二十八話 役者
その日、片瀬由奈はいつも通り——午前七時三十分に目を覚ました。
「……また、この時間」
時計に目もやらず確信的に呟く。
数秒ですっかり意識の覚醒を終え、カーテンを開ける。ワンルームの燈明学園寮を強烈に照らす日光が差し込むも、由奈は目をくらますことなく、むしろ見開いたままで外を眺めた。
木々が邪魔をして街を眺めることができないその光景は、まさに魔術世界の隔絶を実感させられるように思え、由奈は小さく息を吐いた。
「隔絶じゃなくて確立ともいえるかな……なんでもいいケド」
無気力につぶやいて支度をする。由奈にとってそれは目覚めることに同じ。ただただ機械的で、自分に対して無機質的な態度が表れる。
──私は私自身を世界の歯車以下としか思えない。
由奈が悪い意味で自分は他人と異質だと自覚したのは、自我という自我が芽生えて数年たった時のこと。当然その時の年齢は一桁で、そんな大人びた思考をするには早い時期ではあったが、それこそ『機械的』に突然として考え始めた。
小学校三年生の時だ。
今友達と談笑している私の代替品をここに置いたらどうなるのだろう。
無個性な私の代わりはいくらでもいるのに、どうして私は《片瀬由奈》として生きているのだろう。
きっかけなどなく、ふと由奈はそんなことを考えた。生まれてから——或いはそれ以前に『片瀬由奈は俯瞰的な思考に陥る』と、まるでプログラムされているような気持ちがどこかにあった。しかし、そのような疑念もすぐに消え失せる。
こうした自分への無関心が他人への無関心に繋がることは無理のない話。寧ろ当然とも言えよう。
世界という舞台の役者以下の存在であることを自覚し、由奈は閉鎖的となった。
閉鎖的。それが他人と接触することによってようやくわかる特徴だと言うのなら、寧ろ自分はそれ以下……空気のようなものだ。自分は度々そんなことを思って自虐的に微笑むことがある。もっとも、常に目を伏せ顔を逸らし口を開かない、そんな自分がどんな理由で顔を歪ませたところで誰の目にも留まることはない。
それを寂しいと思ったことはない。
しかし、時々もしもの可能性を考える。
私が私でなかったのなら、あの時、彼に声をかけることができたのではないか——と。
×
燈明学園は妻城市南部の山奥に広大な敷地を誇っている。設備は全国の魔術師育成学校の中でも充実している部類に入る。寮を使用している生徒もわざわざバスを利用して街にまで行くことなく、敷地内である程度のことは済ませることができる。
その日、休日にも関わらずいつも通りの時間に起床した由奈は、燈明学園附属図書館へと足を運んだ。
寮から直線でおよそ六百メートルほどの距離にあるが、しかし、その程度の距離ではこの学園で退屈することはない。
鴨の泳ぐ蓮池。等間隔で植えられた木々。日向ぼっこをしたくなるような澄んだ小川の流れる芝生広場。図書館だけでなく、カフェにレストランや燈明学園と魔術の歴史を保存した総合博物館に書店などなど。
学園一帯は退屈と程遠い。
由奈は歩く。
日々変わりゆく風景に心を和ませながら、ふと過去を振り返った。自分の新しい一面を知れた、そんな過去を。
小学四年生の時彼に出会った……とはいえ、授業中に由奈が落とした消しゴムを彼が拾ってくれた。そして、彼は由奈に笑いかけた——それだけのことである。
異性を意識するにはあまりにも早すぎる年齢だったが、由奈は彼と目を合わせた途端に《恋》を自覚した。
機械的だと思っていた自分の新しい一面。自分が自分でなくなるような感覚に由奈は嬉々とした。——けれど、自分は誰かの代替品でしかないという思いが抜けることはなく、由奈は彼に声をかけることはできなかった。
しかし、思考と行動には何かしらのズレが生じるものだ。数ヶ月前に覚醒させた魅了の魔眼を私利私欲の為に使うほどに、彼の微笑みは由奈に影響を及ぼした。
『いやいや』
由奈にとってたった一人の友達である早見愛海は、食堂での同席中に由奈自身の全てを語り聞かされ、その上で否定した。
『機械的だなんて笑わせるんじゃないよ。奏斗に好意を抱いた時点で、機械的って言葉は全面的に否定されているじゃないか。機械は恋をしないよ』
なら、どうして私はこんな人間なんだろうと由奈は訊く。
『人間関係なんて作らない方が楽できるって無意識のうちに理解しているんだろう。それが人として正しいとはまさか思ってはいないだろうけど、少なくともあんた自身の生き方には合っている……そういうことじゃないの?』
なら、どうして私と早見さんはここまで心地良い関係でいられるのだろうと訊く。
『知らないよ、そんなの。私だって人付き合いはあまり好きじゃないハズなんだけどね』
彼女にも分からないことがあると知った時は、どうしてか嬉しかった。
図書館に入る。今日は空いている。ただでさえ広々とした二階建ての吹き抜けがいつも以上に開放感がある。
自分よりも大分背の高い本棚を見歩いて何を読もうかと悩んでいると、窓際の机で頬杖を付いている早見愛海を見つけた。
夏風に髪を揺らし、本のページが捲れてしまうことも気にせずにぼうっと窓の向こう側を眺めている。
「…………」
アレは一人でいたい時の雰囲気だな。由奈は二階の机で読もうと彼女から離れようとした。心地の良い距離感が故の関係性を手放したくないと思ったのだ。
だが突然——。
由奈の鼓動が異様なほどに高鳴った。
“私は早見さんと話さなければならない”
暴力的なまでの使命感が由奈を襲う。生命情報による行動とも取れる感覚に由奈は立ちすくむ。
そして十秒。
由奈は「まあいいや」と呑気に愛海の前に座った。
「おはようございます、早見さん。どうしたんですか? なんだか、心ここに在らずって感じですけど」
由奈の声に少し遅れて愛海が反応する。
「考え事だよ」
愛海は簡素に答える。
どこか気の抜けた返事に思えた由奈は首を傾げた。
「少し、話をしないかい?」
愛海からの提案に由奈は迷わず頷いた。
当然図書館で長話というのは他の利用者に迷惑なので場所を変えることは必須。
二人はカフェのテラス席でコーヒーを飲みながら談笑する。
「もしもさ」愛海は由奈から目を逸らして言う。「今すぐ奏斗に会えるって言ったら、あんたはどうする?」
「え?」
唐突に切り出された彼の名前に由奈は頬を朱色に染める。その様子に愛海は思わず綻んだ。
「……会えるとしたら、会いたいです。でも、会ったところで、奏斗くんからしたら『知らない人が自分勝手に好意を向けている』だけに過ぎません。そんなの気持ち悪いし、私も早見さんも嫌いなタイプでしょ? それに」
「『私は誰かの代替品でしかない』って?」
「…………」
お互い同時に暗い顔をする。
由奈はコーヒーに反射した自分を見て、改めて『会う資格』と言うものがないと感じた。
会うに至るほどの接点がない。一度消しゴムを拾った程度のこと、彼が覚えているわけもない。それに、己を機械的だなどと吐かしたり、他人にほとんど関わることをしてこなかったというのに、いったい自分は何様のつもりだ。
それに——と、由奈はふと息を吐く。
「私が会わなくても、誰かが会うから」
「その誰かってのはあんたの分身ってわけじゃない。そこに後悔はしないの?」
「しませんよ」
確信はなかった。けれど、由奈にはそれ以外の言葉が見つからなかった。
「私に魅了を使うほどだってのに……。まったく……あんたみたいな自己矛盾の塊は、変なところで素直じゃない。ただひたすらに正直でいられたのなら、もしかすると……」
こめかみに手を当てて悩む様は、とても同い年の少女には見えなかった。しかし突っ込むことはしない。それは私のすることではない。
心の中で自分に相槌をうってコーヒーを口にする由奈。
と、愛海は慎重に、震えそうな声で訊いた。
「あんた、今日の予定は?」
「今日ですか? とくに……いや。家に帰ろうと思います」
「どうして?」
「どうして……あれ?」
たしかにどうしてだろう。そんなこと予定にはなかったのに。愛海と同じ疑問を持った由奈は、そこに「気分」という言葉を当てはめることで解消した。
しかし煮え切らない様子の愛海は、
「私の部屋に来ないかい?」
と訊いた。
懇願するような眼差しに見えた由奈は少しばかり戸惑った後に「いいですね」と快諾した。
すると、由奈のポケットの携帯が振動した。滅多に揺れることのない携帯に動揺しつつも画面を見る。
《お父さんが事故に遭いました。今日お見舞いに行きませんか?》
母からのメッセージだった。これは驚いた。具体的な症状は書かれていないが、お見舞いに誘ってくるほどの事故だったと考えると断るわけにもいかない。家族とそこまで仲が良いわけではないが、自分を適切な世界へと送ってくれた感謝の意を忘れたことはない。
由奈は「ごめんなさい」と愛海を見る。
「パパが事故に遭ったみたいで、そのお見舞いに行くことになっちゃいました。また別の機会に遊びま……」
言い切る前に、由奈は唖然として口を開いたままで硬直してしまった。
早見愛海が涙を流したのだ。日頃から変わらずの凛々しい顔のままで、一筋の涙を溢すその様子は、まるで何かを諦めたようだった。
「早見さん⁉︎ え? なんでなんで⁉︎」
流石に黙っていられる状況ではなかった。たった一人の友人の涙を前に座っていることも出来ず、由奈はとりあえず立ち上がって慌てふためく。
愛海は遅れて自身の涙に気付き、一呼吸ついた。
「なんだ。泣けるじゃないか」
「え?」
「いや……」
愛海は僅かに口角を上げて指で涙を拭う。そして屈託のない笑顔で由奈に向き合った。
「座りなよ」
「う、うん……」
「過去——そして現在も学者の中で議論されている《閲覧の本質》というのがあるよね」
腰を下ろして由奈は頷く。
「ええと……『未来の結果を覗くのか、己の視たものを現実へと変えるのか。閲覧の結果を阻止しようとも、それは世界が許さない。こうして考えると、未来視の閲覧は後者の方が本質的に正しいと言えるのではないだろうか』……みたいな感じでしたっけ?」
「そう。もし未来の為にあらゆる現在を変更しているのならば、それは本当に正しい未来なのかどうかという疑問が残ってしまう……そんな話だ」
「しかし、閲覧所有者同士の矛盾した光景を視るという前例がないことから、その反証はまったくもって信憑性がない。……と言う話もありましたね」
「それもそうさ。しかし何か……何者かに運命を決められることに変わりはない。仮にあんたがその対象になったとして、それでもあんたは閲覧に文句を言わずに生きることができる?」
「はい」由奈は答える。「運のいいことに、後悔するような生き方をしていないので。友達も一人いますしね」
自然と溢れた笑みに愛海は目を瞑って頷いた。何か納得したような、割り切ったような、そんな顔。
「私はもう行きますけど……大丈夫ですか?」
「うん。付き合ってくれてありがとう」
最後に微笑みあってから、由奈は席を立つ。
店内に戻り、ふとテラス席を振り返った。彼女はぼんやりと空を見上げながら、すっかり冷めてしまったであろうコーヒーを飲んでいる。風に髪を靡かせる様子は同性である由奈をも惚れ惚れとさせた。
眼なんて関係なく人を魅了できる人は、魔術因子を持っている人よりも価値があるんだろうな。
由奈は肩を竦めてカフェを出た。
×
バスを使って最寄りの駅まで、それから電車で妻城駅まで、更にそこから乗り換えで由奈の実家の最寄り駅まで行ったところですっかり日が落ちはじめていた。
愛海と話してから準備をしたので出発が遅かった。腕時計を見ると、六時二十五分を指していた。
「さて、と」
ノドガカワイタナ。改札を出てすぐにある自動販売機の前に立つ。えーと……アレ? 梅ジュースが無い。ここの自動販売機じゃなかったっけ。こういう良い天気にはアレが一番なんだけどなぁ。あ。そういえば、ここじゃなくて下の駐輪場にあったっけ。よし行こう。駅を出、線路の下の駐輪場、そこの自動販売機の前に立つ。ほら、あったあった。梅ジュース。百三十円。投入。ガシャン。うん、やっぱり久しぶりに飲むと美味しいなあ。燈明学園には無いからな。ああ美味しい美味しい。どうしてコンナコトヲシテイルノダロウ。ドウシテ、こんな——
由奈が疑問に思ったところで、付近の電線に一羽の鳩がとまる。どういうわけか、その鳩は由奈にとって特別なものに見えた。
辺りががらんとしていることもあるのだろう、何か物体の動きは捉えやすい。それが理由だろう。
「いや——これは……?」
それだけではないことを自覚する。自分を中心に世界が回っているというよりも、自分の外側に世界がある感覚。由奈は突如としてその感覚が普段以上に冴えていたのだ。
線路下の寂れた空間に差し込む夕日。その一部を背景に静止している鳩を見つめながら、由奈はペットボトルを手放す。
身体の硬直に気付いた後、由奈の背後から一人の男の声が聞こえた。
「へー? これって幻術の一種なんですか?」
彼は由奈の頬を突く。
「幻術に分類するにはあまりにも賛否が分かれていますけれどね」
更に彼の背後。柱に寄りかかってひとりの女性が答える。
もちろん二人とも由奈の背後に居る。由奈自身はそのことを感覚的にしか捉えられないはずなのだが、今は視覚的に認識できている——そんな気がした。
まさか……《乖離の印》……?
声にならない疑問に彼女は可笑しそうに「ふふ」と笑う。
「あなたはある程度優秀な人間の部類に入るそうなので。しかし、心に余白が多い娘でよかった。電車で隣に座って数十分、あっという間にあなたの人格を裏側に持って行くことができましたよ」
多重人格でない人間の人格を、心の余白と一時的に交代させる魔術。
由奈の右手の甲に円形の陣が浮かび上がる。他人に知らぬ間に触れられていた——そのことすら知覚できなかった由奈の余白のありようは、彼女が語るまでもなかった。
「ここまで死んだように生きているのなら、こんな手間かけるまでもなかったですけれどね」
陽気な——そして妖気な気配は、いよいよ由奈の全てを包み込んだ。
ほんの僅か手に触れ、私の因子を抽出し、式を刻み込んだ……? そんなこと、ただの魔術師にできるわけもない……。
何者なの?
その問いかけの答えになるように、女性は言う。
「魅了の魔眼は貰いますね」
ぞくり、と。
一瞬にして全身が焼かれるような感覚に由奈は悶えることすら出来なかった。
ただ背後から伸びる男の手に『終わり』というものを感じるだけだ。
その手が眼に向かってくる間に由奈は思う。
“ああ——これが、私の役割なんだ”




