなたが若いからですよ。もう十年もしたら、きっと罪悪感は生まれます」
あなたはどうなんだと訊こうとして、その前に気づく。この人は常識の範囲内で生きているだけであり、罪を犯しているのは別人格だ。それを問うのはこの人ではなく、もう一つの人格相手が正解だ。
こう言っては桜内を怒らせてしまうかもしれないが、多重人格が便利道具に思えてくる。
「脱線してしまいましたね。九織ちゃんですが、わたし達がこの国……否、この街に居る間は大人しくしてもらいます。この事を踏まえて、今一度交渉の見直しを──」
振動音が聞こえ、恋毒がその口を閉じた。
「……、……」
一瞬、神妙な顔をしてから「出てもいいですか?」と言う。
「はあ。まあ、どうぞ」
「ありがとうございます。何も危害を加えるための連絡ではないですよ。一応スピーカーにしましょうか」
別に気にしないけれど、恋毒は勝手にスピーカーで応答した。
「どうしました? この時間には緊急時以外の連絡はするなと、そう言ったはずですけれど」
『恋毒……その……想圏が死にました』
「────」
部下からの報告だろう。それを訊いて恋毒は絶句した。一瞬にして恋毒は青ざめて、先ほどまでの涼しげで余裕ある表情が一切なくなった。
『狂気の器も執行人の姿もありません。指示を……指示をください、恋毒』
眉間に皺を寄せ、こめかみを押え、悩みに悩み、ありとあらゆる苦悩を表した動作を見せてから──
「やーめたッ!」
笑顔で叫ぶ。
携帯を天井に投げ、ライターを取り出して火を付けると、蒼い炎の柱が天井まで伸びて携帯を一瞬で消し炭にする。
爽やかな顔になって、彼女は立ち上がって窓を開けた。
「暑いなあ」
コートを床に脱ぎ捨てる。その下は至って普通の服装だった。
「えっと……やめたって?」
彼女は背中を見せたまま、夜空を眺めて答える。
「言葉通りです。いくつか先を想定してみましたが、教団に未来はありません。想圏はわたしに並ぶ良心を持っていて、そして何より強かった。組織の中枢でしたよ、彼女は。そんな彼女が死んだとなると……この教団は一ヶ月内に組織として終わるでしょうね」
「良心……白瀬さんを捕えに行った人ですよね。つまり返り討ちにあったと、そういうことか……」
「九織ちゃんは過去に人を殺したことがありますか?」
「? さあ……ないんじゃないですか、多分」
「ならばありえませんね。あの狂気は確かに圧倒的な脅威。しかし、人を殺したことのない人に彼女は殺せない。……あの執行人と連絡がつかないとなると……不意打ちかなあ……想圏が隙を生むなんて……わたしの予想を超える厄介だったということ……? いや、それはない。ならば……なぜ執行人に気づかなかった?」
後半は独り言のようでほとんど何を言っているのか聞こえなかった。
しかしそんなことはどうでもよくて、僕は遅れて今の状況に気づく。
「──じゃあ、白瀬さんは」
僕は立ち上がって訊く。
恋毒は気怠そうに振り返って「ごめんね」と、悪く思っているのかどうか、声を低く謝った。
「百パーセント君の殺したがっている執行人が持っていきました」
「場所はどこです?」
恋毒に詰め寄る。詰め寄る意味がないと分かっていても、体を押さえ込むことができない。冷静な状態を維持して尚これだ。僕と言う奴はどれだけ自制心がないというのか。
「秋香町という、ほとんど森みたいな場所に彼は工房を持っています。そこでお楽しみ中でしょう」
四十キロは離れた場所だ。この時間じゃ電車も動いていない。タクシーを使うか。ああ、その前にお金を下ろさないと。とにかく今は急いで白瀬さんを助けに──
「教祖の情報も教えてあげましょうか?」
「……いいんですか?」
「ええ。もう命の無事は彼と直接交渉するしかないでしょう。わたしには関係のない事柄となりましたし」
本来の予定としては狂いない。白瀬さんが人殺しに捕まったのは大きな痛手だが……とにかく今は冷静になれ。
「この街の最西端の教会を当たるといいでしょう。時間は午前零時。彼はそこにいます」
恋毒は出口へと向かった。扉に手をかけるよりも先に僕は彼女を呼び止める。
ここで帰すには惜しいと思った。何か他にも聞き出せることがないか思考を逡巡させ……
「新たな執行人を雇う筈だったのでは?」
などと意味のないことを訊く。
「りんなちゃんが敗れる事と彼女が最期に悪戯をする事を予測してあなたと話をしにきただけですよ。まだ執行人候補は見つかっていません」
「なんですかそれ。未来視でも持っているんですか?」
「持っていたとしたら、こんな大人になるよりも先にわたしは自殺しましたよ」
×
彼女は去った。
少し話しただけだというのに、この人には絶対に勝てないと実感できた。予測する力など関係なく、彼女の最後の言葉だけで十分だった。
何をどうしたところで敵わない。
あの人なら、僕のことを言葉だけで殺せるだろう。
「これから殺すってのに……」
扉を閉める直前、彼女は言った。
『風荻吉野。執行人の名前です』
椅子を蹴り飛ばしてビルを出る。
……あいつの好きに嘘は含まれていないように見えた。しかし、どうしてだろう。愛情は時に歪むことを、僕は人並みに知っている筈なのに。実体験の有無に関係なく、それは知識的な話でもある。
──好きだから殺す。
サイコパスな感情を持ち合わせていたのだ。それはりんなちゃん同様に『虚無を打ち砕く算段』だったのかもしれない。
……僕は心の底で誰でも好きになれるあいつを羨ましいと思ったのだ。そこには怒りを通り越して呆れ──殺意すらも覚える。
友達でもない奴を信じるな。疑わしければ縁を切れ。
「………………」
夜道の端に猫がいた。首輪がついていないし若干汚らしい。野良猫だ。
僕の足にその体を擦り付けにきた。疲労が溜まる一方でさらにこれから疲れることになる。その先にすら面倒事が待ち構えている。
いつ限界を迎えてもおかしくない疲労の中、ほんの少しだけ癒しに思えた僕はしゃがんで猫を撫でてみた。
温かい。
「おまえは信用できるのかな」
「バカみたいな独り言ね」
……猫が喋ったわけではない。
背後から声をかけられた。振り返ると、そこには見覚えのある茶髪の娘──
「空明さん……」
空明七葉がいた。黒の清潔感ある服に身を固め、買い物袋を片手にしている。
「猫に話しかけるとか、あんた乙女のつもり?」
「乙女は猫に話しかける鉄則でもあるんですか。いや、それよりも……」
なんでここに、と言うよりも先に僕は立ち上がって目を合わせる。
「お願いがあります」
「は? 何? いきなり。わたしが美人の金持ちだからって、一体何を願おうと言うの?」
「…………」
「本っ当にあんたみたいなのが嫌い。最初に会った時はどうせ『面倒な女だな』とか思ってたでしょうに、自分が困ったときには軽い頭を軽々しく下げるのだから」
「マジなところ、友達になれそうだと思ってました」
「ああ、ちょっと優しくしてやったらこれよ。無関心のくせして下半身は元気なのね、あんた」
「優しくされましたっけ」
「あら、忘れたの? 大人しく光野のところへ行ってあげたじゃない。恩を忘れているのにお願い事だなんて、一体あんたはどこの石油王のつもり?」
「白瀬さんが殺されます」
やりとりが面倒なので一気に切り出した。
「法定速度を無視してとある場所まで送って欲しいんです」
「乗りなさい」
と、親指で道路を指す。
真っ黒なセンチュリーが止まっていた。
「ありが──」
「乗りなさい」
「……っす」
乗り込んですぐ、斜め前の黒スーツにサングラスの三十代ほどの男性が「どちらまで」と言った。おそらく僕に言っているのだろう、「秋香町まで」と答える。
言った途端、車は街中にも関わらず猛スピードで走り出した。あっという間に街を抜ける。百キロは超えている。
「大丈夫ですか? 警察とか、オービスとか……」
自分で頼んでおきながら変なことを言う。
「美少女の命と交通ルール、どっちが大切?」
たしかに天秤に掛けるまでもない。僕の場合、赤の他人となれば当然法律の方が重いのだけれど。
「──で。勢いに任せて行動してしまったけど、事実なのよね? 九織の命が危ういというのは」
「はい。……もしかしたら手遅れってことも」
空明さんは心底不愉快そうに目つきを鋭くする。
「犯人は? 経緯は?」
「犯人は高校の後輩です。経緯は……まあ、あいつの愛情が変な歪み方をした、そんな感じですよ」
雑な説明に不安気だが、過程を詰めたところで現状が変わることがないと当たり前を理解しているのだろう、空明さんはそれ以上詰めることをしなかった。
……白瀬さんが同性すらも虜にすることは知っていたけれど、こんな癖のある人すらも堕としてしまうとは。
「まったく、どうして人殺しなんてするのかしら!」
空明さんは運転席を蹴る。
「仙田! 答えなさい。何故殺人鬼は人を殺すの?」
「え……」と隠すことのない困惑の後々、仙田さんはなんとか繋ぐ。
「わたしにはありきたりなことしか言えませんよ。人殺しが三大欲求に含まれるという人がいるでしょう。売られた喧嘩を過剰に買ったという人も……目があったから殺したという人すらいるかもしれません。『殺人鬼は何故人を殺すのか?』──殺人鬼の数だけ理由がある。それが答えです」
模範的な回答だ。だからこそ気に食わないのだろう、空明さんは再び席を蹴る。
「じゃあ、あんたが人を殺す時の理由は? それなら絞れるでしょ?」
「……憎いから? ですかね」
「ふん。憎いからって人を殺すなんて最低ね。そんなだからわたしの御守りなんか任されんのよ」
「その発言、悲しくならないのですか? 七葉様」
仙田さんの返しを無視して空明さんは僕を見る。
睨むように。
「あんたは? 藍歌姫乃。あんたが人を殺す時の理由は?」
「…………」
問われて考えるフリをする。それもすぐに飽きて僕は答えた。
「幸せになる為」
「ふうん? ……ところであんた、殺人鬼を殺すつもり?」
「殺しますよ」
即答した。きっと殺す時には久留田に肉体を貸すことになるのだろうけど、もし久留田が存在しなかったとしても、やはり僕は風荻を殺すことができる。躊躇いも動揺も罪悪感も一切無視して殺せる。
「九織はあんたの幸せに必要な存在と、そういうことね?」
「さあね」
肩をすくめる。これもまた考えるフリ。
「本っ当に気に食わない奴よ、あんた」
笑わずにそう言った。
白瀬さんはこんな僕を好きみたいだけどね、とは返さなかった。
×
その山の麓で仙田さんは車を止めた。左側を向き、
「結界です」
と言う。
釣られて森を見るが、それらしいモノは視えないし感じられなかった。
「へえ、そうなの」
空明さんもどうやら視えていないらしい。
「相当緻密に創り込んだようね。性質は?」
「拒絶、疎外、現実──魔術師出禁といったところですかね。結界内では魔術因子等が持ち込めません。こいつを破壊するにはちと時間がかかりますよ」
「ふん。趣味を神秘に邪魔されたくないって? それとも魔術師以外なら殺せるって自信? 嫌いなタイプだわ。そして本当に厄介」
「構いませんよ」
僕は車を降りた。
ナイフを引き抜く。早見さんのバフがかかったこのナイフも、森の中では意味がないということだが、それでも人を殺すための凶器としての機能は失われない。
「あんた、話聞いてた?」
窓を開けて空明さんが言った。僕は振り返って「ええ」と答える。
「この森では魔術を使えない。当然未来視の魔眼も。藍歌姫乃という僕のままであいつを殺すことになる」
「一応程度に心配してあげてるのよ? 伝わっているのかしら」
「ありがとうございます。ここまで送ってくれたうえに、心配までしてくれて。でも、結界の破壊を待ってはいられませんよ。僕の中の殺意が勝手に大暴れしているから」
「……そう。ならその勝手に従えばいいわ」
僕は頭を下げる。
森へ侵入すると、興奮にも近い感情が騒ぎ始めた。感情の波に堪らず息を吐く。
「気持ちはわかるけどさ。少しは静かにしろよ」
“悪りぃな”
悪びれた様子もなく言う。
“いよいよ──無念を晴らすことができるんだ。姉貴もきっと俺を見ている。望んでいる! 確実に殺す! 誰かが殺さない選択肢を強要してきたらそいつごと殺してやる!”
「それは少しやりすぎな気もするけど」
“……そんなこと言うけどさ、藍歌、おまえだって内心穏やかじゃないよね。分かるよ。俺の感情の影響もあるだろうけど、それを抜きにしたって殺意は収まらないだろ?”
「うん……白瀬さんに殺されるだけの理由はない。だから風荻は殺すに値する」
“軽く言うぜ”
勿論軽い気持ちで殺すなんて言わない。東条さんにも言われたしね。
『もう軽い気持ちで殺しちゃダメだよ』
重い気持ちで殺す。
熟考の末に殺す。
殺すべきだから殺す。
殺す殺すと豪語する僕が全面的に正しいかどうかは分からない。今の僕に客観視できるほどの冷静さは残されていないから。しかし、ここで風荻を殺さないという選択肢を取れる人はどんな人生を送ってきたのだろう。常に助け合って、色んな人に愛されて、憎しみを知らずにのうのうと生きてきたのだろうか。
だとしたら、それはすごく羨ましい。殺すよりも世界を恨まずに死ぬことは楽だから。
「なんてね」
森を駆ける。
漠然と、直感的に、白瀬さんが生きていると言う正体不明の確信を得て──




