第十二話 一喝
×白瀬九織
彼らは何を知った気になっていたんだろう。彼女が死んだ後で話してもいないのに。
あの二人は決めつけていた。
自分の思うことを他人に押し付け、勝手に納得していた。
矢戸静樹は十束康太に死んでほしかった。そんな思いがあったにもかかわらず、彼らはそれを聞き入れない。
仕方のないことかも知れない。
彼らは生きていて、
彼女は死んでいる。
気持ちが通じ合わないのは当然のこと。
「どんな心理学者にしたって、死者の気持ちなんか分からないだろうな」
改札前のベンチに座り、彼は言った。
あまり喋るのが好きではなかったはずの彼から口が開いた。やはり変わっていた。
「いや……分かったようなことは言えるかも知れないけど、そんなのは十束康太と変わらない。アレを見た後だと……まったく怖い」
分かったようなこと。
自分が優れた人間だと錯覚することを、彼は恐ろしいと言った。微塵も怖がってはいない様子だったけれど。
しかし、さすがの藍歌くんも事故直後の状態の矢戸さんを見た時には驚いたようだった。
「よく平気で居られるね。あんなのが心の中に居座っているんだろ?」
……確かに最初は驚いていたのだが、彼はすぐにいつも通りに戻っていた。
何かを隠していそうな無表情。
どこか哀しげな瞳と、どこか優しげな瞳。
そんな彼に目を合わせて素直に答えた。
グロテスクなモノには耐性があるのだ、と。別に特別なことではなかったが、少数派ではあったと思う。
それを自覚したのは小学五年生の時。
休日に友達と図書館へ出かけた、その帰り道だった。比較的人の少ない道で猫の死骸を発見した。
車に轢かれたのだろう……とても形容し難い見た目となっていた。
それから目を離さず私は『可哀想に』と思った。
『気持ち悪いよ』
友達が──言った。
彼女は両手で目を塞ぎつつも、指の隙間から私を捉えていた。
『気持ち悪い』
そんなことないよ。私はそう答えたはずだ。
『きゅーちゃんっていつも冷静よね。カッコいい』
そんなことないよ。二回も同じ言葉を返したかは覚えていないけれど、私はとにかく否定した。
たしかに他人から見れば私は冷静な子どもだったかも知れない。しかし、その内心はひどく悲しかったのだ。冷静ならばこんな悲しい思いはきっとしない。
『死んだ人にも好かれそう!』
……そんな無邪気な言葉に、私はそうかもねと笑って返した。
藍歌くんは私の話を一通り聞いた後で感想を口にした。
「笑えないな」
それに尽きる。今思い返せば全く笑えない。
過去の私が今の私を知っていたのなら、あの時どんな顔をしていたのだろう。そんな詮ない想像をしていると、彼は言った。
「三人目はどうする?」
さすがの切り替えの早さだ。
もちろんそんな気分ではない。矢戸さんと十束さんの物語を側から見ていて『さて、三人目だ!』なんてできるわけもなかった。
しかし、私は藍歌くんの協力なくしてこの問題を解決できない立場だ。彼が今すぐにでも済ませたいと言うのなら、私に拒否権などあるはずもない。
君がいいならすぐにでも──。そう言いかけたところで、彼は私から目を逸らして言う。
「……いや、疲れたし明日以降にしよう。都合のいい時に連絡してくれ」
すまない。
気を遣わせてしまったことに謝罪をすると、彼は「別に」と答えた。
なんて情けない……私はどれだけ彼に迷惑をかければ気が済むと言うのか。幽霊には好かれると言うのに、私は私を好いていない。
「なに阿保面してんだよ」
正面に座る兄が言った。
カウンターキッチンの前に設置されている机と四つの椅子。私と兄は向かい合って食事をしているところだった。
そんなことも失念するほどに、私は今日のことで頭がいっぱいだった。
「あの子、藍歌くんだっけ? なんかあったのか?」
「うるさいな」
母が作り置きしてくれたご飯を口に運ぶ。
両親が共働きの白瀬家ではこうして兄と二人で食事をすることが多い。その兄も兄で大学生活を謳歌しているようで、私一人での食事も増えつつあるのだけれど。
「オニーチャンは心配だ。数年前まではあんなに可愛かった妹がここまでの反抗期を迎えるとは」
「適当を言わないでくれ……本当に」
私は数年前から兄に対する言動は変えていない。
この兄はいつも適当を言う。昨日だってそうだ。私が『お兄ちゃん』なんて言ったのは小学六年生が最後だ。それなのに、藍歌くんの前で普段からお兄ちゃん呼びをしているふうに言った。……恥ずかしさよりも兄に対する悔しさが勝る。
そんな兄が昨日に私を締め出して藍歌くんと何を話していたのか、どうしても気になってしまう。
「ねえ、兄さん。昨日は藍歌くんと何を話したの?」
矢戸さんを祓って帰宅し、それから今日で四回目の質問だった。
「親指が取れるマジック見せてあげてたんだよ」
この答えも四回目だ。まったくふざけている。藍歌くんに優しい兄だと肯定したことを後悔してしまうほどだ。
はあ、と息を吐くと、兄は困ったように笑った。困っているのは私なのだけれど……。
「俺の質問に答えるんなら答えてやんよ」
「なんだっていうの……」
兄は簡潔に言った。
質問というよりは確認に近かったと思う。既に露見している事実をただ口にしたような、そんな心を見透かされた感覚は昔から慣れている。
だから、私は驚かなかった。
私も事実を口に仕返す。
「うん。一年生の時から」
「だろうね」
へへ、と破顔する兄。
「九織、一応言っておく。イケるぜ」
今度は簡潔というよりも抽象的な物言いだったけれど、一体何のことを指しているのかわたしには理解できた。
そして、やはり藍歌姫乃という人物を理解しきれていない兄を、今度は私が笑う番だった。
+++
宿泊研修が始まった。
別段前置きもいらないだろう。大抵の高校にはあるイベントが当たり前のように始まっただけだ。
私の所属する班は男女三人とバランスの良い構成だ。梅花さんと虚江さんの二人は中学からの仲のようでいつも一緒にいる。石塚くんと杉浦くんはそれぞれ別の中学のようだが、あたかも十年来の友達のように見える。
『白瀬! 班決まった? 決まってないね! よし、私たちの班にカモン!』
梅花さんが誘ってきてくれた段階で私を含めて五人、六人班なので一人足りなかった。
そこで私はプリントをつまらなそうに見ていた彼を見つけ、班へ招き入れた──。
宿泊施設へ向かうバスで、私は藍歌くんと隣の席となった。彼は私よりも先に席に座っており、ひどくつまらなそうに窓の向こうを眺めている。
私が誘ったことが理由で藍歌くんを不快にさせているのなら申し訳ない……。
「……晴れてよかったな」
隣に座るなり私は声をかける。
「……?」
藍歌くんは普段と変わらぬ目つきで私を見る。
「そうかな」
「暑いのは苦手かい?」
「暑すぎるにしろ寒すぎるにしろ、得意な人はいないと思う」
「かもしれないね。じゃあ、季節で言うと春とか秋あたりが好き?」
「そうだけど……」
「……?」
その続きはなく、藍歌くんは訝しげに私を見つめた。
「いや、いい」
それだけ言うと、彼はまた外を見る。
……正直なところ、この人が集団よりも個人を好む人種だと言うことは承知しているつもりだ。クラスでは特に口を開くこともしないし、一人で居たとしてもその状況をはじることもない。藍歌姫乃くんは堂々とした人だ。
私と同じ──と言えば失礼極まりない。白瀬九織という女はどうにも中途半端な人間なのだから。
藍歌姫乃くんは私の理想。
憧れ。
遠くの人。
しかし、この人はそれだけではない。
「…………」
私は彼の虚な瞳に儚さを感じている。
──本当にミステリアスな雰囲気だ。
バスが動く。
×××
どんなイベントよりも部屋での自由時間の方が楽しい。……という意見が私の周りでは多くある。
強制的か自主的かの差異が故だろうか。もしも今日に体験したイベントの数々が生徒が自主的に発案したものとするならば、多少は「楽しかった」という意見が聞こえてきたはずだ。
……生徒なら山登りもオリエンテーリングも発案しないか。
「というわけで! 今から典型的な恋バナをしますっ!」
八人部屋で溌剌と宣言したのは梅花さんだった。
お祭りかと錯覚するほどの盛り上がりを見せる雰囲気の中、一人ずつ気になる男子について語っていく。
その輪の中に引き込まれた私も当然語る番がきた。
「次! 白瀬! 好きな人は?」
「九織の好きな人かー。想像もつかないなー。誰だろう」
「男? 女?」
次々に投げかけられる問いの数々に対し、私は申し訳なさそうに手を振って答える。
「そんな人はいないよ。すまないな」
「えー! いないの⁉︎」
「ノォー! 折角のトリだったのに……」
散々なリアクションをされる。まずい……中学の修学旅行の時と同じだ。空気を壊してしまった。
「気になる──ほどの人もいないの? 九織」
虚江さんが助け舟を出してくれた。これに乗らない手はない。
私は『気になる』から即連想された彼の名前を口にしようとする。
「あ──」
「それじゃあ!」
梅花さんが私の声をかき消す。
「藍歌ちゃんなんてどう!? 相性良さげじゃん!」
「……え?」
今まさに私が言おうとしていた名前を彼女が言うものだから、私は思わず間の抜けた声を出してしまった。
しかし『ちゃん』と付けるのはどういうことだろう。梅花さんと親しい間柄なのかな。
私が質問するよりも先に、他の女子が揃って藍歌くんの名前を口にする。
「……って誰だっけ?」
「ほら、いつも一人でいる男の子でしょ? 何考えてるか分かんない感じの……」
「世界に無関心って感じだよねー」
「ああ、典型的なインキャだ」
散々な評価だ。
あまり愛想笑いもしたくない。
「甘いなー、女子どもよ」
梅花さんは不気味な笑顔を浮かべると共に立ち上がる。円の中心に立つと、彼女は堂々宣言した。
「藍歌ちゃんは間違いなくオモロい!」
やはり梅花さんは藍歌くんと親しい間柄……? 私が何故を聞こうとするよりも先に、私の右隣に座る金髪ショートの琴枝京が言った。
「面白いやつがボッチとかなくね?」
「だから、甘いんだよ琴枝!」
琴枝さんに詰め寄る梅花さん。
「な、なんだよ……?」
「私も藍歌ちゃんとはあんまりお話ししてなかったんだけどね。折角同じ班になったんだしって思って話しかけてみたんだよ。『グッモーニンッ! 今から登山だけどどんな気分!?』そしたら彼は答えました。『嘔吐しそう』……ですって!」
きゃははと軽快に笑う梅花さんに対し、私を含む他六名は苦笑いを浮かべていた。
そう、六名。
琴枝さんは眉間に皺を寄せてどこか不快そうだった。
「そのどこがおかしいのさ? おもんないだろ」
今度はその問いかけに対して梅花さんは笑った。
「普通言う!? 話したことない女子相手に『ゲロ吐きそう』だなんて! 面白いったらありゃしない」
「意外と素直なんだね。でも、どうしてちゃん付けなの?」
虚江さんの一言に琴枝さんを除いた私たちは頷く。
「案外カワイー顔してるから。まったく笑わないのもったいないよねー」
可愛いと言われれば、確かに彼は良い顔立ちをしている。その意見にわたしは内心深く頷いた。
そして……
「それより、なんで藍歌くんが九織と相性いいと思うの?」
自分では聞けない質問を虚江さんがしてくれた。
「だって、二人して雰囲気似てるじゃん。ミステリアスっていうの?」
「え──私もか?」
「うっそー? 自覚なし?」
笑われてしまった。
私は他人からの評価に敏感だと自覚していたのだが、それはどうやら『つもり』に留まっていたらしい。自分自身を過大評価していたようで恥ずかしい。そんな私と藍歌くんが似ている──それもまた、過大評価ではないのだろうか。
「九織は? 彼のこと、どう思う?」
虚江さんからの質問に私は頭を悩ませた。
どうにも簡単に答えられそうにない。誤魔化すための複雑な答え方すらも思い浮かばないものだから、私は微苦笑と共に「どうだろうね。あまり人を好きになったことがないから」と発した。
その後にみんなからは『難しく考えすぎだよ』と言われてしまった。
彼女たちは人を好きになるに特段理由を必要としないらしい。偶然目が合った、顔が好みだった、同じ本を読んでいた、性格の相性がよかった等々……。
『そんなのでいいのか……?』
『いいんだよ! そっから関係は深くなってくの!』
あまりピンとこない理屈だった。
それからも何故か恋バナが続くものだから、私は『飲み物を買ってくる』と言ってあの場を抜け出した。
山奥だからコンビニなどの施設は当然存在しないので、宿泊施設内の自動販売機と売店で購入するしかない。
小腹も空いたことだし、売店で何か買おう。
と、一階に降りてすぐに見える談話スペースに藍歌くんが座っていた。頬杖を突き、退屈そうに本を読んでいる。
私はそんな彼を見て『衝動』に駆られた。
早歩きで自動販売機へと向かう。その道中に、
「白瀬ー! 写真撮ろー!」
と誘われたが、私は愛想笑いと共に断った。
急いでいた。焦っていた。いつの間にか消えてしまいそうで、とても不安だった。
缶コーヒーを二つ購入して談話スペースへと向かう。
先ほどと全く変わらない体勢でいる藍歌くんを見て、私はほっと息を吐いた。
「こんばんは。暑い夜だね」何気ない挨拶と共にコーヒーを差し出す。「本が好きなのかい?」
藍歌くんは驚いたという風ではないものの、多少の意外性に目の大きさを変えたように見えた。
「まあ、勉強よりは」
コーヒーを手渡した後に藍歌くんの正面に座る。彼はそんな私にはお構いなしにコーヒーをテーブルの上に置き、読書を再開した。
やはりつまらなそうに文字列を追っている。
「何を見ているんだい?」
「……なんて言えばいいかな」
彼はパタンと本を閉じる。私に話しかけられたからと言うよりは、本に愛想が尽きた感じだ。
「推理小説のフリしたファンタジー小説だよ」
「あー……」それだけ聞くと興味をそそられるが、しかし私はそう言った物語の退屈さを知っている。「それは、その……好みが分かれるな」
「そうだね。推理小説に超科学や超能力を持ち込まれると物語の全てが茶番になる。時間を返せとまでは言わないが、せめてジャンルは変えてほしかった」
「ジャンル?」
「ファンタジー小説の中の推理パートとすれば、多少評価は変わる」
「はは。なるほどな」
私は静かに微笑んだ。藍歌くんと話すと自然な表情を浮かべられている気がする。
しかし、それは彼にはどうでもいいことらしく、コーヒーを手に取って窓の向こう側を眺めていた。暗い森の風景は明かりがないのでとてもつまらない。でも、藍歌くんにとっては私との会話の方が優先順位が低いらしい。それは少し寂しかったりする。
彼の目には、白瀬九織が映らない。
「宿泊研修は──」さして苦しくもない沈黙を私は打ち破る。「楽しめているかい?」
「別に」
「そうか。男子は部屋ではどんな感じなんだ?」
「うるさいよ。すごく」
「だから抜け出してきたんだ?」
「静かな空間が好きなんだ」
「分かるよ。私も同じだから」
「ふうん」
藍歌くんはまるで独り言を呟いているようだ。視界だけでなく記憶にも残らなそうな予感がする。
──私はどうしてここまで藍歌くんを気にかけてしまうのか。
いつからか藍歌くんを目で追っていた。
藍歌くんが見ているものが気になった。
私はこの感情に好奇心と名付けて放置した。決して不愉快ではないのだから、胸の内に留めておいたところで破滅することはないと思っているからだ。
しかし……
「わ、私もミステリー小説はよく読むんだ。今度オススメのものを貸そうか?」
「遠慮する」
「そうか……それじゃあ、オススメの本を教えてくれないかな?」
「いいけど……」
どうしてこんなにも胸が苦しい?
消灯時間までこの苦しさを意識しながら藍歌くんと会話を続ける。……違うな。コレは会話と呼ぶには孤独すぎる。私と藍歌くんには分厚い隔たりがあるんだ。
後日。
私は五時丁度に起床した。普段と変わらぬ寝覚の悪さにうんざりとしてしまう。部屋のメンバーは全員まだ寝て……あれ、梅花さんが居ない。
どこへ行ったのだろうと考えてみるが、『青天の霹靂』が二つ名として存在する彼女の行動など分かるはずもなかった。
さて、と。二度寝をしてしまえば絶対に十時までは起きられない。みんなが起こしてくれるかもしれないが、きっと大迷惑をかけてしまう。眠気が強い時の私はとことん起きないらしいからな……。
ぱん、と頬を叩き体を起こす。
そして静かに部屋を出る。二百人近くがこの施設に詰め込まれているはずなのに、朝はこんなにも静かだ。カラスか雀の鳴き声だけが鼓膜を刺激するものだから、どこか異界に来た気分になる。
「山にはほとんど行かないし、実際異界だよね……」
窓一面に広がる緑を見て思った。
しかし、部屋にトイレが無く、一階の共有トイレしか存在しないのは不便がすぎるな。
寝癖だらけの髪の毛を意味もなくさする。あまり見られたくない一面だ。
階段を一段降りたところで、
「あはは!」
と笑い声が響き渡った。耳をすませば誰かの会話が聞こえる。
私は思わず忍足になった。
そして一階に着き目にした光景は──
藍歌くんと梅花さんが窓際のベンチで会話をしている様子だった。
「────」
とくん、と。
鼓動が高鳴った直後、全身が熱くなった。
朝日に照らされた二人はとてもロマンチックな雰囲気に見える。藍歌くんはいつも通り笑ってはいないものの、梅花さんは現状に満ち足りた表情をしている。
なんで、あの二人が──?
柱の影に隠れて私は美しい光景から目を逸らす。そして、好奇心の正体とその醜悪加減に息を漏らした。
──難しく考えすぎ?
なら、はっきり言うよ。
入学式の日。登校時に偶然にも彼と目があった。その時既に、私は恋をしていたんだ。しかもその感情は醜いもので、あまりにも浅い理由の癖に他人への嫉妬も生まれてしまっている。
なんて。
口に出せない時点で私はどうしようもない人間だ。
部屋に戻ろうと私は階段へ向かう。その時藍歌くんと目が合い、私の頬は熱を帯びた。好奇心の正体が未知のものだったからだろう、とても私らしさのある反応とは思えない。
けど──藍歌くんはどこも見ていない。私を捉えてはいるが、風景の一部としての認識程度。あの綺麗な目には、白瀬九織という個人は存在しない。
×
そんな彼から話しかけられた時は胸が躍った。それが幽霊の感情に引き寄せられて自殺寸前の状況だとしても嬉しかった。
「おい? なにニヤついてるんだよ」
「──え? そんなつもりは」
「ほーん。まあいいけど」
「とにかく、兄さんは彼を分かっていないよ」
九月の文化祭で私は藍歌くんと同じ時間に店番になるように調節した。恋心を自覚して以降、周囲の視線がある中で彼に話しかけることが怖くなったからだ。
そして、白々しい質問をした。
『本が好きなのかい?』
『勉強よりはね。それがなに』
やはりと言うべきか、彼の記憶に宿泊研修の記憶は残っていなかった。違うな……残っているかもしれないけれど、思い出すには至っていない。
私は悲しさを表に出すことなく白々しい会話を続けた。
そう、藍歌姫乃くんにとって──
「背景でしかなかったんだよ、私は。一年前から」
「本当か? 時間が経てば人の見方は案外変わるもんだぞ?」
「そうかもね。彼は確かに変わったし」
変えた要因も知っている。恐らくは桜内さんと井宮くんだ。
彼女が、
彼が、
私の知らないところで、
何かをした。
「……でも、せいぜい観光スポット程度の昇格だよ。時間が経てばまた忘れられるさ……」
気がつけば私は箸を置いていた。
彼のことを考えると何をするにも集中できない。食事まで集中できないとなると、これはもういよいよまともではない。
「あのねえ」兄は呆れ気味に肩を揺らした。「自虐的になったところで何も得しないでしょ」
「……?」
「お兄ちゃんには『人を見る目』があんだよ。だから聞いたんだ。『君は妹のことが好きなのかな?』ってさ」
「なっ──なんてことを!」
全身から汗が噴き出る。
この人本当に勝手だ! これから藍歌くんにどんな顔をしてあえば……。
「黙って聞けよ」
また勝手なことを言う……。
「藍歌くんは何も答えなかったが、質問の後に俺と目を合わすことをしなかったんだ。これはどう考えてもプラス査定だぜ」
面倒くさい兄と目を合わせることすら億劫になっただけではないのかな。
「結局さ、人の気持ちなんて聞かなきゃ分からないことが多いんだよ。身勝手な予測で落ち込むより、確信的な言動で道を探せよ馬鹿妹」
冷徹な一喝はたしかに私を思ってのことだった。
私は兄のしたことと藍歌くんへの分析に戸惑いつつも、背中を押してくれた有意義な時間となったと認識する。
しかし。
彼の瞳を前に、私に確信的な言動を探すだけの勇気があるのだろうか?
「──あ」
私と言う人間を過去と共に省みて気付く。
私は矢戸さんに同情していたんじゃない。私は彼女に……共感していたんだ。




