第十九話 憧れの側
“やっぱりおまえのところに来て正解だ”
久留田頼人は無理に声を明るげにして言った。
“おまえの躊躇のなさには感服しかねえよ。一体なにを喰えばそんな人格になる?”
つまらない冗談を言って見せたが、僕の心の中にいる奴が僕の心を分からないはずもない。仮に『分かりにくい』としても、大雑把には見えているはずだ。
だから僕は久留田に何一つ反応することなくナイフを振り上げた。
狂わせるのも、
正気に戻すのも、
痛みに限る。
ナイフを下ろすよりも先に千畳夢は自分の顔の前に腕を出す。
それでいい。もとより殺す気なんてないのだから。
僕がこの娘の右手首を切り裂こうとした時だった。
二つの視界で、二つの世界を視る。
×千畳夢
“気持ち悪りぃ! 汚れた金でガッコーくんなよ!”
三年前──魔術師育成学校中等部二年の時に小規模のイジメが始まった。
千畳には財力を盾にありとあらゆる失敗から逃走し、のみならず不当にのし上がろうとした過去があった。
今となっては千畳の名を聞いたところで『どうでもいい』と思う程度に事は風化しているが、それを面白半分に掘り下げる輩がいないわけではない。
誰かが消えかけていた火に油を注いだ。
その燃え方は極めて限定的で、私と双子の妹の希のクラスの数人だけ。
“千畳は悪いことをした”
大雑把な認識だけが彼らの思考を巡った。
所詮、何がどう悪いことなのかを説明出来る人はいなかった。しかし、子供の思考というのはその全てが《大体》で埋め尽くされている。『悪いことをした』という事実だけで千畳を悪人と捉えるには十分すぎた。
事実であり、真実なのだけれど。
「お姉ちゃん」
希は毎晩私の部屋にやって来た。
「またいじめられた」
私と希は別クラスだったので、その状況がどれほどのものかは分からなかった。
言ってしまえば、私はそこまでではなかった。
ある日に私の勉強道具一式を破壊した数人の男子を痛めつけ、そして「私より賢くなってから見下しなさいよ」と言った。私自身も千畳という名に不快感を覚えていたから疎外したくなる気持ちは十分に理解できる。しかし、それは私ではなく私の父にするべきなのだ。
「罪人の子は罪人? 冗談じゃないわ。私は私よ。痛めつけたいなら私の父になさい」
そう宣言した時、私のクラスの認識は変わった。『千畳は悪いことをした、故に千畳夢は悪い奴だ』ではなく、『千畳夢はやばい奴だ』と。
私に関わってくる人は居なくなったが、いじめもさっぱりとなくなった。ちゃんとした実力で一人前の魔術師を目指して勉強する環境としては最高だった。
しかし、希の方はそうでもないらしく、
「助けてよ」
就寝前に助けを求めるのが日課となっていた。
「やられたらやり返しなさい。そんな弱気だからいじめられるのよ」
私は繰り返し言う。
「でも、やり返したら同じ立場になるよ……」
希は繰り返し言う。
「しつこいわね! それなら黙ってなさいよ。綺麗事を吐いているうちは気持ちいいだろうけど、気づいた時には死んでるわよ! それでいいならどうぞ! はい、死になさい!」
初めてそう怒ったのは、いじめが始まって数ヶ月経ってから。
「昔から弱気……そう言うところが嫌い」
すぐに言い過ぎたと後悔した。けれど、胸の内には『これで少しは部屋に来なくなるんじゃないか』という卑しい考えもあった。
泣くと思っていたが、希はぎこちない笑顔を作って言った。
「ごめんなさい」
静かに扉を閉じ、それから希が部屋に来ることはなかった。
次の日の放課後、大雨の中に川沿いの道を選んだのはほんの気の迷いでしかなかった。
朝は偶然顔を合わせなかったが、夜になるとそうもいかない。両親と私たちは揃って夕食をともにする。しかし、昨日の今日で素直に顔を合わせられるわけがない。だからこそ回り道をした。
傘に打ちつけられる雨音が異様にうるさかったのを覚えている。そして、橋の中央に差し掛かったところで胸騒ぎが大きくなったのも、鮮明に。
視界の端──荒れた川沿いに人がいたのだ。上半身だけが水中に入っている。岩か何かに引っ掛かっているのだろう。私は傘を捨てて橋を飛んだ。
高所からの落下も身体強化を施せばなんてことはない。
「妹に優しくできない奴が他人を助けようだなんて……!」
自分の気持ち悪さを口にしたところで体は止まらない。
「大丈夫!? 今引き上げるからっ!」
ボロボロに破れたズボンに脱げた靴、剥がれた爪や裂けた肉など、痛々しい状態だった。
私は少女であろう華奢な肉体を引き上げた。
そして目が合う。
私と同じ冷たい赤の瞳。黒の髪。
私とは違う、紫の唇に青白く死んだ肌。
首が捩れたその少女は、千畳希だった。
「────」
人が真に恐怖した時には体が全く動かなくなると知ったのはこの時だった。
死んでいるのは明白なのに目が合っている。体が石化した気分だった。
「う、ぶ」
込み上げる吐き気が体の硬直をかき消す。胃液を吐いた後に私は死体に寄った。
「なにしてんの、希……なに、死んで……」
“ごめんなさい”
それが最期の言葉。
吐き気が治らない。何をしたらいいのか分からない。
混乱としている中、私は希が右手に何か握っているのを見つけた。
──ヘアゴムだった。私とお揃いの赤いヘアゴム。
『はい、誕生日プレゼント』
九歳だった頃の記憶が蘇る。
『わあ! お姉ちゃんとお揃い!』
『そうよ。感謝して身につけることね』
『うん! ありがとう! でも、髪型どーしよ。縛ったことないよ』
『なら、私と同じハーフアップにしましょ。可愛いわよ。なにせ私と同じ顔だもの』
『分かった、これからずっとこの髪型にする!』
『飽きちゃうわよ』
それから私たちはいつも同じ髪型をしていた。
髪型──希の髪の毛に違和感がある。そっと頭を持ち上げてみると、後頭部の髪がオカッパのようにバッサリと切られていた。
体がボロボロになるまで流れて来たんだ、髪の毛に変化があっても仕方ないかもしれない。しかし、ここまで人工的な切られ方があるだろうか。
「──ごめんなさい」
どうでもよかった。
誰かに殺されたのではないか、という漠然とした予測ができたところで意味がないのだから。
「千畳希は、死んだ……」
力強く抱きしめた冷たい体が動くことはなかった。
それから私は喉が潰れるまで泣いた。自分の顔面を掻きむしり、それでも消えない後悔に苛立ちを覚えるばかり。
いよいよ私も川の中に飛び込もうとしたところで、
「なんとも哀れだ」
いつのまにか隣に居た男が言った。
「こんな死に方をするだなんて。一体前世で何をしでかしたというのだ……?」
長身で黒服のいかにも怪しい風貌だったが、私は迷わず彼の襟首を掴んだ。
「妹の死を愚弄するか!」
「冷静になりなさい。よく見るのだ、この死体を……これがまともな人間の死に様か?」
「人類全員が死に方を選べるかよ!」
口調が崩れる私を相手にしても男は顔色ひとつ変えなかった。
ふむ、と顎髭を撫でてから私の手を優しく払った。
「認めたくないのはわかる。しかし、千畳希を狂わせたのは君でもあるだろう?」
「な、なにを……」
「この娘は搾取される側の人間だった。虐待を受け入れるしか道がないと、その先に地獄はないと勘違いをしていた。そもそも乗り越える前に死んでしまっては間違いにすら気付けない。ここまでの不幸は《罰》としか言いようがない。罰を与えた一因の千畳夢を恨むことすらないのだろう……。……こんなことは間違っている!」
突然と叫び出すと、男は私の肩を強く掴んだ。
「君の胸には深い後悔がある! それは傷跡にも近しい……癒さなければならない! それは同時に贖罪にもなり得る。善を振るい、悪を葬るのだ。時が満ちれば千畳希は生き返る。そして君は彼女の言葉を聞くことができる。言えなかったことを、彼女に言うことも!」
「…………黙れ」
男の言葉が私の心に侵入してくるとともにひどい頭痛に襲われた。
「君の罪は妹の復活を成して帳消しとされる! 己の失態を棄てる場所などないのだ!」
そして気を失った──この表現が正しいのかは分からない。私が次に目覚めた時にはナイフを振り上げた無表情の男の子が居たということは、意識がない間にも私は活動をしていたと言うことなのだから。
一体何がどうなっていると言うのか。
分析を試みるも、頭の中では『希は死んだ』という事実だけが巡るだけ。
それだけだとしても、私が殺されるには十分なのだ。
×藍歌姫乃
過去を視る未来を予測すると言う、時間の感覚が格段とおかしくなる体験はこれで二度目だった。
僕の体は硬直していた。情報の処理が追いついていないのだろうか……。
そんな中でも久留田の見下したような笑い声ははっきりと聞こえた。
“見下す? そうともさ。騙されたとは言え、狂わされたとは言え、こいつは自分の利益のためだけに人を傷つけようとした。その結果返り討ちにあった。同情の余地はない”
同情の余地はない……間違いない。こんな奴が何人死んだところで世界は良い方向へ進むだけだ。
一つの自覚が体を支配する。
僕はナイフを振り下ろした。
とても浅く、紙で掠めた程度の一撃。
「いっ……!」
その程度でも痛いものは痛い。
だから千畳夢は声を上げて傷口を押さえた。
「僕は目の前で他人が倒れても無視することができる。助けを求められても振り返らない、君みたいな人間なんだよ。だから、君の力とは相性が最悪だったね」ナイフをしまってから言った。「僕に千畳希みたいな妹が居なくて心底よかった」
「……あ──」
千畳夢の全身の力が抜けた。その顔に狂気はなく、逆に正気の色が浮かんできている。
少しの痛みと包み隠すことない言葉。そうか、今。今千畳夢は過去を思い出しているんだ。
……こんな奴、殺したって明日には忘れていいくらいだ。
しかし、僕は自ら無害の人間を殺し回るほどの殺人鬼にはなれない。敵意のない人間でも斬れるし見殺しにもできるけど、それ以上はごめんだ。
敵を完全に無力化できないという意味では、僕としてもこの娘とは相性が悪い。
「藍歌くん」
と、すっかりと狭まった視野の外にいた白瀬さんの声がした。
横から僕の手を握り、とても哀しそうに笑っている。
「行こう」
白瀬さんは強く僕の手を引く。
この人が血を流したままの少女をスルーできるだなんて少し意外だった。敵とは言え──いや、敵と認識できないのだから尚のことだ。
「似合わないね」
僕は重苦しい後ろ姿に言った。
「変わるってこう言うことだよ。君や私を襲おうとした人に対しても『嫌われたくない』と思うだなんて異常だ。だから、これでいいんだよ。……救急車は呼んだけど」
「呼んだんだ……」
やっぱり甘いよなぁ。あんなの放っておけばいいのに。というか、呼ぶまでの傷でもないだろう。
なんて本音は口にすることなく僕は彼女に手を引かれたままでいる。人通りの多い場所に出てもそれは変わらず、僕も僕で振り払えずにいた。
振り払うには強く、そして暖かかった。
白瀬さんは呟く。
「もしも仮に私が君に会っていなければどうなっていたのかな」
独り言に近かったと思う。けれども僕は反応せずにはいられなかった。この勘違いを訂正せざるを得なかった。
「君は大怪我、もしくは死んでいた。そんなことはお構いなしに僕と桜内と井宮は教団に襲われていた。君が関わっていなかったとしても僕たちのあり方は変わらなかっただろうからね」
「……藍歌くんは本当に優しいな」
「ついさっき女の子の手首を斬ったけど」
「ナイフを握る君は少し哀しそうだったよ」
「…………」
「哀しそうだった」
「そんな想いはなかったけど」
「人の数だけ人の見方がある。君の中の自分が一番正しいだろうけど、それでも、私は哀しそうに見えた」
反応に困る。自覚のない『僕』が居ると言われて否定できるほどに自己分析ができている自信はない。
白瀬さんはこちらを振り向くでもなく「偏見だよ」と言った。
気にしなくていいようにかけた言葉なのだろうが、この人の場合はそうはいかない。他人の偏見なんて僕にとっては塵に近い。しかし、白瀬九織の言葉となると大きな意味を孕んでいそうで頭から離れないのだ。
僕と言う人間の核心に刻み込まれる感覚。
……君の周りに人が集まるわけだよ。それでいて付かず離れずを保っているのだから感心するほかない。
「…………」
いつになったら手を離してくれるのかなあ……。
×
日曜日とはいえ校内が無人なわけがない。敷地では部活動に励む生徒やその顧問が居るわけだが、はたしてここからどうするべきなのか。
校門前に着いて十分(さすがに手は離してもらっている)、僕らは何もできずにいた。いや……正しくいえば何をすべきか分からないでいた。
曰く、白瀬さんがどれだけ話しかけても彼女は── 羽澄楊絵は返事がないとのこと。
「君たちは友達だったんだろ? 何か、記憶に残るような思い出の場所とかないのか?」
白瀬さんは眉根を寄せる。
「思い出というには苦いけれど、印象に残っている瞬間はあった。でも……どうかな……」
「……? どんな瞬間だったんだ?」
「……彼女に余命があることを告げられた」
「うっわ」
絶対それじゃんか。自分でそんなことを言いながら最期に八つ当たりの言葉を吐いたのか。
「一年生の時に言われたから、一組の教室に行くべきなのかな」
「そうなんじゃない。でもな……思いっきり私服の僕たちがどうやって侵入したものか」
さすがに白瀬さんもいい方法が思い浮かばなかったようで、二、三分の沈黙を挟んだ。
「よし」と白瀬さんが顔を上げる。「強行突破しよう」
「ええ……」
変に割り切った白瀬さんに思わず困惑してしまった。
でも、そうだよな。他に思い浮かぶ方法もないし……。
「変わるっていうのは、きっとこうした思い切りも必要なんだ!」
「うーん……?」
よくわからないが、しかし元気が出た彼女に水を差すような発言はできない。
「そうかもね」
と、一応程度に先行する彼女の背中に言った。
すれ違う生徒たちに注目される中、白瀬さんは玄関の扉に手をかけた──その時、右手から「おまえ、九織か?」と声がかかる。
三十半ばほどの男だった。ジャージ姿であるところから運動部の顧問だろうという予測ができる。彼が来た方向には駐車場がある。車内でタバコでも吸っていたのか、少し臭いがついていた。
「あ、天谷先生……!」
「久しぶりだなぁ! おまえ高校どこだったか?」
「大丘です。すみません、先生にはご報告していなかったですね」
「いやいや、謝らんでくれよ。所詮私は一年の頃に担任をしたってだけなんだから」
一年の担任。これはいい波が来そうだな。そう思ったところで天谷さんは僕に目を向ける。
「君は?」
「同級生です」
僕は簡潔に答えて軽く頭を下げる。
「どうもどうも。私は天谷龍。白瀬の一年の時の担任だ。……それで、一体どうしたんだ? 何か用事でも?」
「えっとですね……」
言葉に詰まる白瀬さん。ここの回答は大事だ。いくら担任とはいえ、そして卒業生とはいえ、用のない人間を校内に入れてくれるとは思えない。用を作るにしたって悩みどころだ。
ここは力になれそうにない。視線でそう伝えると、白瀬さんは一瞬だけ僕を見てから小さく頷いた。
「楊絵の忘れ物を取りに来ました。……一年一組に」
「は? おまえ何言って……」
天谷さんは言いかけて、表情を固くした。そして納得したように「あぁ」と息を漏らす。
「おまえは葬式に来れなかったんだっけか……」
「………………」
二人は顔を合わせたままどこか遠くを見つめていた。一年生の頃の記憶など僕に予想できるはずもなく、この時間だけ僕は完全に蚊帳の外だ。
しかし、そうか……天谷さんは情に厚いタイプの人なのか。羽澄さんの名前を出しただけでこれだもんな。
よし。ならばここは僕は羽澄さんと幼馴染だったと言う大嘘をかましてやろう。
「吹奏楽部が使ってなかったら時間をやる。入りな。……ところで、君──名前を訊いても?」
「桜内奏斗です」
大嘘に白瀬さんが唖然としているのが視界の端で見えた。
「桜内くん。君もここの卒業生?」
「いえ、僕は違います。けれど、羽澄さ……楊絵ちゃんとは幼馴染でした。彼女の訃報を耳にした時には妻城市を出ていたので葬式に出ることができず、悶々としている中で出会ったのが白瀬さんでした。彼女に別れを言えなかった者同士、彼女が過ごした思い出の場所を巡りたいと思いまして」
「そうか……それは辛いな……。よし、君も入れ! きっと楊絵もそれを望んでいるはずだ」
「どうも」
嘘を鵜呑みにしたあげく死者の想いを勝手に決めつける天谷さんは大抵の人からすればいい人に見えるのだろうな、と思った。
スリッパを履いて校内を歩く。生徒は先生に挨拶をした後に僕たちにまで頭を下げる。よくできた子たちだ。……なんか、老いた気分。
天谷さんが職員室に鍵を取りに行き、それから教室へと向かう。廊下を走る運動部の声に、吹奏楽の散り散りの音色が響き渡る。
そんな音と光景に懐かしさを感じているのが明白な顔をする白瀬さん。ここにきて不安の色が見えたらどうしたものかと思っていたが……僕が何かを言うまでもなさそうだ。
見せてくれ、白瀬さん。君が旧友に対しどんなアクションを起こすのか。
「楊絵が過ごした場所を巡っていると言ったね」
天谷さんが振り返ることなく言った。
白瀬さんが率先して「はい」と返事をした。僕に話をさせてボロが出ないようにするためだろうか。
「なら、ここが最後ってことか……。あいつは二年生になる前に退学したからな」
「そう、ですね……」
二年になる前に退学──ふうん……羽澄さんはそれから病院生活か。
「私はな、ずっと考えていたんだ。もし楊絵を最期まで学校に来るように説得できていたのなら──あいつは……自殺しなかったんじゃないかってな」
「…………」
「…………」
僕たちはあえて反応しなかった。ここで一言でも発したり顔に皺一つでも寄せたのなら嘘がバレてしまいそうだった。
僕と白瀬さんとでは衝撃の質が違うだろう。
何故白瀬九織ともあろう人間が旧友の病死と自殺を間違えたのか……それが僕の疑問であり衝撃。
白瀬さんはきっと、自身が何故勘違いをしていたのかと言うより、もっと単純な『旧友の自殺』への衝撃。
「そんなこと──」
白瀬さんは不自然にならないようにやり取りを続ける。
「そんなことありませんよ。先生が気に病むようなことではありません」
「……はは。私も自分にはそう言い聞かせているよ」
天谷さんは教室の鍵を開け、それを白瀬さんに手渡す。
「しかしな。自ら創り出した妄想が私を罵倒して止まないのだよ」
自虐的に笑んでから僕らの横を通り過ぎる。
「しばらくは職員室に居る。済んだら鍵をかけて返しにきてくれ」
天谷さんの姿が消えてから僕と白瀬さんは顔を見合わせた。
けれど無駄な会話はしない。この教室の中に入れば答え合わせができるはずなのだから。
僕らは教室に入った。
太陽に照らされた眩い教室。窓際の真ん中の机に彼女は座っていた。
雪のように白い──言ってしまえば死んだ色の肌。片目が隠れるほどに伸び切った髪の毛もあって幽霊の典型といった風貌だ。
しかし……
「久しぶり、九織。初めまして、幼馴染」
冷たく、透き通って、耳元で囁かれているような声。
あまりにも純粋で、悪意が全くない笑顔がどうにも不釣り合いだった。
「私は──」
ゆっくりと右手を自身の胸に当てる。
刃物を突き刺した痕が残っている、その胸に。
「羽澄楊絵。よろしくね」
「…………楊絵。久しぶり」
白瀬さんがその名を口にした時、羽澄さんが僅かに口角を下げたのを見逃さない。
「人が死ぬ瞬間を見たことはある……」
羽澄さんは僕たちそれぞれに目をやる。
僕はともかくとして、白瀬さんとの久しぶりの会話がこんな内容なのは驚きだ。
「私はない」
白瀬さんは当然のように反応する。これが羽澄さんのデフォルトということでいいのか。
「……そ。綺麗な生き方。姫乃は?」
「何回か」
「いいね」
「何がさ」
「死を焼き付けて正気でいられる人って少ないと思う。動いていた人が動かなくなるって、それなりの衝撃だよ」
会話になっていないような、それでも聞き応えのある言葉。
「ま、何をもって正気なのか、どこからが壊れているのか判断が難しいところではあるけれどね」
「死体になる瞬間を目撃して動じない人間が果たして正気と言えるのか──そういうことかい?」
「そういうこと。理解力があっていいね、姫乃。私、賢い人は好きだよ」
軽く言う彼女に対して「僕もさ」と返す。
羽澄さんは僕から目を逸らさないまま続ける。
「でも、壊れていると仮定して、壊れ続けるということが一貫しているのなら正気とも言えるんじゃないかな。『産まれたままを保持している』って、聞こえが良い……」
「正気の基準なんて人それぞれだからね。壊れている人が自分を自覚する時は、他人への憧れを抱いてからだ」
「──《嫉妬》を覚えたら壊れるってこと……」
「そこまで言っていいのかは分からないけれど、理想と基準は紙一重に思うよ。できないことに対して『他の人がすごいから』でなく『自分が劣っているから』と感じた時に人はその基準以下となる」
「比較も自覚もしない人は無敵だね」
「だな。嫌いなタイプだ」
「私も。姫乃とは気が合うね。結婚する?」
「死人とはごめんだ」
僕の答えに羽澄さんは嬉しそうに「あは」と笑った。
何がおかしいとかさっぱりなのはともかく、羽澄楊絵という人間の大体は理解できた。
賢く、それでいて尖っている。大人しく可愛げな生物と思って撫でてみれば毒を飛ばしてくるような感じ。
よく白瀬さんが友達でいられたなと目をやると、彼女は随分と落ち着いた顔になっていた。決意に強ばった顔は見られない。
「落ち着いたね、九織」
今までのふざけた会話は白瀬さんをリラックスさせるためだけだったのだろう、羽澄さんは見透かしたように言う。
「もう私の胸を見ても動揺はないでしょ」
「……ずっと、忘れたかった。君に拒絶されてから、君の名を、君の死に際から、羽澄楊絵に関わる何もかもから目を逸らして耳を塞いできた。忘れられなかったのは、私が中途半端だから……だから幽霊も取り込んで勝手に破滅しようとする。私も、私の周りの人も得をしない。……そんなのは今日で終わりにする。楊絵、私は君を拒絶して変わってみせる」
彼女の宣言に羽澄さんは笑顔を崩さない。
「なんで自殺なんてしたの」
追い詰めるかのように踏み出して問う。迷いのなくなった白瀬さんは誰よりも頼もしそうで、敵に回れば厄介そうな雰囲気がある。
「私は死に方を選ぶ権利があった。《死》そのものは避けようがなかったけれど、方法は選択できたの。権利があったら行使したくなるのが人間ってものでしょ……」
悪戯に微笑んでから、羽澄さんは初めて僕たちから顔を逸らした。
窓の外からグラウンド、そこに居る部活動中の生徒を眺めている。
そして声色一つ変えることなく言った。
「私には三つの死に方があった」




