三十四話 しにものぐるい
二十ニ時。閑散とした住宅街の一角にその診療所はあった。黒を基調とした一階建。正面はガラス張りとなっており、薄暗いロビーが露出している。入り口付近に設置された看板はたしかにボロボロだけれど、それとは対照的に室内は見たところ綺麗な状態だ。
心儀さんは『廃』と付けていたけれど、そんな雰囲気はこの看板だけに終わっている。
隠れる場所に向いているとは思えない。むしろ心霊スポットやら何かしらの理由をつけて溜まり場にできそうなまである。
「結界とか張ってるのか……?」
呟きに隣の井宮が答える。
「いいや、そんなものはないよ。余計な細工は一切ない。案外その手の細工がないからこそ隠れられているのかもな。ま、そもそも未来視持ちには関係ないか」
井宮は冗談っぽく笑ってから肩をすくめる。が、すぐに真剣な表情へと戻した。
「しかし——妙だ。ここの辺りでは魔術師が一人しかいない。ここがコレクターの拠点だとしたらもっと居ていいはずなんだけど……」
「魔術師じゃないコレクターしかこの場所を知らないってこともあるかもだろ?」
「まあ……そうだな。とにかく用心しろよ、藍歌。俺たちが生きて戻ることが勝利条件なんだからな」
それはここに来るまでに何度も聞かされた台詞だ。
死なないことを強制するような意味が含まれているような気がする。
これは味方に対して言うならば間違いはない。
けど、こいつは敵に対しても言うだろう。
歪みに歪んだ思想を井宮は姉に植え付けられた。……いや、自ら植え付けた。
「……、……」
ちなみに。
桜内は井宮の連絡に応じることはなく、一応──本当に念の為程度に診療所の住所を送っておいたのだが、いまだに返信はなし。井宮曰く、あいつが携帯をここまで見ないのは珍しいという——。
そして、どうしてここまで時間が掛かってしまったのかというと、この診療所の住所が心儀さんから送られてくるのに時間がかかったからである。
きっと、彼も彼で色々と手を焼いているのだろう。
「さあ——行くぞ」
井宮が五枚のお札を取り出し、それを右手の指に挟める。
僕も遅れてナイフを構え、先を行く彼の背中について行く。
自動ドアを潜る。
月明かりに照らされたロビーは薄気味悪い。しかし、そんなのは受付の向こうの細長い廊下に比べたら可愛いものだった。向こうは闇に呑まれている。
圧倒的な異界感を不気味に思っていると、井宮がゆっくりと足を進めた。
それに僕もついていく。
視界が悪い中足音だけが響く。
らしくもなく、動悸が高まるのを感じた。何かが出そうだという曖昧な感覚ではなく、ここには何かがあるという確信があるからだろう。
夜という闇に閉鎖された空間というだけで、人はこうも正気度が下がってしまう。
もっとも——井宮はそんな様子はないけれど。
冷や汗を拭ったところで角を曲がる。
——と。
仕切りのない療養室がすぐ近くにあった。
一歩、二歩、三歩と変わらぬ足取りで進み、室内に入り、窓際のベッドを見て。
井宮はもちろん、さすがに僕も絶句した。
そのベッドには一人の女性が上半身を起こし窓から夜空を眺めていた。腰あたりまでに伸び切った髪はとても艶やかだ。月明かりに照らされたその美貌には思わず目を奪われてしまう。この空間では異質に見える。
大人しく、おどろおどろしく、弱々しい。
他に何もないならいつまでも見れる存在であったが、その隣の存在の方が異様だった。
僕らから見て右隣のベッドの上に男性の死体があった。右胸のあたりに包丁が突き刺されており、彼の形相はあまり直視したくないほどの禍々しさを保っている。
——だけならば、別に驚くほどでもない。
しかし、その左右に三つずつ首吊り死体があるとなればそういうわけにもいかない。
そして改めて生きている彼女に目を向けてこう思う。
この空間でよく平気な顔ができているな、と。
「待っていたよ」
僕らを見て、消え入りそうな声で彼女は言った。
笑っている。
けれど、死んでいるようにも見える。
生死の境界が曖昧になっている人を見るのはどうも気分が悪い。
「確認するまでもないですが——あなたは、巳文字烈子さんですね」
平然と井宮が言う。
「そ。私が巳文字烈子。よろしくね」
よろしく……? 一体何のつもりだろう。
「あなたは魔眼コレクターというふざけた組織を立ち上げた」
「そうだね」
「そしていろんな人たちの目を抜き取っては国内のみならず海外にまで至る所に流した」
「うん」
「人を殺した」
「殺したね」
「あなたに唆されて所属した人たちすらも、《人間の精霊》を作り上げる為に殺した」
「まさか七人の魂を使ってようやく成功するとは思わなかったけどね。未来視で視ていたとはいえ、完成したときは驚いちゃった」
彼女は淡々と答え、隣のベッドを見る。そして他人事のように「酷い絵面」と言った。
「あんたは!」そろそろだろうとは思っていたが、井宮が声を荒げたのは少しばかり心臓に悪かった。「あんたは一体何がしたかった⁉︎ いや……何をするつもりなんだ⁉︎」
巳文字さんが柔和な笑みを井宮に向けた。
なぜここでこんな顔をするのか意味がわからない。
「ここが終着点だよ」
ここでようやく、巳文字さんが本当に生きているんだと理解できた。
「あなたが捕まって、それで終わりだって言うのか?」
「井宮奏斗くん。君は賢い割に横暴な人だよね。私みたい。視ててちょっとなーって思う」
「見てて……この会話も全てお見通しなのか?」
井宮は敬語を完全に使っていない。
ついさっきまで冷静に見えていたこいつも、さすがにこの空間では態度を落ち着かせたままというわけにはいかないのか。
「ううん、ここでの会話は今を生きている私に任されているよ。でもまあ……」真っ直ぐに勝ち誇った目を向ける。「私は間違えないけどね。必ず辿り着いてみせるよ」
「……俺たちがあなたを逃すことはない」
「私は逃げないよ。言ったでしょ? ここが終着点なの。私にとっても、あなたたちにとっても。ほら——私の背後」細い腕を上げて人差し指で自分の背後を指す。「この扉の中に私がやってきたことの記録があるよ」
異様な空間が故に、彼女の斜め後方にある扉の存在に気づかなかった。
物置だろうか。よく見ると、扉にはいくつもの凹凸ができている。そして、床との隙間から既に乾いた血が流れ出ていた。
ただの記録ではなさそうだ。
「余計に分からないな」
僕も井宮と全く同じ意見だ。
「そうだね——それを視たのは……」
→
退院を一週間後に控えた冬の昼。
烈子の生活は一定のサイクルを維持したままだった。リハビリのない時間はテレビもつけず、カーテンを閉めて勉強をするだけ。両親がお見舞いに来ることもなく、完全に外界からの情報は遮断していた。
未来視を封じ込めることはそれでもできないが、しかし幾らかは未来を視る回数が少なくなったように思う。しかもその内容は覚えるに値しないものだ。
私は間違っていない。と、烈子は確信する。
「でも……」
烈子は再び社会に出ようとしている。
誰かと関わり、誰かと結ばれ、誰かと生きてゆく。
そんな自分……親友の人生を無茶苦茶にしたくせに普通に生きようとしている自分に嫌気がさしていた。
善意で動いたとはいえ、いまだに目覚めない親友。
しかし烈子は今も生きている。
こうして勉強をしているのも、まともに生きるため。
「こんな私でいいのかな……?」
そう思い、ペンを置いた時だった。
×
×
烈子は一つの未来を見た。
闇に沈むようなその結末はどういうわけか煌々と光っていたように思う。
「罰か……望みか……」
続けて未来を視る。
×
×
きっとこれは《罰》に繋がるための過程の一つだ。
烈子は迷わず父親に連絡をした。
事故以来まともに口を聞いていない父親を呼び出すことに躊躇いはあったが、それでも頼るしかなかった。
「私も暇ではないのだが?」
人殺しを見る目を向ける父親に烈子はさきほどの未来を説明した。
「——これが予測だということは承知しています。けれど、未来に逆らった私への罰なのだとしたら、私はこれを完遂したい。未来視に逆らって最悪なことを起こすよりも、未来視に従って終わりたいんです。どうか——お願いします」
←
「これは私が未来に逆らって涼音の人生をめちゃくちゃした罰。予測の未来視に反逆することが極悪だと理解した私に選択の余地なんてなかった」
ここで、彼女は僕に目を向ける。とても恍惚としたその眼差しを見て、僕は思わずなるほどと思った。
そうか。
それが僕の役割か。
「戸道涼音……もう一人の被害者か。でも、あなたは善意で動いたんじゃないのか⁉︎」
「その善意は親友を殺した!」井宮につられるように巳文字さんの声が大きくなる。「知らない人も殺した! 未来に逆らったから傷ついた! でもね、その『結末』を見て、それまでの『過程』であろう未来は失敗してこなかった。予測が閲覧に進化したんじゃないかって錯覚するほど正確だった」
僕は巳文字さんに近づく。
「たしかにいっぱい殺したよ? でもさあ……その未来に逆らったら、もっと人が死んでたんじゃないかな?」
不貞腐れた子どものように言い訳を並べる彼女。
こつん、と突然ベランダの手摺に一羽の鳩が止まった。意味ありげに巳文字さんと見つめ合うと、すぐに飛び立っていった。
「さっき、数時間前君たちが居た所……そうだ、色奈ちゃん。彼女の家に、私の魂のほんの一部を宿して飛ばしたんだよ」
口に出していない疑問に淡々と答える。
「何故?」
井宮は更に訊くと、巳文字さんは小さく首を振った。
「知らない。意味なんてないよ。無理矢理意味を持たせるなら『未来視で視たから』になるね。今までの殺人もそう。未来で視たから、結末に繋がるであろうから、でしかないの。魔眼コレクターという集団がこうして死んだり捕まったりしたことが、一体私の結末に繋がる以外にどんな影響を及ぼすのかなんて知らないし興味もない」
「……あなたの言う『結末』はなんだ?」
「分かってないフリするなよ井宮」
彼女の横に着いたところで、僕は言った。
「今までの出来事はこの人の自殺の為にあったんだ」
巳文字烈子を見下ろす。
ナイフを逆手に持ち替える。
「幼稚すぎますよ、さすがに」
僕の一言に巳文字さんは乾いた笑いを浮かべた。
そして、この人の喉を正面から突き刺すようにナイフを振る。
「——!」
が、ナイフは直前で止まった。
右腕がピクリとも動かない。
原因は僕の左腕に引っ付いていた。不思議な模様……いや、文字だろうか、それが書かれたお札が井宮から投げられていたのだ。
右腕以外は正常に動く……。右腕にだけ脳みそからの命令が遮断されたかのようだ。ナイフが握られたままなものだから、左手に持ち替えることすらできない。
「どういうつもりだよ」
僕は井宮を見て言った。
「お前こそどういうつもりだ……!」
僕に向かって指を二本構えながら叫ぶ井宮。
「巳文字さんの言い方だと、総司令部長ってのは今日自分の娘が僕に殺されることを知っているんだろ。なら、見逃してもらえるさ。最悪の展開になったとしても正当防衛とか適当な理由を付けて……」
「そういうことじゃないだろ……? おまえ、なんで簡単に殺そうとしてんだよ。そうじゃないだろ? ほら、それこそこの人の思う壺だぞ?」
井宮なら一瞬で僕の気を落とすことなど容易だろう。
しかし、わずかに震える声音で僕を説得しようとしている。
迷いがあるのだろう。
自分の生き方、埋め込まれた思想、取り込んだ理想。
これはいい機会かもしれない。
僕は精神年齢が幼く見える二人に挟まれながら思った。
「無責任に殺さない方もどうかと思うよ、僕は。この人を生かしたらどうせまた同じことを繰り返す。くだらない自殺の為に人が死ぬ。僕や薔薇がそのうちの一人になるかもしれない。悪いけど……僕はこの程度の人に殺されてやるつもりはないよ。僕は子どもが嫌いなんだ」
「性格悪いなぁ……否定できないんだけどさ」
自虐的に笑って巳文字さんは続ける。
「井宮奏斗くん。私をここで殺さなきゃ、きっと次は君の大切な人を殺すよ」
「お前の正義は無責任すぎるんだよ」
僕も口を開く。
「自分の大切な人が死んでないから変わらないんだ」
「君は潔くはあっても正しくはない」
「『被害者は復讐を望んでない』なんて綺麗事を吐かしてみろ。お前、碌な死に方しないぞ」
「考えているフリって一番楽だよね。今の君は入院中だった私を見ているようだよ」
否定の言葉が返ってくることはない。
聞き流しているわけでもなく、ひたすらに受け入れている。
井宮母から話は聞いていた。
多才が故のどうしようもない空虚。
井宮並樹が仮に何か別の『良くない人』であったら、こいつはそうなっていただろう——と。
……別に、僕があの人のお願い事を叶えてやる義理はない。
井宮奏斗が誰も殺さない生き方をすることは、正直美しい在り方ではあると思っている。
けど。僕程度の人間にも分かるほどに、あの母親はこいつを想っている。期待とも言えるか。そうしたものがどれほど負荷になるのかは分からないけれど、それを自覚させられるのはこの状況がベストだ。
状況が揃っているのなら、別に叶えてもいい。
深い理由は……ない。
「……片瀬由奈を思い出せ。あの娘は復讐を望んでないと思うか? こんな人の為に両目を抉られた挙句、自分で首を切って自殺する人生に心から納得していたと思うか?」
あの死に顔は気になるところではある。もしかすると彼女はもとより生きる気がなかった——そんな可能性だって捨てきれないだろう。
結局のところ、僕も僕で他人の思いを勝手に決めつけている。
どうしようもなく、僕は僕のままだ。
「もしもそんな人生に満足——いや、納得していたとして、それを側で見ていたお前がこの人に殺意が湧かない理由はなんだ? 綺麗事を言っておきながら、やっぱりまともに会話したことのない奴が死のうとどうでもいいのか?」
「お……俺は」
「死ぬべき人間はいないって思想のわりに死んだ人間のことが考えられていない。目の前のことしか見えていない。断言してやる」無感動に僕は言う。
「お前は人を殺せる」
告げると、井宮は普段と変わらぬ冷静な顔つきに戻った。
そして長考する。
何十分……もしかすると一時間経っていたかもしれない。
なんにせよ、それは井宮の答えが一瞬のものへと変えた。
「そうなんだろうな……」
あまりにもありきたりな答えだが、なんの含みもない、一切澱みのない澄んだ答えだと分かる。
井宮は力無くゆっくりと指を下ろす。その動作に連動してお札が剥がれ落ち、僕の右腕に自由が戻る。
そして、容赦なくナイフを突き刺す——直前。
目の前のガラスが大きな音を立てて割れたと思うと、桜内桃春が僕に向かって吹っ飛んできた。
あまりにも予想外な出来事に呆気を取られ、僕は飛んでくる彼女を躱すことなく正面から腹で受け止める形となった。
「が——」
隣の死体で飾られたベッドまで飛ばされる。
情けなく尻餅をつく。桜内は僕の股の間で座る形となった。
どうして僕がこいつの背もたれ役にならなきゃならないんだと、その原因を作った奴に目を向ける。
割れた窓ガラスから入ってきたのは……涙痕を残した早見愛海だ。
「愛海⁉︎ 一体なにを……」
長考をしていたからか、井宮も気づいていなかったみたいだ。
「桃春がやたら私の邪魔をしてくるから。『殺すだけじゃ解決しない問題もあるかもしれない』ってきかないんだ」
ああ——いつの日か、桜内は東条さんにそんなことを言われていたな。殺すことで悪化する問題が云々……。
桜内なりに考えていたんだなぁと僕は少しだけ感心した。
「この場合は殺さないと悪化するだぞ、桜内。この人は自分が生きる限り殺し続ける宣言もしてる」
背後からボサボサになった苗色頭に言ってやると、桜内は余計にぐったりと僕に寄りかかった。
「まじかよぉ……無駄なことしたわ……」
「……まぁ、そうだな」
僕は素直に頷いた。
こいつを退けて巳文字さんを殺す——それは僕の役割ではなくなったように思う。
巳文字さんも若干驚いているようだ。やはり、彼女が視た未来では僕に殺されるはずだったらしい。ここにきて、ようやく未来が外れた。
こうなった以上、この中で彼女を殺すべき人間は、早見愛海か井宮奏斗が相応しい。
二人がどんな言葉を交わすのかも少しだけ興味があったりする。
これらの理由から、僕はもう少しだけ桜内の背もたれになることにした。
「まだ殺してないとは思わなかった」早見さんは井宮を一瞥する。「あんたまさか、この後に及んでも変わらないつもり?」
「…………」
「教えてあげる。由奈はさ、あんたのことが好きで好きでたまらなかったみたい。あいつがあんたに認識されなくても、あんたが生きているだけで幸せを感じるほどにね。正直行き過ぎた愛情だとは思うけど、あいつは報われるべきなんだ。そんな由奈の最期が暗い世界で自分の首に鋏を刺すだなんて、あんたは納得できるかい?」
「もちろん、できないさ」
「あんたが目指した理想は初めて聞いた時から綺麗だなって思ってた。そうあれたらどんなに心地いいだろうって想像する時もあった。でも……そんな風に生きられる人間なんていないって分かった。だって、人間なんだもの」
「……ああ」
「全てを救う人間は全てを許すことができる人間。しかし、人間である以上全てを許すことはできないという二律背反には何かしらの《不幸》が起きるまで気付かない。私たちは子どもだったんだ」
「その通りだ……。今までごめん、愛海。俺たちは空虚のままが一番良い状態だったんだ。到達できない理想を共有して、本当にごめん」
二人は真っ直ぐに見つめ合う。
きっと脳裏には片瀬由奈が過ぎっていることだろう。とても哀しげだった。
「悪いことばかりじゃあ……なかったね」
巳文字さんの言葉が視線を集める。
「こうして子どもを正しい方へと導くことができたのならよかったよ」
満面の笑みが僕には歪に見えた。
「私の殺人は無駄じゃなかった」
幼い少女の顔がそこにはあった。
巳文字烈子はしっかりと狂っていた。
善意で動いた結果が裏目に出たことが、友達を重体にしたことが、自分が死ぬ未来を視たことが、彼女を終わらせていた。
でもやっぱり、僕にはただの不貞腐れたガキにしか見えない。
未来に逆らった罰——?
予測には従わなければならない——?
「ねえ姫乃くん!」
目が飛び出そうなほどに見開いて僕に首を向ける。
「君もきっと未来に逆らうと不幸になるよ! 私みたいにっ! 私みたいに後悔することになるよ! 気をつけてね!」
これは巳文字さんの善意なのだろう。
でも、人殺しの善意なんて僕には要らない。
「あなたは運が悪かっただけでしょ」だから、切り離した。「八つ当たりすんな」
巳文字さんは深く沈んだ顔色になる。失望したような、夢から覚めたような、そんな顔を見て、きっと同情して欲しかったんだろうなと思った。
同じ予測の未来視所有者として、この一件はたしかに忘れられないかもしれない。忠告程度にその言葉を覚えるのが賢い在り方だろう。
けど、人殺しがそんな顔をするのは気に食わない。
早見さんの短い笑い声が聞こえた。
彼女は壁に手を当てて「再構築」と唱える。
すると、建物が音を立てて揺れ始めた。震度ニはありそうだ。
巳文字さんの頭上から天井がベッドほどの長方形となってゆっくりと降りてくる。
そう、ゆっくりと。
できるだけゆっくりと巳文字さんを潰す為。
「涼音……これ……、正しいんだよね?」
大して余韻の残らない最期の言葉。
そうなると思っていた。
「巳文字さん!」
震動音を貫く少女の声は、僕と井宮が入った入り口から聞こえた。
振り向くと、そこには肩で息をしている薔薇が居た。
これに関しては井宮は気付いていたのだろう、特に驚きはせず、真剣な眼差しで巳文字さんが死ぬ瞬間を見届けようとしている。
「巳文字さん! 戸道さんは事故に遭う直前にこう言ってました! 『背負うなよ』って! そしてちょうど一年前! 無意識の言葉ですけど、『ごめんね』って! 言ってましたよ!」
薔薇は泣いていた。
過去を視たことによって共感しやすくなったのだろうか。
いや、そもそも十五日に知っていた。薔薇の過去を振り返ると言う未来を視て、僕は知っていたのだ。彼女が他人の為に心から涙を流せる人間なのだと。
巳文字さんは薔薇の言葉を聞いて俯いた。
天井が頭に触れる直前、切迫した声音で言った。
「あれ……間違っていた?」
苦痛が理由か、誤りに気付いたことが理由か、とにかく巳文字さんは発狂した。
バキバキと。まず最初に腰が折れる音がした。行き過ぎた前屈を更に押し続ける。
ベッドと天井に押しつぶされるだけでは人体を破壊しきれず、ベッドすらも破壊して床を目指す。
破壊音がベッドからくるものなのか巳文字さんからくるものなのかが曖昧になっていたが、その中でも頭が割れたであろう音はよく聞こえた。
そして、天井は床に着き、一本の柱となった。
しんとした静寂の中、僅かな隙間から垂れる血、縦に潰れた左手だけが露出している。
直視することが躊躇われるようなその手を僕は見続ける。
巳文字さんの最期はあまりにも哀れだった。
けど。
己の為に殺人を犯してきた彼女が、最後の最後で『間違っていた』ことに気付けたというのなら、後悔だけでなく救済もあっただろう。
もしも来世というものがあるのなら、きっと、彼女は同じ失敗はしない。
「あなたはとっとと独りで死ぬべきだったんですよ」
ぐちゃぐちゃに圧迫された左手に向かって僕は言う。
すると、桜内は後頭部を僕の顎にぶつけやがった。
「言いすぎだっつの」
否定はできなかったので無反応でやり過ごす。
こいつと早見さんに一体何があったのか訊きたいところだが、さすがにそれは空気が読めなさ過ぎている気がしたのでやめた。
「やったよ……由奈」
柱の向こうで早見さんが力なく座り込む音がした。いつもの刺々しい声ではなかった。
そして、井宮は目の前の柱の下——数ミリの薄さとなった巳文字さんから目を逸らさない。
薔薇は溢れる涙を拭い続けている。
散々な状況ではあるが、ひとまず問題は解決した。
「肋骨痛え……」
病院に行きたい。
これがコレクターを潰した直後の僕の感想だった。




