第六話 一人目
×白瀬九織
何色に染まることのない私の理想の黒。
自分を抑え込んできた結果染まった黒。
ここに堕ちてすぐ、これは私の心なんだと理解できた。
水槽の底では黒よりもさらに黒く、周囲が霞んでしまうほどの影が待ち構えていた。
それが《死》であることは明白だった。何故かと問われても具体的な答えを出すことはできない。《死》だから、で完結してしまう。
彼ら(性別はわからない)が私の目の前で何かを叫んでいることを、本当は四月の時点で知っていた。知っておきながら目と耳を塞いでいたのは、きっと私が弱いから。『万能である白瀬九織』という存在に疲れてしまっていたから──というのもあるけれど、やはり、亡くなった友達の存在が大きいと思う。
でも……そうだね。この空白とは、私が折り合いをつけなくちゃならない。
×藍歌姫乃
「なんだか知的な人だったね。心を覗かれているようだったよ」
「そりゃ覗いてるから」
「え……」
夕方になって僕らは喫茶店を出た。白瀬さんの決意が固まった今、しばらくは死なないだろうとは思うけれど、幽霊を追い出すのは早いに越したことはない。ひとまずは幽霊がどんな言葉を伝えようとしているのか、それを調べようとしている。
喫茶店で白瀬さんが早速対話を図ろうとするも、その直前に客が訪れたので僕たちは出て来た形だ。
依頼としては終わった話だ。僕らがこの場を借りて厄介事に手を出すのは非常識と言える。
「僕の家でいいかな?」
そこら辺で始めて揉め事を引き起こす可能性は捨てきれない。よくない情に飲み込まれて──なんてことになったらと考えると……
「藍歌くんの……⁉︎」
「嫌か? ならどこか人気のないところに……」
「いや!」
白瀬さんは食い気味に答えると詰め寄って来た。距離は三十センチと無い。
「君がいいなら行きたい」
「うん。だからいいって言ってるだろ」
「そ、そうだな……」
ごめんと顔をそらして謝る白瀬さんに、僕は「別に」と答えて歩き始める。遅れて視界の端に入ってきた白瀬さんはどこか楽しげな雰囲気があった。
アパートに着くまで、僕たちは他愛もない会話をした。沈黙の時間は地下鉄の中だけだった。
しかし一つ、気になる事を訊くことができなかった。
幽霊に拒絶感を抱く起因となった友人の死。こればっかりは軽く聞けるようなものでもあるまい。
それにしてもと考えてしまう。どうしてこんなにも気になってしまうのか。好奇心が拭いきれないのか。
面倒だな、本当に……。
「お邪魔します」
背後からの声にどうぞと返す。リビングに入ると白瀬さんは「へえ……」と感心したような漏らした。
「一人暮らしなんだ。すごく整理されているな」
「整理というか、物がないだけだよ」
僕は床に座る。なんで毎回僕が床に座らなくちゃならんのだと僕自身に訊くも答えが見つからなかった。
白瀬さんはソファーにかけると一息ついた。
「……普段はどこで寝ているんだい?」
「そこに」
「凄いな。冬は冷えるだろう?」
「まあ、でもエアコン付いてるし、一応毛布もあるし」
「そっか。……ここ、良いね。建物は綺麗だし、立地も悪くない」
「白瀬さんも一人暮らし?」
「いいや、両親と兄とで四人」
至って普通の環境だ。
「でも、大学に入ったら一人暮らしをしたいんだ。市内の大学を考えてるから、ここにしちゃおうかな」
「二年後にも空き部屋があるかは分からないけどね」
「──うん」
八割は冗談だろうな、と僕は笑う白瀬さんを見て思った。
「君は大学に行くのか?」
窺うような眼差しに変わって飛んできた質問に、僕はどこか教師らしさを感じながら答える。
「当然。進路希望調査票だって、市内の大学を偏差値の高い順に書いた」
ちなみに一番高いところは国立で、とても僕が容易に入れるようなところではない。その他も厳しそうではあるのだが。
「妻城市を離れる気はないんだな」
「そりゃね。住むなら都会、泊まるなら田舎って考えだから」
「私もだ。気が合うね」
気が合う──確かにそうかもしれない。一年前から、そう思っていたかもしれない。だから好奇心が向いたのだろうか……。
「それじゃあ文理選択は?」
「文系……かな。君は?」
これもまた好奇心を言い訳にするつもりか、僕は訊き返した。
「どうだろう。理系の方がミスが多いし、きっと文系になるかな」
「ミスが多い……」
井宮の話によれば毎回成績上位じゃなかったかこの人。謙遜も過ぎれば嫌味や皮肉に変わるんだよなと一瞬思ったが、それは受け手が劣っていることが全ての原因なので肩をすくめるだけで終わらせる。
「統計が理由かと思って兄に話したんだけど、『そんなもん意味はない。気にするだけ時間の無駄だろ』と言われたよ」
「統計……? ああ、男女比か」
それはよく聞く話ではある。
しかしまあいい性格をしているお兄さんが居るものだ。僕みたいなのには到底言えたことではない。統計にしろ偏見にしろ、それらは理由がなければ生まれないものだ。
「優しい人なんだね」
「うん」
一切淀のない返事は微笑ましいものだ。家族関係が良好なのだと他人に確信させる。
「……、……白瀬さん。そろそろ」
「──そうだね」
明るい笑顔のままのつもりだろうが、それは影のあってすぐに消えてしまいそうなものだった。
「大丈夫だよ。不意だったあの時でも助けられたんだ。安心して沈んでくれ」
深く頷くと、彼女はそっと瞼を閉じた。
×白瀬九織
正直に言うとすごく怖い。口にするのと行動に移すのとじゃあまるで違う。直前になって恐怖心が支配してくる感覚はどうにも苦手だ。
昔の私はこんなに臆病者ではなかった。言いたいことをはっきりと言えていた。自分のことを第一に考えることができていた。
──中学一年生の時。
私はとある男子から告白をされた。
昼休みのことだった。彼は私への告白を公言していたようで、彼が教室にやってきた時、教室には大勢が集まっていた。
『白瀬さん!』
彼がそう言った時点で私は答えを決めていた。
そして同時に、少しだけ不満に思った。どうして私の周りは付き合う前提で話を進めているのだろう──と。
『ずっと前から好きでした! 俺と付き合ってください!』
『……、……その、ごめん。友達のままでいられないかな?』
お祭り騒ぎだった空気が一瞬静まり返ると、彼は一緒に来ていた男子たちと茶化しあったりしていた。元々陽気さに定評のある人だったので、すぐに笑い話となり、雰囲気が悪いままということもなかった。
私の周りの人たちも反応はさまざまだった。
『告白の仕方ありえんくない?』
『九織と釣り合ってないよね』
『まあ付き合ったら面白そうじゃない? あいつ』
『悪い奴ではないんだけどなぁ』
昔から気配りが得意だった私は近くの反応だけでなく遠くまでも見ていた。
すぐに他とは違った反応を見せていた数人を見つけた。
教室の端でこちらを睨みつけている女子三人。同じ性別をしているものとして、きっと目立っている私が面白くなかったのだ。
そしてもう一人──教室の外から涙を流していた女子。彼女は私と目が合うとすぐに去っていった。彼に恋をしていたのが明白な反応だった。
……素直に悲しかった。友達は少なくないけれど、だからといって嫌われて何も感じないわけがない。
だから私は私の行動に他人の意思という制限をかけた。こうすれば何もかもいい方向に進んでいくと、そう信じた。
その結果、私は取り返しのつかない失敗をした。
×
テニス部に所属していた私は帰りが遅くなることが多かった。その日は大会が近く、日ごろよりも気合の入った練習を行った。
すっかり暗くなった道を私は一人で歩いていた。灯の少ない住宅街、その近くには大きな公園があり、そこで私は不審なものを見る。
制服を着た女子──その上に黒い服装の誰かが跨っていた。お腹の上に馬乗り状態のその人は女子の口を手で塞いでいるように見えた(斜め後方から見ていたので正確性に欠けるとは思う)。女子の抵抗も虚しく、次第に動きが小さくなっているようだった。
──だ、誰か呼ばないと。
三十メートルほど離れた場所から私は思った。知らない人の家にでも駆け込んで警察を呼んでもらう──これが最善策だと思った。
しかし。
他人のことを考えることが裏目に出た。
私は犯人の気持ちを考えてしまった。
──私が誰かに助けを求めて、そうしたら当然あの人は逮捕される。戯れあっていたでは済まない光景なのは確かだ。そして私は事件現場の第一発見者となって、いろんな人に話を聞かれて……普通の生活に戻る。しかし……もしも、万が一にあの人が逮捕されなかったらどうなる? 第一発見者を恨んで殺しに来るかもしれない。いや、逮捕されたにしろ、釈放されてから殺しに来るかも。もちろんあの人が私のことを特定できるとは思えないけど……可能性がなくはない。今後何十年も背後から刺されるかもしれないことを頭に入れなければならないの? それなら……。
私は慎重に一歩、足を引いた。
鼓動が高鳴りとてもうるさく感じる。
──このまま見なかったフリをすれば、後の全てが楽に終わる。
頭では理解していたのに、一歩以降を引けなかった。
ただ息を潜めて状況を傍観するという最悪な選択をしていた。
『おい! おまえ! 何してんだよ⁉︎』
私の反対側からスーツの男性が走って来たことを機に黒服の人は逃げ出した。
結果的に彼女は救われたが、私の心臓が落ち着きを取り戻すことはなく、私も逃げるようにその場を去った。
多分、今までにないくらいの走りだった。何から逃げているのか分からなかったが、後になってそれは自分──そして他人から逃げているのだと気付いた。
あの時足を引いた私を、私だと認めたくなかった。
他人を気遣うこと。
自分の意思を持つこと。
この二つのどちらかを選ぶこともなく、たしかな矛盾を孕んだままでいた結果生まれた空白の本質は《鏡》と言える。光野勝さんは全てを見透かしていた。
独りが好きになった。それでも周りに人が集まる。
笑顔を作るのが疲れた。それでも周りは笑っている。
何が正しくて、
何が間違っているのか。
どこからが成功で、
どこまでが失敗なのか。
受け入れたい──拒絶したい?
曖昧に曖昧を重ねた。曖昧で曖昧を包み込んだ中途半端の完成形。
私が彼──藍歌姫乃くんに声をかけたのは、普段仲良くしているグループから頼まれたからというのもあるけれど、彼には正体不明の『好奇心』があったからというのもある。
『人がいいね』
そう言われた時、少し悲しい気持ちになった。たしかに私は使い勝手のいい人かもしれない。あの時女子を襲った犯人からしてみれば、私の存在はとても都合が良かったに違いない。それが事実であるから言い返すことができなかった。
同時に嬉しくもあった。頭ごなしに良い人と言われ続けてきた私は、家族以外で初めて目があった気がした。白瀬九織という存在を見られた気がした。
自分から誰と喋ることもない。話していても顔色をあまり変えない。授業以外では読書をしたり、寝ていたり、どこか遠くを見つめて考え事をしているようだったり……そんな彼のどことなくミステリアスな雰囲気が好奇心の元なのだろうか。
……違う。
複雑に考えるのはもうやめだ。そうでないことは宿泊研修のときに分かっている。
「大丈夫だよ。不意だったあの時でも助けられたんだ。安心して沈んでくれ」
彼の声は、私の耳には優しすぎた。本人はそんなつもりはないのだろうけど、私はあやされたように感じる。
私は目を瞑る。
目を開くと、私は底に居た。
正面には私よりも背の低い影が手で顔を覆っている。他の四人の姿はない。
「────」
私は無意識に自分の耳を塞いでいたことに気が付き、自身に嫌気が差した。
手を離すとおそらく男子であろう泣き声が聞こえた。
ずっと泣いていた。
それを見て見ぬ振りをした私はどれだけ罪深いのだろう。
彼に近づき、目線を合わせて言う。
「すまない……中途半端なことをするべきじゃなかった。無視をするくらいなら、初めから他人を気遣うべきじゃなかった。本当に……私は」
どれほどまでに愚かなのか。
もう繰り返してはならない。
「私に君を助けさせてくれないか?」
突然、影が剥がれ始めた。足元からゆっくりと色を取り戻し、ようやく姿が露わになる。
小学校中学年ほどの男の子は、両足が捻れてしまっていた。胸からは肋骨が突き出ている。指も半分は骨折しており、比較的原型を保っていた頭も血で塗られていた。
見ているだけで痛々しい。きっと交通事故にでも巻き込まれたのだろう。
「お見舞いに、行きたい」
泣きながら彼は答えた。
お見舞い──その言葉を聞いて、私は死んだ友人を思い出す。
「うん……話を聞かせてくれるかな」
×藍歌姫乃
白瀬さんは三十秒ほどで目を開けた。
息を乱し、胸を手で押さえる彼女を見て、僕は冷蔵庫から天然水を取り出して彼女に差し出す。
「ありがとう……」
顔から滴る汗を拭って水を飲むと、白瀬さんは深く息を吐き出した。
「どれくらい経った?」
「三十秒くらい。体感は違うの?」
「うん……夢みたいなものかな」
夢では二、三日過ごした感覚があっても、目を覚ますと実際は数時間しか経っていないというのはよくあることだ。なるほど、心に沈むと言うのはそんな感覚なのか。
「それで、どうだった?」
「お陰様でなんとか話し合えたよ。ありがとう」
なんて言うけれど、僕は彼女を見ていただけでしかなく、それ以上のことはなにもない。
「……小学四年生の男の子だった」白瀬さんは神妙な声色で語り出す。「彼の祖母は闘病生活中で、お母さんとお見舞いに行く道中に交通事故に遭ったんだ。お母さんは無事だったけれど、彼は運が悪かった」
「なるほどね。じゃあ、そいつの未練は『お見舞いに行きたかった』ってところか」
白瀬さんは頷いた。
「「しかし」」
と僕たちは声を重ねる。
「うん?」と僕に先を譲る白瀬さんだが、おそらく言おうとしたことは同じだ。僕に気付けて白瀬さんに気付けないことなんてないだろう。
「一年前から闘病生活中だった高齢者が生きてるかってのが問題だな」
「そうだね。もしも生きていたとして……完治して退院していたとして、私がどうやってその人に会えばいいのか」
「そこはいざとなったら力技でいこう」
「穏やかじゃないけど頼もしいな」
白瀬さんは僕を見て綻ぶと、少しして何か思い詰めたような顔に変わった。
「少し質問いいかな?」
「……いいよ」
「余命が僅かな人はお見舞いをされたくないものだったりすると思う?」
難しい質問だ。僕としては死ぬ直前なんてどうでもいい。死ぬことが確定している以上、僕の周りで何が起ころうと、たとえ世界が滅ぶことになろうと無関係になる事柄でしかない。
……けど、じきに死ぬであろう姿を見られたくないと言う人が存在することは知っている。
──央語舞の家を見て、それを知っている。
しかし、常識の裏には常に非常識が付きまとうことも知っている。
最期に顔を見たい、自分の最期を見届けてほしいなどと望む人もいるだろう。
そう、つまりは──
「人によるとしか言えないな。僕はどちらでもないし、自分の最期を見届けろと命令した人も知っている。……そもそも、その子どもがお見舞いの途中に事故にあったってことは、もともとその予定があったってことでしょ? 祖母さんが情けない姿を見られたくないって類の人ならそんな予定は立たなかったんじゃないか?」
「──すまない。これは私自身の問題なんだ」
見え透いた作り笑いで僕は察した。これは彼女の友人の死に関する質問なのだ、と。
どうしてこんなにも気になってしまうのだろう──メリットなんてないはずなのに。
「聞かせてくれ」
僕の声ではあったが、僕が言っているとは思えなかった。
白瀬さんも驚きをあらわにしている。同時に少し哀しそうでもあった。
「三月に友達が病気で亡くなったんだ。彼女は中学校からの関係で、少なくとも私は仲がいいと思っていた。死期が近づくにつれて彼女は面会を拒否するようになったんだ。私は『本当は寂しいんじゃないか』って身勝手な気遣いをした……他人を知った気になっていたんだ。その間違った解釈は彼女のご両親とも一致してしまって、私は彼女の病室に入ることができた。面会拒否からそこに足を運んだのはわたしだけだったらしい。私が彼女のベッドの横に座ろうとすると、彼女が言ったんだ。『来ないでって言ったじゃん』……ってね。泣いていたし、笑ってもいた。私はごめんと謝って病室を出ていく直前、彼女に言われたんだ──『死ね偽善者』と。
突然完治するなんて奇跡が起きるわけもなくて、彼女は死んでしまった。葬式に参列はできなかったよ。していたら本当に呪い殺されていたと思う」
「それが死者への拒絶感か……」
それにしても『死ね偽善者』とはなんとも直球な言い方だ。友達になれたタイプかもしれない。
白瀬さんは無言で僕の顔を見ていた。感想を言えということのようだ。たしかに、僕から聞いたんだから当然だ。
「読心術でも使えない限り人の気持ちなんて分からないんだ。関わらないで孤独に生きるのが吉ってことじゃない。お互いのためにも。人類全員が孤独を好んだら争いなんて起こらないんだ」
「はは……それは穿ち過ぎじゃないか?」
違いない。しかし笑顔が戻ったとなれば、あながち僕の発言も捨てたものではない。
「ところで、どこの病院?」
「鉢木病院らしい」
「まじか」
と、僕は反射的に言った。
「どうしたの?」
「……この前その病院で自殺に遭遇した」
片瀬由奈の死は印象に残っている。彼女のあの澄み切った死に顔が病院名を聞いてすぐに連想できたほどに。
「あぁ……辛いね、それは」
「いや別に。多少驚きはしたけど、辛くも悲しくもなかった。赤の他人に近かったし」
ただ少しだけ話してみたかった。
──それだけのことだ。
「さあ、もう行こう。遅くなって得することは何もない」
僕が立ち上がると、白瀬さんは慌てて立ち上がった。
「今日でいいのかい? 既に藍歌くんの時間を使いすぎているけど……」
「今使うか後から使うかの違いだろ。気にしなくていいよ」
「……そっか」
それから余計な気遣いというものはなく、僕たちは病院へと向かった。
その道中。
「一日の密度が高く感じられるよ。こう言っていいのか分からないけど……すごく──」
白瀬さんは言った。
最後は街の喧騒に掻き消されたのか、それとも彼女自身が言うのをやめたのか、正面を向いていた僕に判断はつかなかったけれど、身勝手な予想はできた。
だからこそ、疑問は募るばかりだ──




