第九話 片鱗
矢戸静樹。享年十六歳。妻城市から約六十キロ離れた笠三市に産まれる。
市とはいえ人口は一万を切っており、とても賑わっている町とは言えないが、山に挟まれた自然環境豊かな空間で彼女はすくすくと育った。
欠落した点のない彼女は恋愛感情も正常で、中学時代には幼馴染である少年と恋仲になる。
しかし十五歳──中学三年生の時、自身の将来を案じて妻城市の高校に進学を決意。その意思は彼氏である十束康太も同じであった。
僅かな学力の差異で別々な高校への進学となったが、二人の幼馴染かつ恋仲という関係性が揺らぐことはなかった。
そして高校入学から二月が経ったある日。
矢戸静樹は死んだ。
交通事故である。ただの交通事故。飲酒してからトラックに乗った中年に頭部を潰された。
そこに劇的要素はない。
感動のエピローグもない。
交通事故で亡くなる人は年間三千人と居る。当たり前とまでは言わないが、めずらしくないことが起きただけにすぎない。
無理矢理にオチをつけるのだとしたら、この一文しかないだろう。
矢戸静樹と十束康太は破局した。
それが三年前のことである。
×
「年間で四十万件近く交通事故がある。うち死亡数は三千……三百六十五日しかないのにこれだけ事故が起きているんだ。たしかに珍しくはない……でも、やっぱりかわいそうだ。藍歌くん……その、あまり彼女を刺激するようなことを思わないほうがいい」
白瀬さんは僕を見て言った。
……いや違う。僕の背後だ。僕の背後にいる誰かを見ている。
幽霊の恨みでも買ったか……? ……同情の強要か。
「矢戸静樹の願いはなに?」
「一人目と同じさ。彼に──十束康太さんに会いたいって」
「…………」
死者というのはこうも生者に縛られるものなのか。
「三年前となると……十束さんは今大学生か。浪人してなければの話だけど」
僕は綴さんを頭の片隅に言った。
今回もすぐに済みそうだ。矢戸さんが彼の進学先がわからなくとも、さすがに彼の家は知っていることだろう。妻城市内一人暮らしだというのなら、またすぐにでも始められる。最悪待ち伏せをすればいいだけだし、不法侵入の必要もなさそうだ。
「早速行く?」
「…………」
僕の問いかけに応じることはなかった。この人には似合わない眉間に皺を寄せた渋い顔をしている。
「どうかした?」
「……十束さんは今どうしているんだろう」
「普通に生きてるだけだと思うけど。後追い自殺でもしない限り」
うん、と白瀬さんは弱々しく頷く。
「そうなんだろうね。多分、普通に大学生として生活しているだろう……」
「ああ」
僕は同意と納得の両方が入り混じった声を漏らした。
もし仮に十束さんが死者に囚われずに生活をしていたのなら、生者に囚われた矢戸さんはきっと面白くないだろう。彼が幸せならそれで良いと考えられる性格をしているならば同情の強要なんてしないはずだ。
となると、果たして十束さんに出会えたところで白瀬さんの中から出て行くかどうか怪しいもんだ。
「僕はリアリストなんだ。亡くなった幼馴染が忘れられず一生独身──なんてことがあればロマンチックに思えなくもない。でも……ないだろ、そんなこと」
「稀だろうね」
「そうさ。例えどんなに親しい人が死んだとしても、明日の朝には頭から抜ける事柄だ。本当の悲しみなんて、その人が死んだ瞬間と死んだことを思い出した瞬間だけだ」
「その言葉……すごく身に染みるよ。常に頭から離れないなんてことあり得ないんだよね」
「うん。死は『完結した話』だ。そんなの、常に頭の中に留めておく方が難儀に決まってる」
西日に照らされ景色が鮮やかさを増してゆく中、この空間は沈みきっていた。まったく、本当に天気というのは空気を読まない。
「私もリアリストだけど……ロマンチックなことには憧れている。それが幸福か不幸かはともかく、綺麗だとは思う……」
「どうだかな……」
夢を見過ぎている気もするが、しかしそれは正誤つけられるようなことではない。
僕個人の意見として、不幸であるなら綺麗ではない。そこにあるのは負け惜しみだけだ。
背中に冷たい重圧を感じる。相当お怒りのようだ。しかしそれでも同情できない僕はなんとも僕らしい。
「私は脆くなったのかも……」
僅かに綻んだまま視線を落とす。
今の発言がどういう意図で発せられたものなのか分からない。この人は背後の死者とは違って同情されたがるようなタイプではなさそうだけれど。
「というと?」
僕が訊き返すと、白瀬さんはハッと驚いたように顔を上げた。そして僅かに頬を朱色に染める。
「す、すまない。独り言だ。恥ずかしいな……」
独り言をよく言う身としてはどう反応するべきか分からなかった。だから夕日に照った景色に視線を移して何を考えることもしない。
──筈だったのに、脆くなったという言葉は身近に思える僕はその続きが気になってしまった。
これははっきりと理由があるから好奇心は関係ないとは思うけど、もしも理由がなかったら僕はどうするのだろう。
と、思考が脱線したところで白瀬さんが言った。
「……知らなければ、きっと私は私のままだった」
僕が白瀬さんに顔を向けると、今度は彼女が外を眺める番となった。
「全く知らない感情だとは思わない。しかし、彼女たちは死んでいて私は生きている。それは絶大的な差異だ。同じ感情でも、比較してみると私の方は偽物にすら思えてしまう」
「死者の過大評価はよく聞く話だ」
「厳しいね」
「君が優し過ぎるんだ」
僕の率直な意見に白瀬さんが顔を向ける。彼女は少しばかり驚いていた。『君がそんなことを言うなんて』とでも言いたげな表情だった。
たしかに自分でも素直過ぎるとは思うが──
「…………なんにせよ、あと四人を消し去ったら解決するさ」
無責任な言葉だが、そこまでは僕が責任を取るべきって話でもない。
無意味に近い僕の言葉を聞いて、白瀬さんは満面の笑みを浮かべて「うん」と頷いた。
……僕は何かを思って、彼女から目を逸らす。
僕には眩し過ぎる笑顔だった。
「なんで君は──」
「……?」
「いや、いい……」
嘆息するほかなかったのは、僕がどれだけ白瀬さんとどれだけ異なった存在なのかの証明でもあった。
遠く感じるばかりだよ、まったく……。
自分勝手が過ぎることを思っていると、突然──
「なんか難しい話してんなー」
と。
カウンターキッチンから聞こえた男性の声に僕は視線をやる。
そこには百八十は超えているであろう青年がキッチンに頬杖をつき、気怠げな眼差しで僕を見ていた。
確認するまでもなく白瀬さんのお兄さんだ。
その凛々しげな顔立ちには白瀬さんの面影が──否、逆だ。お兄さんの面影が白瀬さんにあると言った方が正しい。なんにせよ、白瀬九織同様、白瀬兄もまた完成された容姿であり、美の塊なのだった。
「に、兄さん……いつからそこに……?」
動揺しまくりの白瀬さんが懸念していることは、僕たちの会話をどこから聞いていたかだろう。
そうだ。幽霊の一件は彼女が家族にすら口を開けない状態なわけで──……
「兄さん⁉︎ 何カッコつけてんだよ、いつも通り『オニーチャン』って呼べばいいだろ」
「うるさい。うるさい以外のなんでもない。早く出ていってくれ」
「ええ……どんだけ子どもなんだよ」
表情がコロコロと変わる兄妹のやりとりは見ていて微笑ましいものだった。もちろん微笑んではいないのだが。
兄妹というのは
姉弟というのは
いいものなのかもしれない。
錯覚か? どうかな……。
「一体どこから聞いていたんだ」
「そんな怒んなよ。……んまぁ、アレだ。そこの君──えっと……」
「藍歌です」
「藍歌くんが言っていたじゃんか。『僕はリアリストなんだ』みたいな。そっからだよ。会話の内容が意味不明すぎて後半覚えてねえけど」
白瀬兄はわざとらしく頭を掻く。本当に、わざとらしく。そんな彼の様子を見て安堵の息を漏らす白瀬さんは変なところで素直に思えた。
「まったく……わざわざ盗み聞きするような真似を……」
「違うっつの! 普通に堂々と入ってきたわ! よっぽど会話に夢中になってただけの話だろうが……」
そう言われると納得せざるを得なかった。……少なくとも僕は。白瀬さんはというと、白瀬兄に冷ややかな視線を送っていた。
くだらないことで衝突があるのは実に兄妹らしい。
……衝突、か。
「聞いてて思ったけどさ」誤魔化すというよりも開き直った感じで白瀬兄は言う。
「『完結した話』ってのはいいね。それこそロマンチックな比喩だ。漫画にしたって小説にしたって、完結したものはよっぽど出来が良かったり何かしらインパクトがないと記憶に残らないもんね。残酷ではあるけどそれは人にだって当てはまる。あと、死者の過大評価だったっけ。これもあるあるだよなぁ……」
饒舌に語る白瀬兄に対して露骨に不機嫌になった白瀬さんは立ち上がって言った。
「もう行こうか」
「うん」
僕は頷き、足早に玄関へと向かう白瀬さんの背中について行こうとするが、「おいおい、どうしちゃったんだよおまえ」と割り込む白瀬兄の背中について行くことになった。
颯爽と靴を履き扉を開けて待つ白瀬さん。
するとどういうわけか白瀬兄は彼女を力強く押し退けた。
「なっ──兄さ……」
白瀬兄は素早く扉を閉める。
そして取手を引いたままで彼は振り返り僕を見た。
「藍歌くん。妹を頼んだぜ」
「────」
やはりと言うべきか、全部聞かれていた。
それだけってわけでもないだろう。同じ家で過ごす妹の異変に気付くのは普通と言えば普通だ。生活の最中で募った疑問が先程の会話で理解できた──そんなところか。
白瀬兄は軽く笑んでいたが、真剣さがひしひしと伝わる視線だった。
似ている……それは当然だ。
どう返そうかと悩んだ結果。
「なんのことですか」
と言った。
白瀬兄は納得したようで「フッ」とその顔を更に明るいものにする。
「そう、それでいい。やっぱ俺は人を見る目がある」
この答えで十分なのは予想通り。僕が迂闊に口を割らない人間だということはよく分かっていただけたことだろう。
会話が終わったところで僕も靴を履くが、しかし彼は扉の前から動こうとしなかった。そして確信的な顔つきになり、何を言い出すかと思えば……
「 」
笑い飛ばすべきポイントだったのかもしれない。僕がそうしなかったのは、単にそのスキルがないから──それだけでもない。
肯定はしない。しかし、それが否定のイコールになるわけではない。
無言で硬直する僕を見て、白瀬兄は軽快に笑ってから玄関を去る。
初対面の人相手にあそこまで愉快な立ち回りができたならどれだけ楽しいのか。
僕には想像もできなかった。
×
「兄さんと何を話していたんだい?」
十束康太の自宅へと向かう道のり。彼女が投げかける疑問には慎重に答えなければならない。
白瀬兄が白瀬さんの問題を察していた──その事実を彼女がどう受け止めるのか分からないのだから。
「会話が不審すぎたからヤバい奴と疑われたんだ。幽霊に関してのワードは出てこなかったから、きっと気づいてはいないと思う」
「そうか……すまない。本当に失礼な兄だ。帰ったらキツく言っておく」
怒りよりも呆れの感情が強いらしく、白瀬さんは深々とため息を吐いた。
「別に気にしてない。ヤバい奴というのは自覚しているつもりだ」
その自覚すらも自分に甘い評価かもしれないけれど。
「君は……」突然白瀬さんは歩みを止めた。「君はどうしてそうも自虐的なんだ……」
「それならさ」
三歩先まで進んで足を止める。
振り返らずにいるつもりが、気づいた時には振り返っていた。悲しそうな瞳をした白瀬さんを見て、
『僕が人殺しだとしても、君は僕の過大評価を続けるの?』
と訊こうとした。
でも、無理だった。
白瀬さんの曇った表情から僕は逃げ出した。
「それなら……?」
言葉の続きを待つ彼女に何も言わず、僕は再び歩き始める。
ああ──なんてふざけた話だ。
初対面の彼の言葉がこんなにも纏わりついてくるだなんて。




