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無彩色の願望  作者: 哀川
第四章 屍の器

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第八話 定義

 人間であると思った理由は単純だ。それが人間のパーツで出来ていたから──それにすぎない。

 しかし同時に、それを人間と認めるわけにはいかなかった。

 それははっきりとした人の形があった。百七十は超えている。頭、体、手足と人間として見るには十分なパーツが揃っている。

 だが、あまりにも白くボロボロな上にあちこちが黒ずんでいる肌は死体を連想させた。裸体であり、わずかに膨らみのある胸部から女性の体と見てとれるが、性器も無いので確証はない。そもそもこれに性別という概念があるかどうかって話だ。

 そして頭部。

 楕円形のそれには目も鼻も耳も、髪の毛すらもなく、中央部分に横長の切れ込みが口に見立てることができなくもない程度だ。


 人間であり、

 人間と認めるわけにはいかない異形。


「うわぁ……」


 僕の背後でみちるが声を漏らした。


「絶対あの傷みたいなのが開いて口になるやつじゃん。ホラーゲームあるあるなんだよ。シンプルだけどキモチワルい」

「ふうん。で、そういうやつの倒し方は?」

「一定時間逃げる」

「…………冗談はさておき、いい加減ここにも警備をつけたらどうだ? 本拠でないとはいえ、お前や蔓さんがこうして住んでいるんだし……」

「警備をつけることによって漏れる情報があるでしょ。意識的に何かを隠そうと細工をするとバレることの方が多いんだよ? というか、こんなの警備のしようがないよ」


 たしかに、と僕はぴくりとも動かない異形を睨む。


「ま、やっちゃってよ魔術師! 死ぬことを恐れてない人間の力を見せつけてあげな!」

「魔術師か……」


 未来を見て他人の因子を頼りにナイフを振るうだけの僕にはあまりにも重い言葉だ。

 ……まあ、僕がやる気を出すには十分だ。

 一呼吸の間に身体強化を施す。

 異形に対する恐怖心は拭いきれぬまま、それでも殺意を込めたナイフを手に階段から飛んだ。

 異形の首を正面から切り裂き通過する。

 空中で回転し、少しの間も異形から目を離すことはしない。

 赤い絨毯に着地をして立ち尽くしたままの異形の背中を見る。

 ──手応えはあった。たしかに今の肉を断つ感触は僕の知るものだ。

 だというのに、異形は微動だにしなかった。最初の位置から一センチたりとも動いていない。

 気味が悪い……反撃に来てくれた方がまだ異形感は拭える。

 そんな感想を抱いた矢先、ピクリと異形の指が痙攣した。右手人差し指だけだったところから、次第に全ての指が不規則に痙攣し──止まる。

 そして狂った様に駆け出した。

 僕に向かってではなく、

 みちるに向かって。

 あいつは逃げることもなく残念そうにため息を吐いた。


 心臓を鷲掴みにされた気分だった。


 今までにない力で床を蹴る。

 瞬時に階段を駆ける異形の頭上まで到達した。


「ふざけんな」


 心からの言葉を放つ。

 すると異形はみちるに手が届く直前で静止した。

 そんなことに構うことはなく、ナイフを逆手に握り直し首に突き刺す。

 馬乗りになった状態で十回抜き刺しを繰り返した。


「姫乃。もういいんじゃない?」

「……ああ、そうだな」


 ナイフを抜いて再びみちるの前に立つ。


「出血ゼロだね。今更驚くこともないけど」

「うん……?」


 改めて見ると、確かに血が流れていない。異形の傷口はそこにただ空白を作っているだけ。

 殺すことだけに夢中になってて気付かなかった。


「それにしてもどうしよっか、この怪物。魔術対策機関に通報が正解?」

「そうだな」


 この異形が表の世界のものだとは到底思えない。

 僕は銀色のままのナイフを畳んで仕舞い、携帯を取り出した。

 すると──異形が徐々にその姿を消していった。

 ゆっくりと、着実に。

 消失というよりも逃走に感じるそれを、僕らは止めなかった。その必要がないからだ。

 やがて異形は霧の様になり、ついに僕たちの視界から認識できなくなった。


「一件落着だね」


 けらけらとみちるが笑う。


「怖くなかったのか?」

「何言ってんの。怖かったよ。二、三日は夢に見ると思う」


 部屋に戻ろうとするみちる。

 その背中は当然僕よりも小さいはずなのに、どうしてか誰よりも頼もしいように見える。

 それは今に始まった感覚ではない。


「でもね、未知に対しては好奇心も働くんだよ。知らないものを見れてよかったって気持ちの方が大きいな、あたしは」

「好奇心──」


 僕が繰り返すとみちるは振り返って「そうだった」と楽しげに言う。


「それが姫乃の今回のキーワードだったね」

「僕もお前と同じで白瀬さんに未知の何かを感じているから好奇心を向けているのか?」

「そんなの知らないよ、人それぞれだから。もしかして不安に感じてるの?」

「うーん……、どうかな」


 そもそも好奇心という言葉自体に未知を感じている以上、不安と言えば不安なのだろう。

 しかし本当に不安だけを感じているなら僕はこの件──白瀬九織から手を引いているはずだ。無意識のうちに他の何かも感じているとしか思えない。

 切り捨てるには惜しい何か。

 変化の為のパーツ。


「ま、『好奇心はいつだって新しい道を教えてくれる』ってとある偉人も言ってたしね。案外今の姫乃は正しいかもだよ」

「……偉人か」


 結果を残せた人の言葉が僕みたいな凡人に影響を与えるとは思えない。

 これはきっと僕が捻くれているからで片付けられる様な話でもないだろう。

 僕には天才──そうでなくとも歴史に名を残す様な人の言葉は後付けにしか聞こえなくて仕方がない。もしも努力で天才になれるのならば、この世は天才で溢れている。


「覚えておくよ」


 誰の言葉だったか忘れたし、今の会話も明日には忘れそうだが、そんなこと口にするまでもなくみちるは知った風に目を細めた。


「さ、部屋に戻ろ。怪物は消えたんだし通報もしなくていいよ。あー緊張したせいでお腹減った」


 呑気に因果関係が不明なことを言う。

 あまりの能天気さにさすがに危機感を覚える僕は、


「一応通報したほうが良くないか? おまえが警察といった類の組織が嫌いなのはわかってるけど……」

「分かった分かった、そのうち警備を雇うよ」


 全然分かってない。

 僕は肩を竦めた。


「あの感じだと狙われてたのはお前なんだぞ? もう少し危機感を持っていいと思うんだけど」

「あ! じゃあ今日お泊まりしよ!」


 なにが『じゃあ』になるのかさっぱりだが、しかし今の異形を目の当たりにして今日は帰るなんてできるわけもない。

 僕は半ば明日の登校を諦める覚悟で頷いた。


 × 七月三日金曜日


「おはようございます」

「……おはよう、ございます……」


 遅刻届を受け取りに職員室へ向かった僕。

 怒気と呆然と諦観、様々を孕んでいる無茶苦茶な笑顔をした浅沼先生。

 これ以上、この状況に説明が必要とは思えない。


「わかりました。こうしましょう」


 いつも通りの凛々しい表情に戻ると、先生は胸ポケットからメモ帳とペンを取り出して何やら書き始める。

 書き終えたところで、それがメールアドレスだと分かった。


「はい」

「……?」


 差し出された以上は受け取るべきだろう。


「なんです? これ」

「私のメールアドレスです。電話するのが面倒な時、何か悩みがある時、急用ができた時などはメッセージを」

「はあ……」


 そいつは楽でいい。


「でもいいんですかね、生徒に連絡先なんて渡して」

「下心があって交換するわけじゃないです。部活動では教師と生徒との連絡先交換も珍しくありません」


 キッパリと言い切る先生は続いて遅刻届を渡してくれた。


「お互いのためにも、これからは連絡してね」


 微笑とともに投げられた言葉に僕は何かひっかかりつつも頭を下げた。

 四時間目も残り五分となったタイミングで教室に入り、授業を受けるフリをする。フリとなった理由は浅沼先生のさっきの発言があったからだ。

 お互いのためにも──だって?

 こうした態度で僕が困ることは百も承知だ。だから『自分自身のために』という言葉なら素直に頷けた。

 そうか、生徒が面倒事を起こすと担任にも責任があるのか。

 と、僕はあの先生が自分の保身を優先するような人間ではないと理解しているつもりなのに、そんな阿保な理由で納得することにした。

 ……偏見が簡単には覆らないと改めて実感した。

 そういえば──と昨夜、床に敷いた布団に横になってした会話を思い出した。


『理由がなければ偏見は生まれない? うん。もちろんその通りだよ。その通りでしかないよ。それに対しての該当者の反論が決まって《全員がそういうわけじゃない》なんだ!』


 深夜のテンションだからか、みちるは下品な笑いをしていた。


『だから、浅沼だっけ? もしもその人が自発的に《大人は狡い生き物です》みたいなことを言ったら信用していいと思うよ。姫乃にできた新しい友達くらい大切にしていい』


 気になる言い分ではあったが、どうしてそう思うのかを質問する前にみちるは寝てしまった。そして僕も僕で忘れていた。

 狡い……狡いか。己を狡い人間だと自覚する人は多くないだろうな。


「藍歌くん」

「はい?」


 突如として僕の席の横に来たのは白瀬さん。

 とうに授業は終了しており、教室内は一気に昼休みモードの空気だった。

 五分間まるまる考え事をしていたようには感じなかったが、時間感覚というのはそう言うものだろうと自己完結。僕は白瀬さんを見上げた。


「どうかした?」

「うん。藍歌くんが遅刻なんてめずら……」


 珍しいと言いかけて白瀬さんは『そうでもないな』と思ったのか沈黙を挟んだ。


「昨日のことがあってからの遅刻だから何かあったのかと思って。大丈夫かい?」

「関係ないよ。ただ眠かっただけだ」

「そっか」


 白瀬さんは自分のせいではないとわかって安堵したようだ。


「それで今日のことだけど……私の家でいいかな?」

「白瀬さんの?」


 白瀬九織の家。

 昨日の新鮮な抵抗感を思い出して僕は考える。

 人目につかないところを選ぶ理由というのも、それは白瀬さんの問題を他人に明るみにしないようにするため──幽霊に彼女の意思を持ってかれた時のためである。

 だと言うのにマンションで……しかもこの人は四人暮らしをしているんだ。


「今日は家に誰もいないから」

「そう……、……」


 いつもながらの微笑の裏側を覗き込んだ気がして、僕は力無く同意するしかなかった。ここまで流されるのなら、もしもその時が来たとして『応え』を流されそうで心配だ。

 ──嘘だけど。

 今のところ、僕の思いが変わることはない。


「分かったよ。それじゃあ放課後に」


 半ば諦めるように言った。横顔しか見せていなかったから、僕の眉の間に縦皺が寄っていたのは見られなかった。だから彼女は「うん」と嬉々とした返事をした。


「白瀬ー! 食堂!」


 その声に反応して彼女が去っていって、ようやく僕は嘆息にも近い息を吐く。

 ……まいったな。

 自分がどれだけ流されやすいかは理解していたつもりだが、それは結局言葉通り《つもり》でしかない。

 やり場のない感情を胸の内に僕は席を立つ。

 食堂へと向かおうとしていたが、白瀬さんも食堂に向かったことを思い出した。

 彼女と親しくしている人にはなんだか厄介そうな人もいるし、今日のところは購買にしよう。

 その道中だった。

 一年三組のところを通ったところで風荻吉野に遭遇した。


「あ。姫先輩こんちゃっす」

「……こんちゃす」

「なんですかその顔! 露骨に嫌そうじゃないですか!」

「そんなつもりはないんだけどね……」


 顔に出した覚えはないのだが、そう思われたならそうなのだろう。実際、声がでかいし元気いっぱいだし、なんだか疲れるんだよなこいつ……。

 それじゃ、と軽く手を振って購買に向かう僕の横を着いてくる風荻。伝わんないかあ。


「そう言えばなんですけど姫先輩。その後九織先輩とはどんな感じですか? 何か聞き出せました?」

「いや全然。あの人口がかたいからな」

「ですよね! でもそこがクールでいいっていうか! わかります? ですよね、わかっちゃいましたよね!」

「何言ってんだおまえ」


 僕の反応をまるで無視して風荻は淡々と白瀬さんの魅力について語る。

 全然会話になってないやり取りをしているうちに購買に着く。中々に混んでいたものだから、後方で壁に寄りかかった。

 白瀬さんについて一方的に語られるのはあまり有意義な時間とは言えない。だから僕はちょっとした質問をすることにした。


「風荻こそなにか分からないのか? 白瀬さんがどんな悩みを抱えているか。……そもそもどうして彼女を好きになった? おまえもテニス部だったりするの?」

「いや、俺はサッカー部です。テニスコート、グラウンドにあるじゃないですか。部活中にふとコートを見たらポニテ姿の九織先輩がいたんすよね。ボールを打つその姿を見て思ったんですよ。『あ、この人好きだな』って。どうです? ロマンチックでしょ?」

「どこがだよ」


 ロマンチックの意味を知らないんじゃないのかこいつ。


「というか……それだけ?」

「それだけ──というと?」

「好きになった理由だよ」

「はあ……? 姫先輩何言ってんですか?」


 風荻は髪をかきあげ露骨にカッコつけ始めた。


「人を好きになる理由なんてそんなもんっすよ。深さなんてない」

「…………」


 かなりダサい。こればかりは僕の感性がズレていることはないはずだ。実際、近くにいた彼の友達であろう女子が「風荻きしょ〜」などと笑っていたし。

 こほんとわざとらしく咳払いをして風荻は切り替える。


「人を嫌いになるには理由が必要かもしれませんけど、人を好きになるのに理由なんて必要ないですよ。好きになるだけに手間暇かけてたら人類はとっくに絶滅してます」


 などとそれっぽいことを言うが、どこか間違っているような気がしてならない。しかし、それに対する具体的な反論は出てこない。

 僕がポカンとしていると、風荻が「感心してますね?」と言った。

 自信家がすぎるな……。


「話を戻すけど、何かなかったのか? 白瀬さんの様子に変化とか」


 原因が既に判明している以上こんな会話は無意味に等しいが、風荻がもしも自分で白瀬さんの問題に気付けたのなら、それは彼女の信用を得ることに十分繋がる。

 白瀬さんのためにも風荻のためにもなるってわけだ。


「それに気づけてたら姫先輩に頼ってませんって。あっはっは」

「おまえ嫌われてるだろ」

「ええ、月並みには」

「…………」


 鋼のようなメンタルに言葉を失くした。

 強い……素直に強い。強い弱いの話でもないような気がするけど、単純に強い。是非ともみちると口喧嘩をしてもらいたいところだ。


「あ! 月並みで思い出したんすけど、九織先輩が独り言言ってたのを見ました」

「月並みで思い出す理由がわかんねえ。……独り言? 独り言くらい普通じゃないか」

「いや、独り言にしては会話風っていうか」


 これは幽霊に引っ張られていた時の様子を目撃した、という解釈で問題なさそうだな。


「どんな言葉を聞いたんだ?」

「えっとー……『やめてくれ。嫉妬なんてしてない』みたいな? 正直あんま覚えてない」

「ふうん……」


 それはなんとも不思議な会話だ。

 やめてくれ──何を?

 嫉妬なんてしてない──誰に?


「幽霊と話してたりするんですかねー」


 考え込んでいたところに風荻が割り込んだ。

 そして僕はすぐさま


「おまえは幽霊を信じるか?」


 と訊いた。

 本来なら薔薇にするはずだった質問だ。こいつならなんて答えるのだろう。


「信じますよ! そうでなくちゃ面白くない!」

「そっか……」


 こいつが面白がっている点をどう思うかは分からないけれど、しかし距離を詰めさせてみる価値はあるかもしれない。


「案外彼女が抱えてる問題は幽霊とかだったりするのかもな」


 この発言の白々しさは僕にしか分かるまい。


「え? マジ?」

「うん。別にあり得ない話じゃないだろ? あり得ないともあり得なくもないとも、どっちも言い切ることができないんだから。それに幽霊だとしたら彼女が誰にも相談しない説明も付く」


 我ながらなんて適当な言い分だと内心嗤いそうになったが、しかし風荻は「なるほど!」と声を大にして納得した。


「早速九織先輩にアピールしてきます!」

「うん。僕の名前は出すなよ」

「うぃっす!」


 適当な返事をして駆けていく風荻。ここまで全面的に信用できなさそうな人間がいるとは驚きだ。薔薇とは相性が良さそうなんだけどな……。

 ようやく空いてきた購買でパンとミルクティーを買って教室に戻る最中、ふと風荻に聞き忘れたことがあったことを思い出す。

 ──ならおまえは嫌いな人の方が少ないって言うのか?

 別にどうしてもと言うほどでもないのだが気になった。

 次会う時に覚えていたら訊いてみよう……どうせ忘れてしまうのがオチだろうけど。


 ×


 そして放課後はやって来る。それは当然なのだが、昨日からはそこに異質さが含まれている。


「行こうか」


 白瀬九織。

 ひとことで言うならばクラスのみならず校内の人気者。

 そんな人が僕なんかと一緒に行動するから集まる──なんてのは自意識過剰だろう。こういう人は誰といたって視線が集まるはずだ。

 僕は特別なんかじゃない。

 嫌いな人に嫌いと言えるだけの人間である。


「君は気にしたことはないのかい……」


 僕は並んで歩く白瀬さんを見ずに呟いた。


「なにを?」

「自分がどう見られているのか──とか」


 まだ学校付近ということもあり校外ではあるが大丘高校の制服を着た人間がちらほら見える。

 彼ら彼女らの全員が全員こちらを見るわけではないが、白瀬さんを見てその次に僕に視線を移す様は多く捉えられた。

 釣り合いというやつだ。連中はそう言ったものを気にしている。


「藍歌くんでも気にするんだな。他人のことなんて気にしないと思っていた」

「自分を客観視するということは他人の目を見るということだ。だから、他人よりも自分を気にしているに近いと思う」

「なるほど……」


 これは僕の言葉ではない。だから白瀬さんの感心を買ったようで複雑な気持ちになった。


「私は……そうだな、気にしてる方だよ。誰にも嫌われたくないし。傲慢だけどね」


 吐息に近い笑い声を溢す白瀬さんに僕は目線だけを向けた。


「たしかに傲慢だ。でも、実際のところ白瀬さんは愛されている」

「なら君と一緒だな」


 見え透いたお世辞に僕は嘆息した。

 それが聞こえていたのだろう、白瀬さんは


「君は自分を過小評価しすぎだよ……」


 と独り言のように呟いた。

 いくらか反論してやりたいところだが、この人相手には無意味だと僕は知っているのでやめておこう。

 勘違いし続けたいなら勝手にすればいい。


 ×


 敷居が高いという言葉を僕はどこか高級感に溢れていて立ち入りにくい場所と思っていたが、どうやらそれは認識がズレているらしい。正しい意味がどうだったかは忘れてしまったが、しかし、この空間において他の言葉が見つからなかった。

 緑で飾られたエントランスまでの道。それから自動ドアをくぐると、オレンジの間接照明で照らされた清潔感のある広々とした空間が広がる。設備として中庭を眺めることのできる位置にあるソファやイス、テーブルのほか、リラクゼーションルームやシアタールームが見える。

 静か。

 綺麗。

 でかい。

 語彙力の消失。


「豪華な空間ってのは……」


 反響する足音さえ豪華に感じる。もう自分で思っていて意味がわからない。


「否定はしないけど、私がローンを組んでいるわけじゃないから威張れないね」


 白瀬さんは冗談っぽく笑う。

 エレベーターが開いて乗り込むと、カードキーをかざして十階を押した。


「高いな」

「うん。ただ父も母も高いところがあまり好きじゃないらしい。階はルーレットで決めたとかなんとか……」

「頭が」


 おかしい、と言い切る前に止まった。

 エレベーターを降りて扉の前に立ち、白瀬さんが扉を開ける。


「さあ、どうぞ」


 意識せずにはいられない不思議で不必要な感情を胸に僕は「お邪魔します」と言った。

 室内は言ってしまえば予想通り解放感のある作りになっていた。

 予想外な点といえば、構造がメゾネットタイプだったということ。マンションで一世帯が二階建ての構造をしているものがあることは知っていたが、実際に入ってみると案外高揚感が溢れるもんだ。


「楽にしててくれ」


 と言われ、僕はリビングのソファーに腰をかけた。

 右を向くと大窓の向こうに広がる景色が見える。高さが変われば壮観具合も比例するのは当然だ。『それだけのこと』で片付けられるようなことかもしれないが、僕にはこの景色がとても鮮やかに見えた。

 やがて髪を結んだ白瀬さんが紅茶を出してくれた。


「どうも」


 正面に座る白瀬さんに軽く頭を下げる。

 ──沈黙が気まずいなんてことはない。この静寂は白瀬さんの心の準備も兼ねていることだろう。

 いいよ、待つさ。

 景色を堪能しつつ紅茶で喉を潤して一分ほど。


「そういえば──」


 白瀬さんが口を開いた。案外早いもんだ。


「今日風荻くんが不思議なことを言っていたよ。最近幽霊を見たとかなんとか」

「…………」


 雑談からか。


「それは不思議というよりも奇遇だな」

「そうだよね。幽霊に悩まされてる私にわざわざそんなことを話すなんて。しかも幽霊は絶対に存在するとも言っていたな。……少し不自然なくらいだった」


 下手くそかあいつ。と声に出したいところを抑える。


「なんにせよ都合がいいじゃないか。あいつは君のことが好きなんだし、今の状況も信じるに決まって……。なあ、そもそも君たちの関係性ってなんなんだ? 風荻からの好意はもう自覚してるんだろ?」

「うん……告白されたよ。その時には断ったつもりだったんだけど……」


 困ったように白瀬さんは笑う。


「疲れないの?」

「……少し。でも嬉しさが勝つかな」


 興味のない人間からの好意に嫌な顔ひとつしない。本当にすごい人だ。


「藍歌くんは恋をしたことはないのかい?」

「さあ、ね」


 あまり意識したことはない。異性に対して可愛いと思うことも美しいと思うこともある。しかしそれを《恋》と呼ぶにはどうにも違う気がする。


「二人目はね……とある恋人の話なんだ」


 白瀬さんは遠い目をした。

 そして語り始める。

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