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無彩色の願望  作者: 哀川
第四章 屍の器

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第十八話 遠い人

『君の幽霊を祓うのにゆっくりしている余裕はなくなった。今から家に行ってもいい?』


 喫茶店で今後の方針が確定した直後に白瀬さんに送ったメッセージだ。一向に返事がないものだから、僕は直接彼女の家に出向くことにした。突然押しかけることは失礼だと自覚しているが、しかしこれは僕たちのためだけでなく彼女自身のためでもある。呑み込んでもらうほかない。

 そうさ。僕に罪悪感は一切ない。白瀬さんだって自分の手を血で染めることは断固として拒否したいところだろう。

 そんな思いで僕は壁際に設置されているパネルに白瀬さんの部屋番号を入力した。ほどなくして彼女の声が聞こえる。


「どうしたんだ? 突然家に来るなんて」

「一応連絡したんだけど反応がなかったから。悪いけど君の幽霊を祓うのにゆっくりしていられない。今から大丈夫?」

「あ、ああ。もちろん」


 と、困惑している声色ではあるが白瀬さんは自動ドアを開けてくれた。

 まだ十時過ぎ。日曜日だというのに随分と早起きさんだ。さすがは白瀬九織、彼女は彼女のイメージを崩さない。


「待たせたね……!」

「……………………」


 僕を玄関に迎えてくれた彼女は息を乱していた。いつもより癖のついた髪の毛に少しはだけた服装……完全に寝起きだった。

 ……なんか、ちょっとだけ罪悪感。


「その、ごめん。おはよう」


 僕がいうと、白瀬さんは露骨に肩を落として「おはよう」と返した。

 どうやら失言だったようだ。


「とりあえず上がって。家族は出掛けているようだけれど、いつ帰ってくるかも分からないから私の部屋で話そう」

「分かった」


 白瀬さんの背中を追う。

 なんだろう……何か、嫌な雰囲気だ。

 漠然とした不安は白瀬さんの背中から漂っている。ただの直感で確信はないのだが僕は訊いた。


「何かあったの?」

「うん……」


 白瀬さんは振り返らずに答えた。それ以上の問答はなく、白瀬さんの部屋に入る。勉強会の時と同じ席に僕は座り、白瀬さんはベッドに腰をおろした。足を組む彼女は大人っぽくはあるものの、しかし落ち着きのない様子でもある。

 僕から口を開いていいのだろうかと逡巡していると、白瀬さんが僕を見つめて言った。


「ねえ……藍歌くんは、人殺しをどう思う?」

「────!」


 この人の口からそんな言葉が出るっていうことは、つまり……


「井宮の懸念していたことが起こったってことでいいのか?」


 僕の言葉を聞いて、白瀬さんは静かに頷いた。その顔は曇りに曇ったままだ。

 悲痛な感情を表に出した白瀬さんから視線を景色に逃して思い出す。


「……以前、まったく同じ質問をされたよ。その時は多分、許されないことだって言ったと思う。醜い感情からの殺人。理由のない殺人。僕はそいつらに『死ね』って言うことができる。そんな感じで答えたんじゃなかったかな」

「そう……。その思いは今でも変わらない?」

「まあね。けれど、僕は──」

「…………?」

「いや、いい」


 言う必要はない。隠しているわけじゃない。隠す必要がないからといって公言しなければならないなんてことはないだろう。それだけのことだ。

 ……気持ち悪い言い訳。


「わかった。でも……」


 視線を戻したときには白瀬さんが正面に座っていた。


「いつか教えてほしいな。私は君を知ったつもりでいたくない」

「…………」


 優しく語りかけてくる彼女の脳裏をよぎっているのは矢戸静樹の一件に違いない。

 僕は「いつかがあればね」と曖昧に返した。


「本題に入ろう」


 白瀬さんは頷いた。

 僕は喫茶店での会話の内容を伝えた。もちろんと言うべきか、白瀬さんの狂気に襲われそうになったことは伏せたままだ。

 今後の方針──やはり、白瀬さんに狂気が潜伏している以上、井宮と桜内と共に行くのは邪魔にしからないということを伝え、別行動することをなんとか説得した。

 その二人は井上町子の殺害現場へ調査に行っている。組織が散々調べた現場に今更なにを期待できるわけでもないが、それでも新しく知れることがゼロだと切り捨てられなかったようだ。


『藍歌が気合い入れてるところにじっとしていられるか』


 なんて井宮が言っていたことは伝える必要はないだろう。

 それから、光野さんと井宮の敵の攻撃方法の分析を伝えた時に白瀬さんは首を傾けた。


「使い魔……あの死体が?」

「うん。黒コートの男、どうやら防衛本能の全てを自身の魔力と共に死体に埋め込んでいるらしい。男の受けたダメージをそっくりそのまま攻撃した本人に返すそうだ。男を炎で包んだ井宮、糸で首を絞めた桜内、右手を刺した僕、それぞれ外傷はなく同じ部位に痛みを味わっている」

「……えっと、たしか三人とも目が覚めた時には痛みはなかったんだよね」

「うん。永続的な魔術ではないようだ」

「そうなんだ……」


 大きく混乱した様子もない白瀬さん。昨日の今日でとてつもない順応性だ。


「つまり、もしもあの男に即死させるような攻撃をしていたら──」

「そうだね。多分死んでた。井宮は人を殺せないから力を加減していたことが幸いした。桜内は一撃必殺みたいなのはないし、僕は……運が良かった」


 喉にナイフが刺さってたらかなり危なかったな。


「防衛本能……そっか。相手とまったく同じ痛みを与えるというのが防衛になるんだね。なるほど……死体を使い魔って呼ぶことには少し疑問があるけれど……」

「定義が広いんだってさ。魔力を介して主従関係が成立すればそれはもう使い魔らしい。僕には自己の防衛本能との主従関係ってのがピンとこないけどね」


 しかし、そんなことはどうでもいい。彼の使い魔の厄介なところは己の全ての魔力を注ぎ込んでいる点だ。そんな使い魔を魔力を遮断する箱にでも入れて仕舞えば井宮の探知能力は機能しなくなる。あのケースにはそういう役割があったんだ。


『彼は油断がない。とても相手にしたくないタイプだ』


 そんな弱音を井宮ですら吐いていた。


「…………」

「それじゃあ、私の狂気も使い魔ってことになるのかな?」

「そうなるね。白瀬さん、君は狂気を意図的に出せるか? 昨日は出せていたみたいだけど」


 緊張感を持って頷く白瀬さん。

 瞳を閉じて数秒。再び開けると同時に白瀬さんの背後に狂気が出現した。


「────」


 こいつ──この不気味さを目にするとどうにも周りが静かに聞こえる。

 意識を根こそぎ持っていかれるような……。


「……もしも万が一の時がきたらそれを使ってくれ」

「うん。わかった」


 迷いのない返事だ。やらなければやられる──その認識をわざわざ確認するまでもないのは楽でストレスがない。

 本当にいいな、賢い人って。


「四人目のことなんだけど……」白瀬さんは狂気を仕舞って言った。「対話をしたわけじゃないんだ。ただ、殺意ははっきりと感じ取れた。願望は間違いなく殺人だよ。正直、私の我儘を押し通せる問題ではなくなっている気がする。だから──」

「…………」

「交渉してみるよ……! 叶わなかったら、井宮くんに頭を下げることにする」

「へえ……」


 この人も弱音を口にするのかと思っていたものだから驚いた。

 やはり、白瀬九織はどこまでも白瀬九織だ。

 僕の反応を見て即座に白瀬さんは瞳を閉じて心に沈む。


「なんか、置いていかれた気分だ」


 身勝手な感想を言って脱力する。

 もっと早くに出会っていたのなら、僕も少しはまともな人間になれたんじゃないか。

 ……なんてね。こんな仮定に意味はない。自己満足にすらならない無駄な思考だ。

 ぼんやりと白瀬さんと窓の外を交互に見る時間が二分ほど続いた時だった。白瀬さんが机の上に上半身を預けた。

 ──というより、倒れたような。


「白瀬さん……?」


 以前僕の部屋で心に沈んだ時は『目を瞑る』程度の雰囲気で、眠るというよりも意識を別の場所に移すようだったはずだ。しかし、これは……。


「っ…………!」


 苦しそうに白瀬さんが己の首に手を当てる。その顔は苦痛に満ちていた。

 このままではまずそうだ。


「おい、白瀬さ──」


 起こそうと彼女の肩に触れた途端、僕の中に一つの殺意が流れ込む。

 息を忘れてしまいそうな頭痛が始まった時には既に視界が暗転していた。

 意識が落ちる……その認識を捉えたままでいる矛盾。

 心に沈むと言うのはこう言う感覚なのだろうか──


 ×


 目が覚めたというのは少し違う。初めから僕の意識は覚醒していた。暗闇の中に一つの風景が創造されたと言った方が正しいように思う。

 その空間は吊妃名の部屋だった。

 ソファーに座る僕の正面に一人の男が居た。金髪のとんがり頭に鋭い目付き。不気味なことに、左目の周囲が漆黒に覆われている。僕よりも若干背が高いであろうそいつは同い年に見えた。

 だから僕は言った。


「おまえ、白瀬さんの中にいたな?」

「──ここはいいぜ」男は悠々と天井を見上げる。「虚無な空気が流れているくせに落ち着く。……だからこそ、なのか? まあどうでもいいが、とにかくあの『水槽』とは居心地がまるで違うね」

「…………」


 苛立ちを覚えさせる笑顔だった。不良っぽさがあるくせに微妙に爽やかなのが気に食わない。


「出てけよ死人」

「つれねえこと言うなよ。つーか、死人はやめろ。俺にゃ久留田くるだ頼人よりとって誇らしい名前があるんだからよ」

「久留田、改めて言う。出てけ」

「……少しくらい話を聞いてくれてもいいんじゃねえの? お前だって一つの器として生きてんだ」


 何様だこいつ……。


「そう苛立つなよ。白瀬ちゃんに比べて心の狭い奴だ。……いや、あの娘が寛大なだけなのかも知れねえな。人の心に土足で踏み込んだ死者が五人居ても尚、彼女は一人一人に向き合ってきた。ある意味じゃあ異常だ。藍歌、お前の反応が正常かもな」

「じゃあ出てけよ」

「悪いがそれはできない」


 と、悪びれた様子もなく言った。


「ご存知の通り俺は死者。ご察しの通りここはおまえの心の中。俺を祓うには俺の望みを叶えるのがベストだ。光野や井宮は強制的に祓う方法も知っているみたいだが、おすすめはしない」

「なぜ?」

「そうなった場合、俺は八つ当たりにおまえの心を破壊する。知ってるか? 思考を言葉にできなくなるのは死ぬよりも地獄なんだぜ?」


 知ったようなことをペラペラと口にする久留田。僕みたいなのにその程度の脅しで通じると思っているところが頭の足りなさを物語っていた。


「──と。おまえには効かねえか……」


 久留田は顔面の右側だけで笑って見せた。明らかに動揺を隠すためだけの表情だ。


「脅迫はやめだ」


 陽気な声音が変わったと思うと、久留田は居住まいを正して頭を下げる。


「一つ交渉がしたい」

「……交渉?」

「おまえはあの宗教団体をなんとかして遠ざけるつもりだろ?」


 確信しているような言い方がなんとも不愉快だ。

 たしかに、連中が再び襲ってきたのならたしかに話をするつもりだった。今後僕──或いは『僕たち』に一切干渉しないこと。そう、それこそ交渉だ。それが無理だった場合の考えもあるにはあるのだが……。

 考えてみればここは心の中。こうした思考もある程度筒抜けなのか。

 ……こいつ、今なんて言った?


「……宗教団体?」


 遅れて気づく。こいつは今はっきりと『宗教団体』と口にした。これは魔術対策機関ですら断定できていない予測の一つにすぎなかったはず。


「目の色が変わったな」

「色々と訊きたいことはあるけど……まずは交渉内容からだ」

「教団と戦う手助けをする。だから、俺に人殺しをさせてほしい」


 その右目には本気の殺意が宿っていた。


「人殺しをさせてほしいってのは、おまえが僕の肉体を乗っ取って?」

「そうだ。それ以上のことはしない──というかできない。俺らみたいなのは目的が達成すれば終わる。おまえも目にしてきたはずだぜ?」

「……殺したい相手ってのは?」

「教団と手を組んでいる殺人鬼だ。そいつは俺と姉貴を殺した」

「────」


 口を開きかけたところで、とめた。


「拷問の後に殺された死体とおまえらを襲った奴らが仲間だと思っていたか? そいつは違う。ま、あの流れからしてそう勘違いするのも無理のない話だが」

「知っていることと何故知っているかを話せ」

「当然だ。他人に一方的に知られるってのは気分が悪いもんな?」


 軽口に見せてやる反応はない。僕が無言を貫くと、久留田は「怖い奴……」と肩を竦めた。


「俺は『木漏れ日の宿』っていう店で働いていた。表の顔は民宿、裏の顔は魔術世界の何でも屋。そう、おまえの所属している組織と同じだ」


 似た組織の存在は東条さんから前々から聞いていたが、同類との遭遇がまさか僕の心の中とは。


「幼い時に親を失って、俺は姉貴と二人きりになった。俺たちを施設から引き取ってくれたのが雇い主だ。狼虎ろうこさん。漢字は狼に虎だ。

 今から一年近く前に異邦人からの依頼が来た。『監視していた教団の一部が日本に出向いた。怪しげな動きを見せたら即座に報告をしてほしい』ってな。依頼主は公的機関の若い奴で、それでも金払いが良かった。狼虎さんは嫌な予感がすると言って断ったんだが、俺はこんな美味い話滅多にないと思っていた。だから、俺が一人で動くことを条件に無理を言って依頼を受諾してもらった。調べ物は俺の得意分野だったし、戦闘にもならないようだったから──」

「得意分野……それが慢心になったか?」

「いいや、違う。依頼は順調で二ヶ月間続いた。俺という存在が奴らにバレた形跡はない。奴らは監視されていたことに気づいてねえよ」

「二ヶ月後は?」

「……姉貴、体弱くてさ……表の仕事は姉貴で裏の仕事は俺って役割だったんだ」

「…………」

「その日、狼虎さんは出張中で姉貴は一人で留守だった。俺が夜に帰っても電気ひとつつけていない。ぶっ倒れたと思って家中を探した。風呂にいない。トイレにもいない。リビング、姉貴の部屋、俺の部屋、狼虎さんの部屋、全部暗いだけでそこに姉貴はいない。外出か? いや、姉貴は日のあるうちにしか外に出ない。残る客室を確認して行って、その一室──姉貴は死んでいた。無数の切り傷と顔への刺し傷で殺された」


 無数の切り傷に、顔面への刺し傷。

 その死に方は──その殺され方は、まるで……。


「背後の足音に気づいて振り返った時には俺の左目に刃物がぶっ刺さった。久留田頼人は幽霊となりましたとさ」


 手を叩いて「完」と締めた。説明したつもりになっているが穴だらけだ。

 話を聞いた後では痛々しくも見える漆黒に向かって僕は訊く。


「何故宗教団体とは別だと分かった? おまえの監視に気づいて殺されたとか……」

「監視っていうのは遠くから見つめて『はい終わり』じゃねえんだよ。内部情報を洗いざらい把握する必要があるんだ。でなきゃ誰がどう動くか分からない、分からなければ監視にならない。奴らが狙うのは屍の器だ。その他の殺人は許されていない。姉貴も俺も屍の器なんかじゃないんだ。あり得ないがもし監視に気づいていたとしても俺を殺すことはできない。たしかにイカれている団体だがそうした線引きはしっかりしている」


 杉野さんの話を思い出す。

 井上町子は恐らく屍の器ではなく、死体はその場に放置されていた。廃墟での殺され方に酷似──死体の有無。……井上町子の時は単独犯と分からなくもない。


「殺人鬼はどんな奴だった?」

「……覚えてねえんだ」

「はあ?」

「おかしくなってたんだよ! 宿の電気も付けずに必死こいて探し回って、ようやく見つかったと思ったら死んでて、頭がぶっ壊れかけてたんだ……」


 嘘には見えない。

 これは鏡に見える。

 昔の僕を映した、醜く汚らしいひび割れた鏡に。


「……戦う手助け──ね。僕が教団と戦う中でおまえは殺人鬼の情報を集めて終いには殺す、と」

「ああ。おまえも視るまでもなく分かってんだろ? 奴らはしつこいってな」

「…………」


 この短時間で久留田の発言の全てを信用できるほど僕は愚か者ではない。

 しかし、もしも真実なのだとすればこいつはそれなりに有能で役に立つ。代わりとして僕の体を貸すことにはなるが──先のことを考えれば安かろう。


「……おまえとお姉さんが殺された事件と狼虎って人の確認が取れたら交渉に応じなくもない」

「……! それは、つまりおまえが狼虎さんに直接会うってことだよな?」


 突然と目を輝かせる久留田。家族との再会ができることを幸せに思っている……そうでなければこんな顔はできない。

 この時点で家族に関する話に偽りはないと思うが、僕はなんとも用心深く、そして性格が悪い。やはり狼虎さんに直接確かめないわけにはいかない。

 まあ、久留田は家族との再会よりも復讐を理由にこの世に残留しているのだから、こいつもこいつで性格の悪い類とみていいだろうな。


「おまえ、もしかして俺を狼虎さんに会わせてくれようとして……!」

「違う。馬鹿なのかおまえは」


 はっきりと言い捨ててやった。


「まずは白瀬さんの問題を解決してからだからな。そうだ、白瀬さんの狂気が具現化したのはおまえの影響?」

「俺に概念の具現化なんて万能はないよ。もう一人のせいだろうな」

「ふうん……」


 もう一人の魔術師……一体どんな奴なんだろう。なんて想像したところで分かるわけもなかった。


「……そういえば、どうして白瀬さんの中から出てきたんだ?」

「あの娘に人殺しは似合わねえよ」


 僕には似合うとも取れるその答えには一切否定できない。


「それに、あのまま白瀬ちゃんの中で願望を持ち続けてたら彼女は壊れてたぞ? おまえの好奇心は壊れた彼女にも向けられるものなのか?」

「────」


 ……さっさと起きよう。白瀬さんの話を聞かないと物事が先に進まない。

 そう決断したところで、僕の視界の端から暗闇が侵食していく。これが心を閉ざして目覚める感覚か。


「なあ、暇つぶし程度に考えて欲しいんだが」


 暗闇に呑まれてゆく中で久留田は顔を曇らせて言う。


「おまえの中のもう一人はどこだ?」


 ×


 寝起きの感覚とは程遠かった。ただ目を瞑って開けただけ。一度の瞬きでしかない。状況に混乱はなく記憶にも問題なし。

 目の前には気を失ったままの白瀬さん。


「…………」


 どうしたものか。

 横から顔を覗いてみる限りでは苦しそうな感じはまったくない。ただ静かに眠っているだけだ。


「このままってわけにもいかないよな……」


 僕ってやつは変なところで良識があるから面倒だ。

 善悪の判断、己の欠陥の自覚。これらによって意味のない苦労が生まれる。楽なんだろうな、自覚できないほどに頭が悪いってのは。

 僕は白瀬さんを担いでベッドに寝かせた。

 さて、このまま部屋に居ていいものだろうか。本棚の充実さを見ると、彼女が目を覚ますまで退屈することはなさそうに思うが……本を勝手に借りられることと寝顔を見られることは面白くないだろう。常識的に考えて。

 そんなわけで僕は部屋を出た。リビングに降りてソファーに座る。


“暇つぶし程度に考えて欲しいんだが”


 暇つぶし──今がまさにそうだ。

 僕の中のもう一人ってのは……やっぱ、幽霊のことだよな。あの先生の部屋が僕の心なんだとしたら、あそこにもう一人も居るべきなんじゃないのか?


「分かんねえ」


 結論は早かった。

 ──と、鍵を回す音がした。

 まずい……いや、まずくはないけど面倒だ。僕一人この場にいる状況をなんて説明したものか。……白瀬兄あたりなら話は通じるな。白瀬家は四人家族──三分の一だし余裕だろう。

 一応起立してドアの方を向く。

 扉を開けて姿を現したのは──


「あら? 知らない顔」

「………………お邪魔してます」


 女性だった。およそ大学生にしか見えない彼女は白瀬さんをもう少し大人っぽく、そして美人さを最大限まで増したような風貌──とにかく似ていた。

 四人家族だよな……?

 彼女が持っていたビニール袋を置いた音でハッと意識を引き戻す。


「白瀬さ──……九織さんの同級生の藍歌です」


 と言って会釈をする。

 すると彼女は「まあ!」と白瀬さんなら絶対しないような嬉々とした顔で駆け寄ってきた。


「九織の彼氏⁉︎」

「違います」

「え、違うの? てっきりそういう挨拶なのかと……」


 何言ってんだこの人。

 どうでもいいことはさておいて、僕は肩を落とす彼女に言った。


「あの、あなたは……」

「あ。九織の母です。よろしくね」

「………………」


 若。

 他の言葉は見つからなかった。


 それからテーブルにお茶を出されたのだが、僕は手をつけられずにいた。正面に白瀬母が座り僕の一挙一動を見落とさぬようにまじまじと見つめてくるものだから、硬直する以外になかった。

 地獄かな?


「九織はどうしたの? 靴はあったけれど」

「寝ちゃったみたいです。九織さん、どうやら疲れていたようで。無防備なところに居続けるのもいかがなものかと思い……」

「まあ! 寝ちゃった!?」

「え、ええ。ぐっすりと」


 いちいちリアクションが大きいから慣れないや……。


「九織が人前で寝るだなんてねぇ……想像もできないわ」

「彼女も人間ですよ」

「そうね。それに昨日は随分と遠出をして疲れていたようだったし、無理もない話よね」


 昨日の話題はボロが出そうで怖い。僕は関わっていないことにしよう。


「へえ、そうなんですか」

「……ふふ」


 平然と嘘をつく僕を見て白瀬母は満面の笑みを浮かべた。なにが笑うポイントだったのか会話を振り返るが、そんなものは一切ない。

 嘘を見抜いていたのだとしたら笑えるだろうが──


「あの……なにがおかしいんです?」

「昨日はあなたと一緒だったって言ってたわよ、藍歌くん」

「────」


 色気のあるウィンクが悪魔的に見える。

 僕が名乗った時点で嵌める気だったんだ。……でも、何のために? どんな確信があって?


「あの娘が何か悩んでいるって予感はあったの」


 ……なるほど。この人も白瀬兄と同じか。気付いていてもできることがなかった。頼られないということは、こちらからできることは何もないと言うこと──白瀬母は僕を嵌めたことによって予感が確信へと変わった。

 笑みが薄くなっていく。


「九織は難しい性格をしているでしょう?」

「はい」

「他人に一定以上は踏み込まないから……友達を家に呼んだことだってほとんどないのよ。でも、あの娘、君の名前を口にする時なんだか嬉しそうで」

「…………」

「だから私、君がここに居てくれて嬉しいなあ」

「そうですか……」


 この人が僕をどう思うかはどうでもいい。

 僕の頭は白瀬一家で埋まっていた。言葉を交わすことなく思いを悟ることができるのは当たり前なのか? 家族だから、家族だから家族だから──バカを言え。この人たちが特別なだけだ。薔薇の家庭だってその後良い方向へ進んだという報告がないんだから、白瀬一家がめずらしいだけにきまってる。

 少しだけ。

 ほんの少しだけ、羨ましいと思った。


「困ったことがあったらいつでも相談しなさい」


 その顔に悪意の一つでも含まれていたのなら、こんな気持ちにはならなかっただろうな。


「はい。機会があれば」


 少し間を置いた返事に、白瀬母は快く頷いた。


「ところで藍歌くん。下の名前は?」

「姫乃です」

「姫乃くん……ズバリ! 九織とはどこまで行ったのかしら?」


 あー……少し良い人に思えてきたところなのに。このテンション慣れないなぁ。控えめに言って疲れる。はっきり言って苦手。


「七十キロ以上は離れている小さな町にまで行きました」

「もう、そんなことじゃないのは分かってるくせに」

「……僕と九織さんはそんなんじゃないですよ、本当に。彼女には恩があって、それを返すために手助けをしているだけです。たったそれだけの関係ですよ」

「へえ。どんなエピソードがあったの? 気になるわぁ」

「えっとですね……」


 宿泊研修の班に入れてくれました、なんてわざわざ言いたくもない。それに恩があるなんてのはそもそも建前で、僕は正体不明の好奇心を原動力としている。さて、なんと誤魔化すべきか──

 迷っていたところ、ばん! と大きく音を立てて二階の扉が開く。


「すまない! 気を失っ──」


 僕、白瀬母と順に視線を移す。そして彼女は一言。


「終わった」


 と言った。

 おお……まさか白瀬九織にこんな絶望にまみれた顔をさせるとは。白瀬母はやっぱり曲者だな。


「ダメじゃない九織。姫乃くんが来てるのに眠るだなんて」

「仕方なかったんだ。反省してる。さ、藍歌くん、こっちに来てくれ」

「え〜、姫乃くんとはもう少しお話ししたいのに」


 だる絡みが続きそうだなと思っていたら、白瀬さんが怒涛の勢いで階段を降りてきて僕の手を引いた。


「情熱的ね」


 白瀬母の茶化しを無視して部屋に戻る。

 再び椅子に座り、お互いに顔を見合わせてため息をこぼした。


「疲れる人だったよね……?」

「まあね。悪い人でないのは分かったけど」

「すまない……後でキツく言っておくよ」


 どっちが親なのか分からないな。まあ、こう言うところも含めて『仲の良い家族』なんだろうけれど。


「それと、ありがとう。ベッドまで運んでくれて」


 僕が勝手にやったことに対しての礼は素直に受け取る気にはなれない。無言でただ首を振る僕に対し、白瀬さんは困り顔で笑っていた。

 なんか、子ども扱いされた気分。


「ところで──幽霊の話なんだけど。居なくなったんだ、殺人を望んでいる人が」

「……へえ……」


 いつも通りを装う。

 白瀬さんから出ていった幽霊は白瀬さんには無関係だ。だから言う必要はない。


「そうなんだ。よかったね」

「よくないよ」


 白瀬さんは即答した。


「私は彼の話を聞いていない。殺意に耳を塞いで終わった。そんなの、あまりにも……」


 自分を責める彼女を見て言葉を失った。

 何故──どうして君がそこまで辛そうな顔をするんだ?

 訊きたい。

 その頭の中を見たい。


“そんな酷なことしてやんなよ”


 久留田頼人の声だ。

 僕も心の中で答える。

 うるせえよ。別に訊いたところで壊れるわけでもあるまいし。


「君が話を聞こうとしていた奴の願望は所詮人殺しだ。出て行ったというのならそれに越したことはないじゃないか。まさか、人殺しにまで嫌われたくないって言うのか?」

「そう思ってないとしても、口にはできないかな」


 嫌いな人に嫌いと言えない。大きく括ってしまえば、他人に想いを伝えることができない。

 完璧に見えた彼女の欠陥──。

 なるほど……こりゃあ幽霊も寄ってたかって入り込む訳だ。


「そんな調子じゃあ最後の一人を祓ったところで終わりそうにもないね」


 知った気になっている。そう言われるとそれまでなのだが、そう思わせるほどの説得力が白瀬九織にはある。

 いい人であり、人がいい。

 その在り方の自覚を白瀬さんがしていないわけもなく、彼女はただ頷いた。

 白瀬九織が白瀬九織のまま──自信に満ちた顔で。


「でも、私は変わってみせるよ。好きな他人には好きと言える、そんな人間に」

「──あ、そ」

「うん」


 理想はさらに遠くを目指すと言う。

 少しだけ愉快だった。

 僕には辿り着けないと言われているようで、自然と小さなため息が出る。

 なんか……脆くなったな。


「五人目についてだが、気を失う前に話は聞いたんだ。一方的に一言──『風野中学校』とだけ」

「知らないな。妻城の学校?」

「うん。私の母校……そして多分、彼女の母校でもある」

「彼女ってのは五人目か。心当たりがあるんだね?」

「……以前私が話したのを覚えているかな。三月に亡くなった友達のこと」

「ああ」


 病死したという白瀬さんの友達。最後の会話では『死ね偽善者』と言われたんだっけ。

 その彼女が自分の中にいる──そう分かってもなお、白瀬さんの顔つきは決意と自信に満ちたままだ。

 余計な会話も確認も必要ない。

 僕はただ見届け、それに至るまでの障害を排除するだけのこと。


「じゃあ行こうか」


 僕が言ってが席を立つと、白瀬さんもやや遅れ気味に立ち上がった。


「藍歌くん」


 一呼吸置かれ、彼女が僕の目を見つめるだけの間──時間が止まったような感覚のせいで考えてしまう。

 その目には。

 魅惑的な深い黒に僕はどのように映っているのだろうか、と。


「私の隣に居てくれてありがとう」


 ×


 風野中学校へ向かう道中、白瀬さんと会話をしつつも僕はずっと考えていた。

 何故僕は昨日桜内に白瀬さんの悩みを明かしてしまったのか。結果的に桜内と井宮二人に明かしたことを悔いてはいないが、桜内に問い詰められた時には何か良くない感情が動き出していた。

 桜内桃春に白瀬九織──二人は前々からの知り合いのようだったが、僕から見てその関係は脆弱に見えた。

 もちろん偏見である。白瀬さんを近くで見てきての偏見──。

 果たして何故僕は白瀬さんを曇らせるかもしれないようなことをしたのか。

 隣で笑う彼女を見て思う。

 この人に壁をぶつけ、乗り越えたところをこの目で見届けて『僕には届かない』と自覚し理想を諦めたいのか。或いは単なる破壊衝動……。恐らく前者なのだろう。


「藍歌くん……」白瀬さんが笑顔を消して足を止める。「彼女は──?」


 十メートル手前の橋の欄干に可憐な少女が座っていた。艶のある髪の毛に清楚な服装だけを見ればどこぞのお嬢様と言った風貌だ。それだけならば白瀬さんも警戒する訳がない。

 しかし、その足元にキャリーケースがあったとなれば話は別だ。


“正解”


 久留田が言った。


“奴は千畳せんじょうグループのお嬢様さ。魔術世界で実力がないくせに財力のみでのし上がってきた嫌われ一家。まあ、それも十数年前の話で今となっちゃ嫌われるほどに認識されてないって話だ”


 ふうん……『元』って付いているのが気になるけど。


“彼女──千畳夢は数年前に事故で妹を失ってあらゆる宗教団体にのめり込んだ。その際に家を出されて名前を剥奪された。そんで最終的に落ち着いたところがお前らを襲った団体ってこと”


 元千畳夢という、今となっては名前のない少女が正面向かって立ち塞がる。


「あら、これは奇遇ね。こんな人気のないところで器二人と出会うなんて」


 ケラケラと笑いながら彼女はケースに手をかける。


「私にとっては幸運で、あなたたちにとっては不幸でしかないわよね。ふふ……、教えてくださる? 大罪を犯し、私のような美少女に裁かれる気分を」


 意味のわからないことをペラペラと口にしている彼女を無視して僕は心に言う。

 僕の信用を得たいなら彼女の攻撃方法を教えてくれ。


“奴は妹の死体を遣う。死体には奴自身の敵意を与えている。奴には敵意を向けられないし、死体からは悍ましいほどの敵意が与えられる。中々に厄介だぞ”


 敵意のない相手には敵意を向けられないってことか。


“そうだ。だからまずは慎重に死体の方を──”


 いや、必要ない。千畳夢を叩く。


“はあ⁉︎ おまえ人の話聞いてた? 敵として認識できねえって言ってんの! 頭悪いんか!”


 心の中も目の前も騒ぎやがって。

 僕は一息吐いてから静かにナイフを抜いた。

 敵として認識できない──無害な人間は殺せない。それはいわゆる常識ってやつだ。大抵の人は通りすがりの人を殺せない。もちろん僕もその大抵に部類する。

 しかし、傷つけることはできる。

 綴さんや東条さんをはじめとした人たちと関わって他人に身を預けることが多くなったとは言え、僕はまだ壊れている。そうと自覚できるほどに。

 常識と非常識の境界線に立っていると言えるかもしれない。そんな僕に自分の力が通用すると思って口達者のままでいる千畳夢は無様だった。


「藍歌くん」


 私も戦うと言わんばかりの瞳に僕は首を振った。


「この人は多分僕一人で大丈夫だよ。狂気は出さなくていい」

「──え?」


 既に地面を蹴っていたものだから、白瀬さんのその反応に引っかかることはなかった。そのことは既に忘れて目の前の少女を斬りつけることだけを考える。


 ×白瀬九織


「この人は多分僕一人で大丈夫だよ。狂気は出さなくていい」


 何故だろう。

 何故彼は私が狂気を持っていると確信しているのだろう。

 殺意の原因が去ったとなれば、それと共に私の狂気も消え去ったと捉えるのが普通なのではないだろうか。私の友達が魔術師だと言うことは私自身も狂気が消え去ってないことが理由で分かったことだと言うのに。

 彼には私の友達が魔術師であり概念の具現化を起こした原因だと確信があったのだろうか?

 どうにも引っかかるけれど、今は目の前の出来事に集中すべきだ。

 走り出した藍歌くんを見て少女は呆気に取られていた。彼が走ってくることなどカケラも思っていなかったようだ。

 遅れてケースを叩く少女。錠が外れて中から出てきたのは少女に瓜二つの死体だった。首が捻れている死体と並んで見て、その場に生と死が共存している不可解な光景。昨日既に見ているはずなのに、姿形がこうも似ていては生々しさが段違いだ。

 脚が竦む。

 そんな私を差し置いて、藍歌くんは彼女たちの懐の中に入り込んでいた。


のぞみ! やって!」


 焦燥に満ちた声色で叫ぶと死体は少女の前に立ち塞がり、黒く鋭い爪を振りかざした。

 藍歌くんの顔面を切り裂くはずだった右手は──目的を達成することなく彼によって手首から切り落とされる。

 素早く、そして静か。切り上げる一線だった。

 死体は当然痛みを知らないようで怯むことなく藍歌くんに飛びかかるけれども、行動に躊躇いがないというのは彼も同じだった。

 藍歌くんは死体の腹部に手を当て、


「────」


 小さく何かを言った。いや、唱えたと言うところだろうか。赤い霧が藍歌くんの左腕から発現したと思うと、肉体を破壊する音が響いた。

 続けて空中に浮き上がる死体に回し蹴りを放つ。三メートル下の浅い川に落下し、死体は一層死体らしさを増した。

 痙攣している死体を見下ろしてから藍歌くんは少女に向かう。


「藍歌くん……」


 すっかりと楽になった足で彼に近づく。


「君たちから見て僕らは異常なんだろ」普段の調子で藍歌くんは言う。「なんで常識が通じると思ったかな」


 少女はすっかりと戦意喪失してしまったようで腰を抜かした。

 ……あれ──?

 そこには本当にただの女の子が居るだけだ。昨日私たちを襲った人たちの仲間というのは明白だが、こうして近づいて、よく観察しているとどうしても『敵』とは思えない。

 これがこの娘の魔術ちからなのかな……。


「訊きたいんだけどさ、君たちの組織の『殺し担当』は誰?」

「あ、あ──」

「さすがに知ってるよね」


 肩を竦めてから藍歌くんはナイフを逆手に持ち替えて振り上げる。

 その光景を眺めているだけの私は一体どれほど卑怯なのだろう──

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