第一話 疑念
学生の本分とは一体なんだろう。
学問──というのが基本的な、模範的な答えになる。
では何故学問が──学力が、或いは学歴が必要なのか。どうして生きる上でそれらを嫌う癖して必要としているのか。
働くため。
金を稼ぐため。
極論、生きるため。
改めて考えると、学生の時から死ぬまでのための道筋を決められているような気がしてならない。
こんな文句を並べつつ、今もこうしてソファの上で教科書を見る僕はなんとも愚かしい。
無論、学問だけが全てではないのだろう。しかし、何かを全てではないと言うことのできる人間は、その何かを持ち合わせている人間だ。だから結局必要なんだろうという話になってしまう。
……なら、持ち合わせていない人間が言うのならば?
──負け犬の遠吠え。
詰んでるなぁ、人間。僕には向いてないのかも。
「……なにを鬱屈としている、僕」
六月三十日火曜日午後五時半。テスト勉強をしつつも、学問やら人生やらに不満をたれる僕はある意味では器用といえる。
……意味ねえんだよ、そんな器用さなんて。
いよいよ地理の教科書を投げた。
気分転換に散歩でもしようかと考えていたところ、机の上の携帯が振動を始める。画面を見て、思わず息を吐いた。
少し迷ってから応答する。
「迷いましたね⁉︎」
──薔薇叶未は第一声から見事に言い当てた。
「正解」
「素直ですね……」
落胆の声の裏では女子の笑い声が聞こえた。どうせ榊や灯と一緒に居るのだろう。
「先輩、今空いてますか?」
「いいや、空いてない」
「嘘ですね」
「不正解」
散歩を用事に含まないなんて言わせない。
……最近になって、薔薇から無駄な連絡が来ることが多くなった。学校内で絡まれることもある。
というのも、一週間前に彼女の抱える悩みを解決したからだ。
誰彼構わず人を好きになる性格をしているわけではない。その割には心を開きすぎているような気もするのだが。
しかし、一点──薔薇は母親の話をしない。あの問題については解決の有無を口にしないのだ。
……つまり、そういうことなのだろう。
「──先輩? 先輩! 話聞いてます?」
意識をスマホに戻す。
「もちろん聞いてるさ。それで、なんだって?」
「聞いてないじゃん……。だから、先輩にお願い事がある友達がいるんですよ」
久しぶりの神妙さが声に出ている。
「……『お願い事』……?」
魔術絡みと認識する他ない。
最近の薔薇は人脈が嘘のように広がったと聞く。増えた人間関係からまたも魔術関係の問題に遭遇するとは……。
見て見ぬ振りをする──そんなこと、薔薇にはできないんだろうな。こいつはそう言う人間だ。
「……どうして僕なんだ?」
東条さんにでも井宮にでも桜内にだって頼めるはずだ。
「先輩に頼りたいって私が思ったからです」
堂々と自分勝手なことを言う。
そんな態度も他人を放っておくことができないという正義の心からくるものならば、桜内みたいな生き方の方がまだ好感が持てるってもんだ。
決して好きではない。それがイコールで嫌いに結びつくわけではないのだが。
僕は「明日にでも話は聞く」と言った。
そうさ、聞くくらいなら僕にだってできる。そして内容によっては投げ出したりもできる。
そんな僕の思いなどまるで予想もしていないようで、
「ありがとうございます! さすが先輩は人間が違いますね!」
と言った。
わかってないなぁ。
通話を切る。
立ち上がって冷蔵庫の中を見る。天然水にミルクティーに栄養ドリンク。食事というには少し足りないか。
コンビニへ行こうと家を出る。
外は変わらず暑い。けど、肌を撫でる風が絶妙に気持ちいいものだから癖になる。
歩くだけで生きている実感というのが膨れ上がる──そんな気がする。
生を感じるはずなのに、全てがどうでも良くなるような矛盾を抱えたまま、どうやら僕は三十分以上歩いたようだ。
すっかりと紅く染まった空を見て「馬鹿な奴」と呟く。
最寄りのコンビニで適当に買い物をしてから来た道を引き返す。
河川敷近くということあって、景色はなかなかのものだ。
どんなに背が高くて輝かしい建物も、この開けた場所だと流れる川の風景の一部でしかない。
景色の中心を眺めていると、なんだか世界を俯瞰しているような感覚になる。
体──というか、心が、軽いような。
僕の変化の副産物のようにも思えるし、元々こんな感受性だったようにも思う。答えがわからないのは、多分どうでもいいからで──
「──ん?」
幅三十メートル、高さは五メートルを超えるであろう橋に踏み行ったところで僕は気づく。
正面──橋の中央の欄干に立つ少女が居ることに。
自殺か。まあ、この高さであの浅い川に飛び込んだとなったらタダじゃ済まないだろうけど……うーん。ギリギリ死ねないような気もする。
都心部付近ということもあって交通量は少なくないのだが、歩行者は反対側に疎に居るだけで誰かが止める様子もなかった。
どころか、数人はスマホを彼女に向けている。
すごい時代だ。他人の死に無関心でなく興味を示し、それを貴重だと永久に保存し、その上世にばら撒くことを考えている。人殺しの僕がいうのもなんだが、ああいう人間にはなりたくないもんだ。
変わらぬ歩調で進む。
「マジか……」
小さくこぼす。
彼女が大丘高校の制服を着ているとわかってから、少しだけ歩くのが遅くなった。
身長は女子にしては高めだ。百七十近くだろうか。ミディアムボブの黒髪。スラリと長い足はきっと数多の女子が羨むことだろう。横顔は儚さと、そして凛々しさに溢れていた。
素直に美の塊だと思った。
──その認識が二回目だということにも遅れて気づく。僕は、この人を知っている……?
その時にはすでに彼女の側まで来ていた。
進めるべき足を止めている。
僕の存在に気づき、彼女は自身の価値を下げることのない哀しげな表情をする。
そんな顔をするなら死ななければいいのに。
「……こんにちは」
こんな状況で目が合ってしまった以上、無言で過ぎるわけにもいかない。……だからって「こんにちは」はどうなんだろう。
どこか虚な瞳のまま、彼女は僕を見続ける。
そして、どういうわけか
「──!」
現状に衝撃を受けた顔をした。夢から覚めたと思ったら夢が続いていたみたいな。
そして足を踏み外す。
ここで動かないのが一番だと思った。
たしかに自殺志願者にしては不自然な点が目立つが、だからと言ってここでこの人を助けたところで、また何かしらの問題に巻き込まれるだけのような気がする。
世界に無関心であることは、これからの安穏を約束する。
──しかし、だ。
ここで引き下がったとしたら、心の底で望む『変化』の為にしてきたことが無駄になるのではないか……?
悩みに悩み、悩んだまま。
……だったはずなのに、僕は袋を捨てて駆け出し、彼女に手を伸ばしていた。
焦燥感はまるでなかった。ただの脊椎反射の如くの行動。
彼女の手首を間一髪掴む──が、落下する人間を掴んでそのまま引き上げられるわけもなく、僕は胸の辺りを欄干に思い切りぶつけた。
「いっ……!」
肋骨が悲鳴を上げている。一ヶ月の安静が早速守れなかった。……こういう時こそ身体強化じゃないのか、僕。
彼女の左手首に爪を食い込ませるほどに僕は力を入れているが、彼女は冷や汗を垂らし唖然とした顔をして、僕の手首をなんとも中途半端な力で掴んでいる。
「なんだこの人……」というのが正直な感想。
概念操作……淡い赤を右腕の内側にし──思い切り引き上げる。
弧を描くように回る彼女。
地面に叩きつけるような形になってしまったが、ここから飛んだ場合に比べたらなんてことはないだろう。
欄干を背中に尻餅をつく。歩道に居た人たちは自殺の光景がカメラに収めることができずに残念だったようで、つまらなそうに、まるで何も見なかったように去って行く。
……肋骨があまりにも痛すぎる。この痛みに見合うだけの結果がこれから現れるのだろうか。
と、僕と同じように座る彼女に目を向ける。
息を切らし汗を拭っているが、幾らかは落ち着いたように見える。切り替えが早いな。
「藍歌くん……」
やはりどこか聞き覚えのある、その凛々しさを裏切らない声だった。
いや、それよりも、彼女はどうして僕のことを……。
「あ──」
思い出した。
思い残す意味がないから、忘れていた。
『あんたはクラスメイト全員の顔を覚えているのかい?』
『……二、三人なら覚えてる』
『つまりそういうこと。私も二、三人しか知らない』
いつだったか、早見さんとこんなやりとりをしたな。
そうだ──この人は僕が知る二、三人の一人。
白瀬九織だ。
「本当に……すまない」
僕と目を合わせているはずなのに、彼女はもっと遠くを見ているようだった。
×
『本が好きなのかい?』
一年の文化祭の時だった。
僕はクラスの店番をしていた。六組で教室が端っこにあることと、体育館でのステージ発表もあり、客は全く来なかった。
だから、何度も読んだ小説で時間を潰していた。
隣に座る彼女──白瀬九織もそうだった。
『勉強よりはね。それがなに』
僕は横目で答えた。
白瀬さんはわざわざ本を閉じてから僕に話しかけていた。
『……、あ──すまない。今時珍しいと思って。退屈潰しにスマホじゃなくて紙の本を読むだなんて」
文字に目を戻して僕は適当に答えた。
『君もじゃないか』
『ああ……私は紙じゃないとなんだか読んでいる気がしなくてな。ただの機械音痴ということもあるかもしれないが……』
はは、と小さく笑う声が聞こえた。もちろん僕は笑わなかった。
あまり自分から話しかけるような人間ではなかったはずだが──
「…………」
この回想は夢の中のものだったらしい。
目が覚めたと同時に、四時間目終了のチャイムが鳴った。
騒がしくなった教室の中を見る。
僕と反対の、一番窓際の席かつ一番後ろ。そこには左手首に包帯を巻いた白瀬九織が座っている。授業道具を仕舞い終わった途端、数名の女子が彼女の周りに来て談笑。そのまま昼飯を共にするのかと思いきや、会話を切り上げ教室を出ようとする。その途中で男子に捕まり、ほんの少し会話をしてからようやく出て行った。
誰かといる時のあの顔……何度か見たことがあるな。白瀬九織のそれとは限らないが。
しかし、これで終わりとなるとどうにも蟠りというものが残ってしまう。
推理小説で舞台と登場人物に浅い解説を入れられ、物語の導入以降が白紙にされている感じ。
好奇心に突き動かされて井宮にメッセージを送った。
《白瀬九織って知ってる?》
購買に何か買いに行こうといつも通りの行動に出る。
教室を出て廊下を少し歩くと、井宮と桜内が待ち構えていた。
井宮はにこやかに、僕のメッセージを表示している画面を見せる。
文字で済ませりゃいいのに。
情報をもらう立場として、そんな不満を口に出すようなことはしなかった。
×
食堂で昼食と雑談を交えながら、ようやく本題に入ることができた。
「──それで、白瀬さんだっけ」
と、正面の井宮。
「そう。白瀬九織。彼女はどんな人なんだ?」
「どんな人……うーん。名前は知ってるけど、関わりはないからなぁ。クールって印象は強いけど」
僕の漠然とした質問に悩む隙に、井宮の隣に座る桜内が、
「そいつ、テニス部の一番手」
「テニス部? 桜内って部活に入ってたのか?」
「いや、あそこ部員少なくってさ。時々練習に参加してやってんの」
こいつが言うとなんでもないことのように聞こえるけれど、未経験のスポーツで助っ人として呼ばれるなんて滅多にないように思う。
ほんと、桜内……だけでなく井宮も、何か苦手なことというのはないのだろうか。
ないんだろうなぁ。
「何回か話したことあるけど、なんというか……『冷めてる』って感じ」
「冷めてる……」
「勿論あたしの偏見だけどさ、ありゃあ孤独を好んでるってイメージだ。でも、基本受動的人間の白瀬だが、周りには人が集まる。男子も女子も。華やかで、スタイルが良くて、それに加えてある程度の優しさがあれば、そりゃ人は寄ってくるわよね。一部では『好き避け』みたいなことされてるらしいけど」
たしかにあの容姿は両性にモテそうだ。
「孤独を好んでるってのは、どうしてそう思うんだ?」
井宮が僕よりも先に訊く。
「誰かと話してる時、なんだか違うところを見ているような気がするのよ。笑っている時も、なんだか疲れているような……心からの笑顔じゃないような……んー、表現ムズイ」
「なんとなく分かるよ」
と、僕は本音を口にした。
実際、今日の彼女を見ていると、今の桜内と同じような感想が出てくる。
別に他人が嫌いということではないだろう。それなら他人に愛想良くすることもないし、そもそも部活にだって入らない。
しかしながら、どこかに見えない壁を隔てて生きている。
器用だ。
とても器用な生き方をしている。
となると──文化祭での接触はどうにも謎だ。
「少し気になるんだけどさ」
井宮が言う。
「お前って、なんで彼女の漢字を知っているんだ?」
……漢字?
意図のわからない質問に首を傾けると、井宮が再び僕のメッセージを表示して見せた。
「《白瀬九織》。これで合ってるんだよ。彼女、テストで学年上位にいるから名前が目に入るんだ。藍歌もわざわざ廊下に貼られる成績上位者の名前を見るのか?」
「いいや、見るわけがないだろ」
「だよな」井宮は軽く笑う。「だとしたら、いつ彼女の漢字を知ったんだ? 藍歌も彼女とは少ししか話したことがないんだろ? そんな相手の漢字まで覚えるだなんて、藍歌らしくない。まあ『白瀬』は基本これに変換されるとは思うけど」
たしかに僕らしくない。
文化祭の時の会話だけでわざわざ漢字を知るにまで至るものか……?
「まあ、そんな難しく考えなくていいじゃん」
桜内が沈黙を破る。
「白瀬九織──珍しくてカッコいい名前じゃん。不意に目に入って記憶した、程度の問題じゃない?」
「……それもそうだな」
と、口では納得の発言をするものの、やはり気になるところではある。
他にも接点があったか?
「もう一ついいか? これはそもそも……根本的な話なんだけど」
井宮が僕の思考を妨げる。
「なんで白瀬さんのことを調べてるんだ?」
「……なんでって……」
「恋でもしたのか?」
「まさか」
否定して外に視線を移す。
そうだ。否定することは簡単でも、事実をこの場で言いふらすことは難しい。
白瀬さんに『昨日自殺しようとしていたことを第三者に言ってもいい?』と訊いていい返事がもらえるとは到底思えない。それ以外にも行動と表情の不一致があるが、それにしたってベラベラと話していいものなのかどうか。
それらを抜きにしたって、またこの二人に何かしらの問題を押し付けることはあまり気分が良くない。
案外僕はいい奴なのかもしれないな。
「まあ……そのうち話す」
色々と誤魔化すような言い方になったが、僕は正面きって言ったので、二人はそれ以上突っ込むことなく笑顔でいてくれた。
そんな二人を見て、僕はレベルの低い『いい奴』なのだと思い知らされた。
それから教室に戻る途中。
「あ! ようやく見つけた!」
眼鏡っ娘、薔薇叶未に見つかり、食堂へとUターンする羽目になったのだった。




