閑話
「あの過去視、超元気になったよね」
桃春の何気ない言葉に、奏斗はふと箸を止めて顔を上げた。
六月二十七日土曜日──二人は学校の食堂に居た。桃春も奏斗も部活の助っ人として呼ばれて登校したという奇遇があっての時間である。
二人の人脈はとても広く、こうして部員が不足していたりする部活には呼ばれることが少なくない。
──広いと一括りにしたとは言え、奏斗の人脈は桃春には劣る。
桃春は男女問わずして交流が多いが、奏斗は僅かに女子との交流が少ない。それだけで入ってくる情報量というものには差が生まれる。
故に、奏斗は過去視──薔薇叶未の現状というものを知らない。
彼が魔眼封じを与えたことは知っているが、その結果までを知ることはなかったのだ。
「そうか、元気になったのか。それは良い事だな」
「入学当初から授業中以外に声を聞いた人は少ないってレベルだったらしいわ。でも、最近眼鏡をかけ始めてから性格が一転、明るく元気で周りを笑顔にするとさ。『眼鏡を掛けて人格が変わった』って揶揄う奴もいるらしいのよ」
桃春はおかしそうに笑った。
入学から今の今まで喋ってこなかったのに、それでも親しまれるほどの人間性にはたしかに笑いも溢れる。
奏斗もよかった、と心から安堵する。
「あいつに言わせりゃ『元に戻っただけだ』らしい。むしろ変わってたのは最近までの方だってさ」
あいつというのが眼鏡を与えた張本人である藍歌姫乃なのはすぐにわかった。
「おまえって全然藍歌のことを名前で呼ばないよな」
「名前ぇ?」
片眉上げる桃春。
特に深い意味合いを持たない疑問だったものだから、奏斗はそれ以上続けることなく、牛丼を完食することに専念した。
「んー? 呼んでる……つもりだけどなあ?」
「それならいいんだ。二人が仲良くやってるのなら、なんの問題もない」
桃春が長考している間に奏斗は食事を済ませた。
「今更感満載の心配じゃん。大丈夫よ。あたしはあいつとはとっくに友達。奏斗だって側で見ていたら分かるっしょ? ……まあ、あいつが友達と思ってくれてるからどうかは……んー……」
思考の仕草が似合わないなと奏斗はまじまじと桃春を見つめる。
しかしながら、ここまで曖昧な態度を見せる桃春は珍しい。そして藍歌姫乃の性格もさすがだ。
感心して一人頷いていると、桃春が「とりま!」と手を叩いて奏斗の意識を引き戻した。
「九十八パーはあたしのこと好きでしょ。ライクってるでしょ」
「藍歌ですら敵わないか……さすがの自信だな……」
奏斗は肩をすくめる。
「で、残りの二パーセントは?」
「そりゃあラブ」
「……冗談だろ?」
苦笑を浮かべる。藍歌が桃春に恋愛感情があるとはとても思えない。《桜内桃春》という対象を抜いたところで、そもそも恋愛感情があるかどうか……。
「あいつにだって恋愛感情はあるわよ」
桃春は奏斗の疑問に答えるように言った。
「なにせ、過去視に初めて遭遇した時、あの娘のおっぱいガン見してたらしいからな! そんであいつの言い訳は『そんだけエロい体してる方が悪い』だと!」
「冗談だろ……さすがに叶未ちゃんの意訳が入って……」
いや、意訳すら入っていなさそうだ。完全なる捏造。
奏斗は大笑いする桃春に「あまり有る事無い事言いふらすなよ」と微苦笑を浮かべつつ釘を刺す。
誰にしたって、知らない誰かが自分の噂をしているということを知れば気持ちが悪いはずだ。藍歌の場合は特にそうだろう──。
「気にしなさんな。あたしはそんなことしないっての。奏斗だってわかってるでしょ? あー、でも……」
「……?」
「いや、なんでもないわ」
露骨に何かを隠している様子だ。しかし桃春から目線を外された以上、問い詰めたところで無駄だ。
──十三時が過ぎて昼休憩は終わり。桃春はテニス部へ、奏斗はバレーボール部へと戻る。
×
部内でちょうど練習試合が組める人数のバレーボール部。しかしメンバーの一人が怪我をしたことにより試合形式が出来なくなり──そこで頼られたのが奏斗だった。
「いやあ、ほんと悪りぃな、井宮。もうすぐテストだってのに」
同学年の佐藤弘太郎が部室で言った。
坊主頭に大きい体格なものだから、見た目だけで言えば野球部の男だ。常に陽気、周りに左右されない、それでいて何事にも熱意を向けることのできる、ある意味珍しいタイプの人間である。
「そっか。そういえばもうすぐテストか。だからみんな慌てて帰ったんだな」
がらんとした部室には奏斗と弘太郎しかいない。部活が終わるなり、二人以外の全員が鬼のような形相で帰宅した。それは思えばテストが近いからだ。
部活動のテスト休みは一週間前からだ。テストは七月六日からだから、なるほど、たしかにいまは微妙な日だ。
「学年一位は余裕が違うなぁ? テスト期間を把握していないだなんて」
「そんなことないさ。いつもなら期間は覚えてる。ただ──最近は色々あったんだ」
自然と遠い目をする。目の前で死んだ彼女を連想してしまえば、そう簡単に頭から離れることはない。
奏斗は首を振って会話を続ける。
「弘太郎だってたしか頭良かっただろ?」
「頭良さが成績に直結するかどうかは分からんぞ。俺は受験で使わない教科捨ててっから、毎回赤点がある。はっはっは」
豪快に笑う弘太郎。
将来のことを考えればたしかに正しい選択だ。選ぶことのできない自分より、よっぽど賢い生き方をしている。
「ところで井宮は進路どうした? おまえってなんか夢あんの?」
「とりあえず国立目指してるけど……最終的にどうなるかはわからないな。夢なんてないし、そのまま就職か、専門学校か……なんでもある気がする」
「はーん。おまえって『選ぶ』ってことが苦手だよなぁ」
確信をついた言い方に奏斗は笑うしかなかった。
二人は制服に着替えて下校する。
「そういや、おまえって藍歌と仲良かったりすんの?」
「俺は良いと思ってるけど……」
どうして弘太郎の口からその名前が──と問う前に自己解決した。そういえば、弘太郎も藍歌も四組だ。
「藍歌がどうかしたのか?」
「いやさ、一年から聞いた話なんだけど。『二年四組の姫先輩が悩みを解決してくれる』って噂があってよ。俺んクラスで《姫》ってつくやつなんて藍歌しか居ねえから、きっとあいつのことなんだろうって思ってんだが」
「そんな噂が⁉︎」
奏斗は驚きつつもその内容には笑うしかなかった。
何をどう間違えれば藍歌が人助け大好きな聖人に思えるような噂が流れ始めると言うのか。
「というか『姫先輩』って……完全に性別間違われてるだろ」
「ああ、『そいつ男だぞ』って言ったらめっちゃ驚いてた」
誰もが通る道だろうな、と奏斗は頷く。
「よく名前を覚えていたな。おまえって藍歌と話したことあるのか?」
「いいや、ねえよ。あいつがおまえや桜内と話しているところは見たけど、その他と話しているところも見たことねえ。授業中で当てられた時は声聞くけど、ほんとにそんくらいだな。でも、四月にクラスが変わって自己紹介の時間があるだろ? その時に『藍歌姫乃』って聞いちまったら、そりゃあ印象に残るさ」
名前と性別の不一致。偏見と言われればそれまでだが、事実、それを聞いて最初に連想されるのは女性だろう。仕方のないことだ。
「それに、藍歌って浅沼ちゃんのお気に入りっぽいし。だから案外印象に残るっつーか。自然と名前覚えるんだ」
「浅沼先生のお気に入り? どういうことだ?」
「ちょくちょく呼び出されてんだよ。ありゃあ脈ありだな」
「……ただ説教喰らってるだけだぞ、それ」
なんというか、情けない覚えられ方をしている。
「それにしても、一体誰がそんな噂を?」
「俺が知るかよ。藍歌と仲の良いお前こそ知らないのか?」
言われて奏斗は思考を巡らせる。
藍歌の人間関係の全てを把握しているわけではないから、共通の知人から考えてみるか。
桃春か? ……いや、あいつはそんな度が過ぎた嘘は言いふらさないだろう。
東条さん? ……あの人が藍歌の嫌がることをするとは思えないな。
──まてよ。そもそも一年生から流れてきた噂というのなら……。
「……叶未ちゃんかぁ……」
奏斗は呆れ笑いをこぼして納得した。
藍歌に世話になった彼女。桃春曰く、叶未ちゃんは周りに愛される人に戻ったという。そこから噂が広まることは容易に考えられる。
悪気はないんだろうな。良い噂を流しているのはたしかだ。
しかしなるほど、桃春が隠していたのはこのことか。
「どした?」
「いや──微笑ましいと思ってさ」
奏斗は今後藍歌姫乃がどんな反応をするのか簡単に想像でき、申し訳ないとは思いつつ笑んだ。
× 六月二十九日月曜日
「先輩方はどうやって藍歌先輩と仲良くなったんですか!?」
薔薇叶未の不貞腐れたような表情を見て、奏斗と桃春は唖然とした。
十分休みに廊下で雑談に洒落込んでいた二人の元に、叶未は突然やってきた。
いや──ただの移動教室か。と奏斗は叶未が音楽の教科書を持っているのを見て思った。
「テスト一週間前なのにわざわざ音楽やるんだ。大変だね、叶未ちゃん」
「はい大変です! どうやって仲良くなったんですか?」
随分と食い気味にくるな。
奏斗は窓際まで後退する。
「いきなりどうしたのよ、過去視」
「桜内先輩! その呼び方やめてくださいって! クラスのみんなに浸透しちゃったらどうするんですか」
もっともな怒りをスルーして桃春は訊く。
「あいつ、なんかやらかしたの?」
「いえいえ、そんなことはないんですけど。ただ……あの人、すっごい冷たいんですよ!」
眉を寄せて胸の前で拳を握る。
怒りの大きさの割に普通のことだな、と奏斗は口にこそ出さないものの、顔にはその微笑ましさというものが表れていた。
「学校でどれだけ話しかけてもですね……あ!」
と、叶未は桃春の奥を見て声を上げる。
奏斗と桃春も彼女が見た先に視線を向ける。
教室から出てきた藍歌姫乃が歩いてきていた。どこを見つめるわけでもない虚な瞳のまま、彼はポケットに手を入れどこかへと向かう。
「藍歌センパーイ!」
叶未の陽気な声でさすがに気づかないわけもなく、姫乃はちらりと三人に視線を配った。
軽く会釈をし、彼はこちらに来ることなく手前で曲がった。
「…………ほら! あんな感じなんですよ!」
彼が居た方向を指差し、叶未はむくれた顔をあかくする。
「反応するだけマシなんだよなぁ……」
「たしかに。そこまで気落ちするようなことでもないけど……」
桃春が漏らした言葉に奏斗は失笑しながら同意する。
友達と言って遜色のない間柄となった藍歌でも、自分達に気づかないフリをすることは偶にある。あれで気分に波のある奴だから、それはそれで仕方のないことだ。
──しかし、どのようにして仲良くなったのかを考えるとなると、簡単に答えが出そうにはない。
これは藍歌姫乃に限った話ではない。自分が今まで関わってきた人たちとの関係性はどの瞬間からどのように築き上げたものなのかは、常に意識していないとわからないものだ。
周囲の人間があっという間に自分を受け入れてくれたおかげということもあって、奏斗にはそれがわからない。意識の必要がなかったからだ。
叶未は真剣に悩んでいる。
目の前で困っている人がいるというのに、奏斗はどう助言したらよいものかと頭を悩ませていた。
「悩む必要ないってーの」
──いつもと変わらぬ、曇りのない声。
桃春は言った。
「あいつは嫌いな奴とは関わらない……どうでもいい奴ともね。面倒な割に素直な性格してるから。だから、あいつからなにかしらのアクションがあるだけで、もうある程度『仲が良い』って言えるのよ。どうせなんだかんだで話していることも多いんでしょ?」
彼女自身もアプローチの仕方など意識したことがないのだろう。
しかし、それでも叶未を納得させるだけの言葉を紡ぐことができる。
こういうところが、桜内桃春の愛されるところ──。
「それにさぁ」
桃春は叶未に肩を組み、企み顔を寄せる。
「そのおっぱい当てちまえば、いくらあいつでも堕ちるわよ。あんたは何のためにデカパイになったのか? こういう時のためだろ?」
「多分違いますけどね?」
間髪入れずに否定する叶未。視線だけで「この人何言ってんの?」という思いを放っている。
すっかり仲良くなっているが、しかし理解しきれていない部分もあるようだ。
「でも、そうですね……なんか自信つきました! ありがとうございます、先輩方!」
叶未はするりと桃春の腕を抜け、一礼してから駆けてゆく。
道中でクラスメイトらしき人たちと合流し、笑みを浮かべ合いながら音楽室へと姿を消した。
「──良かったな」
小さくこぼれた独り言。それを桃春の耳は拾った。
「それな。眼鏡って人によっちゃ枷にしかならないけど、あいつ似合ってるじゃん。劣化しなくてよかったなー」
「本当に『らしさ』全開だな、桃春」
ため息を挟む奏斗。
「あの娘の笑顔のことだよ。あの顔を与えた──取り戻したか。その事実に藍歌も関わっていると思うと、中々に思うところがある」
「同感」
二人は顔を合わせて笑った。
藍歌姫乃が人助けに心地よさを感じ、それを生き甲斐とするような人間でないことはよく理解している。
しかし、そんな彼らしからぬ行動が齎した結果には眩しいものがある。
それが彼女の笑顔──。
「あいつも他人からの好意を素直に受け入れりゃいいのに」
「ま、多少の捻くれがないと藍歌らしさってのがなくなるさ」
個性が変化の波に呑まれなければいいな、と奏斗は思った。
「たしかに子どもっぽくて可愛らしいところもあるけど。それにしてもあいつって──あ、やっば、次体育じゃん。もう行こ」
「ああ。そうだな」
会話を切り上げてそれぞれ教室へと戻る。
またいつでも話せる。今日にでも、明日にでも、その次の日にだって会う。
言葉の続きを焦る必要はないのだ。
少しずつ変わりゆく日々ではあるが、縁がそう簡単に切れることはない──




