第三話 あるべき姿
白瀬さんがチョイスしたのはなかなかに値段設定高めのお洒落な喫茶店だった。五時半という中途半端な時間ではあるが、店内はそれなりに埋まっている。値段が値段なので、客層も大人が多く、高校生は僕らだけのようだ。
白瀬さんはブラックコーヒーとサンドイッチを、僕は抹茶ラテと白瀬さんと同じサンドイッチを注文した。
「それにしても、藍歌くんとこうして食事をするだなんて」
正面に座る白瀬さんが言って、コーヒーを口にする。本当に画になると思った。ここで浮いているのは僕だけだろう。
「今でも夢のように思えるよ」
「同じだ」
現実感がないというその気持ちは僕の方が強いかもしれない。
なにせ、この人とは見ている景色が──住んでいる世界が違う。同じ空間に居るからこそ分かる。自分は酷く劣っているのだと。
見たところ、この人は複数人で居るよりも一人を好んでいる。それでも尚、周囲に愛想を振り撒き、一定の距離感を保ち続けている。僕にはできそうにない芸当だ。
そういえば、この人は『今日は予定がある』と教室で言ってなかったか? さっきは『ふらついていて』と言っていた。
そうか。白瀬さんも散歩を用事に含まないとは言わせないタイプなのか。だとすると少しだけだが親近感が湧く。
「一年生の頃の君ならまず断っていただろう?」
「一年……か」
抹茶に口をつける。
正直あまり覚えていない。
それはきっと、今以上に他人への関心がなかったからだろう。
過ぎるだけの時間に儚さを微塵も感じず、その流れに些細な変化もない。死んだように生きていたと言える。
そう考えると、たしかに一年前の僕ならこんな状況にはならなかっただろう。
──否。それ以前に、自殺寸前の彼女に声をかけることも、落ちてゆく彼女の手を掴むことも……
「……左手首」
店内のノイズにかき消される程度の声で呟く。白瀬さんがサンドイッチを食べ終えたタイミングで僕は言った。
「左手首、大丈夫?」
「ああ……何ともない──と言えば嘘になるかな。血はすぐに止まったけど、動かすと少しだけ痛い。多分ヒビが入ってる。明日にでも病院にいくよ」
「…………」
「でも、あの橋から落ちていたならこの程度では済まなかった。本当にありがとう」
と、改めて礼を言って頭を下げる。
「別に」と僕もサンドイッチを口に運ぶ。礼を言われたところで腹は膨れない。
礼の言葉への関心のなさを察したのか、白瀬さんは苦笑した。
完食したところで、いよいよ僕は核心に触れる。
「何故飛び降りようとしていたんだ?」
「…………」
途端に白瀬さんは表情を硬くした。ピンクの唇も強く結んだまま目を伏せる。
そしてすぐに目を合わせたと思うと、
「笑わないで聞いてくれるかな?」
らしくもなく保険を掛ける。
……だから『らしさ』ってなんだよ。
とりあえず「笑わないよ」と僕は言う。
「……すまない。訊くまでもなかった。君はそう言う人だと知っておきながら……」
言いつつも、やはり、白瀬さんはその瞳に不安を宿したままのように見える。
「私の中に幽霊が居るんだ」
「…………幽霊──」
その言葉で連想されるのは桜内桃春だ。正確にはあいつに人格として共存している《彼女》と言うべきか。
生者と死者の共存の研究──その結果である彼女たち。
他にも僕は死者と話したことがある。白鏡……みすず? 鈴美だったか。そんな感じの名前をした、悪どい性格をした彼の娘。
再び抹茶を飲む。残りが少なくなり、苦味が強く感じた。
吐息を漏らして勝手に納得する。
一人の空間を作っていたことに気づき、落としていた目線を上げる。
白瀬さんは沈んだ顔で僕の反応を待っていた。スカートの上で手を組んだままそわそわしている。冷静でクールな印象だったから、似合わない仕草だと思った。
「なるほどね。そいつは厄介だな」
とりあえず頷いて同情した風を装う。
勿論僕には幽霊なんて住み着いていないし、そんなことができるわけもなかった。
しかし……
「……うん。本当に、厄介さ」
白瀬さんは安堵の息をこぼすと共に、いくらか表情が和らいだ。
少しばかり潤んだ漆黒が、店内の照明もあってとても綺麗に見える。
「誰にも相談しなかったのか?」
「できないよ……相談なんて」
「…………」
周りに幽霊に詳しい人がいないから──そんな単純な理由には思えない言い方な気がした。
「きっと、幽霊の話をしたところで信じてくれないさ」
「ふうん。僕は君の話なら信じる人は多いと思うけど。見たところ、白瀬さんは色んな人に好かれているし」
「好かれているのか。だとしたらわたしは恵まれているな」
嫌味ではないようだが、それならあまりにも鈍感がすぎる。
「でも、やっぱり信じてもらえないと思う」
と、悲しそうに笑う。
「……それで、その幽霊はいつ頃から?」
話を本筋へと戻す。
「今年の四月だ。深夜に何か奇妙な夢を見て起きたんだ。それが何だかは覚えていないけど、夢なんてそんなものだろう? 直後に胸が苦しくなって……。それが治まる頃には既に幽霊は私の中に居た。頭の中でイメージできるんだよ。真っ黒な水槽の中に沈んでいく感覚が。その底でさらに黒い影が居るんだ。それが週間隔で五回続いた」
「五回……? ってことは、白瀬さんの中には……」
「うん。五人居る」
「…………」
さすがに絶句した。
「幽霊たちの感情が不意に私に流れ込んで来るんだ。殺意、敵意、悪意、自殺意思とか、他にも色々」
「じゃあ、昨日のはその感情に引っ張られたってこと?」
白瀬さんは頷く。
なるほど……だからこそあの不一致さだったのか。
それにしても、聞いた限りでは想像以上に厄介な幽霊だ。
「よく死ななかったな」
素直に感心した。
五人それぞれの良くない感情を抱えて無事でいられるのは簡単ではないだろうに。
「気丈だからね」
「気丈で済むのか……」
それだけで幽霊を丸く収めることができるのなら拍子抜けもいいところだ。
「ところで、藍歌くん。君はどうして信じてくれるのかな?」
少し鋭く、窺うような眼差しに僕は間を開けることなく答える。
「樹に住み着いた幽霊とちょっと喧嘩したことがあってね。……いや、あれは喧嘩ですらないな。僕が一方的に殴られただけか」
「け──喧嘩……? 藍歌くんが?」
幽霊を五人宿している彼女にとって、樹に住む幽霊よりも喧嘩をする僕の方が珍しいものらしい。
「僕だって喧嘩くらいするさ」
喧嘩というか、最近は殺し合いが多いけど。
ふと気になった。僕が過去に人を殺していると知れば、この人はどんな反応をするのだろうと。他人からの評価なんてどうでもいいはずなのだが──。
「君は少し変わったな」
「どうだかね」
「いいや、変わったよ」
曖昧に答える僕に対して白瀬さんは断言した。
白瀬九織──この人は一体……。
「……脱線したか」
はは……と何かを誤魔化すような軽い笑みを浮かべる。
「それにしても」体を伸ばし、息を吐くと同時に脱力する。「誰かに信じてもらえるだけでここまで楽になれるとは思わなかったよ。本当にありがとう」
「別に。感謝される覚えはない」
「そういう謙虚なところは変わっていないようだな」
意味のわからないことを嬉しそうに言うと、白瀬さんは立ち上がった。
「そろそろ出ようか」
×
店を出るなり彼女は振り返って「これからどうするんだい?」と訊いてきた。
「カバンを見てから帰るかな」
左肩に偏った負担のかかり方がしているカバンを揺らす。さすがに破損したまま使い続けなければならないほどに金銭面で余裕がないわけではない。
「奢らせてもらえないかな」
「は? カバンを?」
「これもお礼ということで」
「うーん……」
素直に受け入れることができなかった。
カバンとなると、僕の金銭感覚が狂っていなければ、高校生にとっては決して軽くない金額……な筈だ。それを同じ学年同じクラスの人に払わせるとなると、なんとも言えない気持ちが生まれてしまう。
白瀬さんの家計事情がどうあったところで、そもそも身につけるものは自分で買いたいというのが本音だ。
「礼を持ち出したらキリがないよ。さっきの喫茶店で十分とまでは言わないけど、何でも奢ろうとするのはやめてくれ」
「……、……そうだな」白瀬さんは腕を組んで言う。「少し卑しい行為だったかな。お金で済ませようだなんて」
「そこまでは言ってないけどね」
しかしまあ、話が早くて助かる。こういう学力だけでなく賢い人は本当に良いな。人として出来ている。
「じゃあ、私にできることがあれば言ってほしい。きっと力になるよ」
「……縁があればね」
便利な言葉だ。物事をなあなあで済ませることができるのだから。
「君らしい言い方だ」
白瀬さんは静かに笑う。
やはり、校内の笑顔とは違う。勘違いではなさそうだ。
「近くにスポーツショップがあるから、一緒にどうかな? 私もラケットを見たくて」
「まあいいよ」
一緒に行く理由は見つからないが、断る理由も特に見つからない。
というわけで、僕たちは並んでスポーツショップを目指す。
正確には、僕は道を知らないので白瀬さんの半歩後ろを歩いていたのだが、彼女はそんな僕に合わせて歩いている。
こういうところが周囲に人を集めるんだろうな、と思った。
「ヒビが入ってそうなんだっけ」
ふと思い出して訊く。
僕から話しかけてきたのが意外だったのか、白瀬さんはワンクッション置いてから反応する。
「うん。それがどうしたんだい?」
「テニス部だろ? どうするのかと思って」
「私はバックハンドも片手だから、ほとんど問題ないさ」
「ふぅん……」
硬式の片手バックは腕がもげそうなイメージがあるな。
「…………」
少しばかり無言になり、あまり身長差のない彼女を横目で見る。
成績優秀、運動神経抜群、人柄も良い──『非の打ち所がない人間』とあいつらは言っていたか。
それはなるほど、たしかにまともに話したことがない人ならばしそうな評価ではある。
「どうして知っているのかな」
籠った声。当然白瀬さんから発せられたのだが、先程までとは随分とトーンが違って聞こえた。
どうして知っているのか──というのは、白瀬さんがテニス部に所属していることを指しているのだろう。
「知り合いに聞いたんだ」
「知り合いと言うと……井宮くんかな? それとも桜内さん?」
と、見事に言い当てる。
あいつらもあいつらで目立つし、偶然三人で居る時に僕も視界に入ったんだろうな。
「そう。その二人」
正面の赤信号を見ながら答える。
再び無言になり、会話が途切れたと思ったところに彼女は返してきた。
「知り合いか。はは……冷めた言い方をするね。彼らは友達だろう」
僕は何も答えなかった。
別に回答に悩んでいたのではなく、どうして白瀬さんは嬉しそうなのだろうという疑問があったからだ。
×
白瀬さんが店内をウロウロしている間、僕はカバンの並ぶエリアを吟味して唸る。
うーん……どれも絶妙に高え。ロゴが邪魔くせえ。柄がだせえ。どうしてどれもこれも余計なモノを付け足さないと気が済まないんだろう。
店を変えるというのも選択肢の一つではあるが面倒だよな。
どれにしようかと五分ほど悩んだところに、やがて白瀬さんがやって来る。
「だいぶ悩んでいるようだな。どういったモノを探しているんだ?」
「簡素にして単純なヤツ。案外無いもんだ」
「シンプルか……こんな感じのを探していたりする?」
と、白瀬さんは自身が斜めにかけているショルダーバッグを叩く。真っ白なそれを改めてよく見て「それだ」と不意に言葉が出た。
「こっちに同じのがあるよ」
僕は白瀬さんの背中を追う。
たしかに白瀬さんと同じ斜めがけのスポーティなショルダーバッグがそこにはあった。無駄にチャックもなく、柄もない、シンプルを追求しただけのそれを見て納得する。
カラーは白と黒があったので、僕は黒を選んだ。
「私は被っていても全然気にしないが……」
「被ってない方がもっと気にしなくていいでしょ」
「それもそうか」
鞄の購入を済ませたところで、白瀬さんが「それじゃあ帰ろうか」と言った。どうやらあの五分のうちにラケットは見終えたようだった。さすがに賢い時間の使い方をしている。
「藍歌くんはどの辺りに住んでいるの?」
「寒月の方」
「あぁ、あそこか。私の家から遠くはない場所だ。でも、駅は線が違うから……」
ここまでだな、と白瀬さんは止まる。
振り返ると、彼女は遠い目をして僕を見ていた。
少しもどかしい気持ちになる。
そんな目をするならば、口にしてしまえばいいものを──
「今日の事は誰にも言わないでほしい」
「…………」
そうきたか。
「言わないよ。言う相手もいないし」
そう言うと、白瀬さんは僕の答えに満足したようで、微笑んで頷き返した。
「また明日」
白瀬さんは手を振って、僕の返事を待たずに方向転換して歩いていく。
僕は上げかけていた手を下ろし、彼女の背中を見続ける。
死者を五人運んだままの白瀬さんのその後ろ姿は、陰鬱なようでもあり、ひそかに喜びを感じているようでもあった。
×
『最近様子が変らしいんですよ』
薔薇は言った。
『全部風荻が言ってたんですけどね。最近よく頭を痛そうにしたり、ぼーっとすることが多いそうです』
『それだけ聞くと何の問題もなさそうだな。ただの人間じゃないか』
『それがですね、その体調不良みたいな状態が四月下旬あたりからずっと続いているそうなんですよ。周囲の人に心配されても笑顔で誤魔化して何も言わないらしくて。それでも毎日欠席することなく保健室に行くこともなくってのが続いてるようですからねー。私もテニス部の人たちに話を聞いたんですけど、たしかに何かしらの違和感は感じているようでした。少なくとも体調不良ならそうだって言うだろうし……』
今日ではっきりした。
彼女──白瀬九織が抱えているのは幽霊の問題であり、周囲の人間は彼女が何かしらを抱えていることには気がついてきている。しかし、それが幽霊だと知ることは彼女の口から聞く以外にない。
でも、白瀬九織は誰にも話さない。
周囲から愛されている人間が周囲を愛しているとは限らない──だから彼女は誰にも話さない。
「冷めているのは君じゃないのかい……」
誰かに信じてもらえただけで楽になった? そんなわけがない。僕にだって分かる。虚勢だ。それ以外のなんでもない。
何故その次──『助けてほしい』の一言が出ないのか。僕に口止めまでして、一体これからどうしたいのか。
……その思いに気づいても僕は動かないのだから意地が悪い。
「決めつけすぎか……? そうだよな……あの人が言った訳じゃない」
集中力が切れたのを期に地理の教科書を閉じる。
ソファに横になって目を瞑り、完全に寝るモードに入って尚、白瀬九織の事が頭から離れない。
昨日に落ちようとしていた理由を知れた時点で好奇心は消えてなくなったと思っていたのだが、これはそう単純ではないようだ。
何故こんなにも彼女のことを意識してしまうのか。その理由を考えようとしたところで、僕の意識は闇の中へと落ちる。




