最終話 黒の在処
「かんぱーい」
東条さんの号令に続いて桜内が叫ぶ。対して僕と井宮は静かにグラスを鳴らすだけだった。ソファー席に僕と井宮、その正面に東条さんと桜内が座るという形だ。柩ちゃんは相変わらずのカウンター席にぽつりと。光野さんは仕込みで忙しそうだった。
五月九日土曜日。僕が休日なのにわざわざいつもの喫茶店に来た理由……それは、桜内がどうしても打ち上げがしたいとわがままを言って止まらないからである。ほんと、こういうタイプの人間ってすぐ集まりたがるよな。
一体なんの打ち上げなんだよ、とテーブルに置かれたさまざまな料理に視線をやって思う。
「こういうのは深く考えなくていいんだよ」
そう笑いかけて、サラダを皿にとって食べる井宮。本当に爽やかな奴だ。
「あたしが誘ってやってんのに断るとか、マジでいい度胸してるよな」
ジョッキに注がれた大量のココアを持って桜内がいう。
「次断ったら両脚ちょんぎって連れてくるところだった」
ちなみにこいつは今日僕を連れ出すためにアパートの扉をぶち壊す直前にまで至っている。桜内の言うことは冗談にならない可能性があるから心臓に悪い。
「打ち上げ、か……。結局は東条さんが全部丸く納めた感があるけど」
と、僕は目の前の東条さんを見る。
「それは言い過ぎだって」
謙遜でもなんでもない風に手をひらひらとさせる東条さん。
「姫乃くんたちが動いてくれていたから準備ができたんだよ。それに、桃春ちゃんは殺人者たちを罰して、姫乃くんはみずきちゃんを助けた……でしょ?」
「桜内はそうだろうけど、僕の場合は井宮がいなかったら何もできなかった」
「なら、みんな偉いってことで」
ぱんと手を鳴らして強引に会話を終わらせる東条さん。そして桜内同様に飲み物を口にし、サンドウィッチに手を出す。
異様な空間だ。
桜内がはしゃいで。井宮がそれに合わせて。東条さんがつられて笑って。光野さんがそんな様子を優しげな眼差しで見つめて。柩ちゃんに関してはよく分からないけれど、この騒がしい場所から離れないと言うことは別に嫌な空間ということでもないのだろう。
ここまで賑わった場所にいるのは、初めてな気がする。もしくは、遠い記憶すぎて忘れてしまったか。
どちらにせよ、新鮮な感覚であることに変わりはない。
“楽しいか?”
天才が僕に問う。
別に。
“つまらないか?”
……それも違う。
“はは。おまえは本当に面倒な奴だな。法号みずきを笑える立場じゃないぞ”
違いない。僕は心の中で頷いた。
「ところでさあー」
桜内が言う。
「法号妹は自殺直前だったわけじゃん? どうやって説得したのさ」
「たしかに藍歌のキャラじゃあないよな、自殺を説得って。口下手っぽいし」
井宮までも真面目な顔つきで便乗した。喧嘩売ってるのかな? 絶対に買ってやらない。
「……まあ、素直にぶつかっただけだよ。『そんなに死にたいなら早く死ね』から始まって、最終的に『一緒に死んでやる』にまで至った」
「きゃはははは! なんじゃそりゃあ!」
桜内は大笑いするが、井宮と東条さんは苦笑だった。どうも僕の捻くれたやり方が予想外だったらしい。いい加減この性格にも慣れてきてくれたと思っていたのだけれど。
「おいおい……その時が来たらどうするんだ?」
井宮は不安げな眼差しを僕に送るが、その心配は無用だ。
なぜなら……
「僕はあの娘と死ぬ気なんてさらさらないよ」
手元のコップに視線を落として答える。
「仮にまた自殺をしようとしたのなら、もう一度交渉するだけさ」
「でもさあ、そんな機会もなく死んじゃうかもじゃん? 今回あんたが自殺を止められたのは、本当に偶然なわけで」
と、桜内が言う。
「いや、大丈夫。あの娘は自殺する勇気なんかない。僕が部屋に着いた時、みずきちゃんは本当に飛び降りる直前だったんだ。そんな状況で見ず知らずの《男性》である僕が部屋に入ってきたのに、みずきちゃんはわざわざ僕と会話をした。男性にトラウマのある彼女が、第一の目的である自殺よりも男との会話を優先した」
「つまり……死ぬ寸前になって、その恐ろしさに気付いたんだな」
うん、と井宮を見て頷く。
「死にたいと言う気持ち自体は本気なんだろうけど、死にたくないと言う気持ちには勝てなかったみたい。今のみずきちゃんはただのメンヘラさ。すぐに良くなると思う」
言い終えると、東条さんがこちらに身を乗り出してきた。
そして右手を振り上げる。
「チョップ」
そして振りかざす。柔らかい声をしていた割に強烈な威力だった。
頭を押さえて悶絶する僕を見て、また桜内が笑う。
「通過儀礼きたあ! あっはっはっはっ」
「通過……?」
僕の疑問に答えてくれたのは井宮だった。
「そう言うわけでもないんだけどな……。この組織に入ると、一度は失言して色奈さんのチョップをくらうっていうジンクスがあるんだ」
失言……失言だって? そんなところあったか? 今の一瞬で記憶が消えたか?
「本人は苦しんでるんだから、そういう言い方はダメだよ」
「はあ……」
僕は肩を竦めるしか出来なかった。
「悪かったよ。でも、みずきちゃんは回復するってのはたしかだと思うんだけど」
と、僕は一通りの作業を終えて一服していた光野さんに視線を送った。
「光野さんはどう思うかな?」
東条さんの発言を機に、この場にいる人間の視線が彼に集まる。
光野さんはタバコを灰皿にすり潰し、頭をかいて言った。
「話したこともない奴の心を読むなんて、そんなの紫橋さんでも厳しいだろうってのに……」そうは言いつつも彼は続ける。「ま、話を聞く限りじゃあ、良くも悪くも法号つるぎの死が影響するだろうな」
「良くも悪くも?」
東条さんが小首を傾げて訊き返す。なかなかにあざとい仕草だが、きっと自覚はないだろう。
「ああ。自殺の勇気がないって見解だったが、そりゃあ間違いだ。彼女はたしかに自殺できる強い娘だ。けど、物事を一発で熟せる人間なんてそういないだろう? 自殺となりゃあ初見は躊躇するもんさ。それに、四階程度で人間が確実に死ねるかってのも疑問に思うだろうしな。姫乃が駆け付けなかったところで、自殺は中止していただろうよ」
「つまり、時間が経てば自殺する可能性もある……ですか」
「時間が経てば人は成長する。心に穴を開けたまま、な。妹想いの姉が死んで、それでいつまで無事でいられるもんかなあ」
それが悪い影響なのだろう。
「そんで良い影響は……《愛》だな。法号つるぎの死んだ原因はもとを辿れば法号みずきが壊れたことだ。彼女もそれは理解しているだろう。だってのに、自殺なんてしちまったら今以上に法号つるぎは無駄死にさ。そんなの報われねえだろ? だったら、法号みずきが姉の愛に、期待に応えようって思うこともありえるんじゃねえか?」
つまりは、誰かがみずきちゃんを支えたら良い方向に進むと。
その役目がこの場にいる誰かにあるとは思えないし、責任もないだろう。
けれど、僕に関しては一応自殺の直前に立ち会っているわけで……それに加えて、救うための嘘も吐いたわけで。
……このまま赤の他人としてさよならって選択をしたら後味が悪いのは事実だろうな。
暗い話はここで終わり、徐々に賑やかさがもどってくる。その時間は本当にあっという間で、今までに経験したことのない感覚だった。
こういう空間も悪くないなあ、と思った。
そして午後四時。せっかくなのでカラオケに行こうという話になった。ここまで来ると行く流れになるのだが僕は断った。
面倒だからというのも事実なのだが、何より今は体調が良くない。未来を見た反動がまだ抜けていないのだろう。そう説明すると、さすがの桜内も大人しく引いた。
三人は先に出て行った。
静けさだけがこの場に残される。
僕は柩ちゃんと一つ席を空けたところに座った。
「一ついいですか?」
僕はカウンターの光野さんに言う。
「なんだ?」
「未来視のデメリットって、いったい何があるんですか?」
「そんなことか。そうだな……閲覧の場合だったらデメリットはなし。ありゃあ魔法や超能力みたいなもんだからな。予測だったら……脳を休めるための時間が長くなる程度だろうな。いや、目眩や頭痛もあるか。他は聞かない」
腕を組み真剣に答える光野さん。決して何かを隠している風には見えなかった。
隠しているようにみえれば──そう見えていれば、安心できたのに。
「何かあったのか?」
「いいえ、別に。ただの確認ですよ」
僕は席を立って、
「お邪魔しました」
と言って外に出た。
意外なことに、東条さんが待ち構えていた。先ほどまでの笑顔は見えない。
「大丈夫?」
「うん」
僕は答えた。……答えてしまった。
「ここは『何が?』って訊き返す場面だよ」
「……今気付いたよ。何が?」
「光野さんも知らないような反動があるんだね?」
東条さんの碧眼は僕を射抜くようだった。そんな目で見透かされたらさすがに否定なんて無意味だろうし、冗談で誤魔化そうとしたらまたチョップを喰らうことになるだろう。
僕は正直に答えることにした。
「まだ実害は出てないんだけどね。なんというか……直感っていうのかな。『何かある』という感覚だけが頭の中にあるんだ。誠司さんにも、何か意味ありげなことを言われたし……」
東条さんは顎に手を当てて考え込む。その思考を中断させるべく僕は口を開いた。
「実害はないって言っただろ? 東条さんが気にかけるようなことじゃあない」
「赤の他人ならいくらわたしでも気にかけないよ。でも、君ならそういうわけにはいかない」
美人と睨み合うような状態が続くのは未知の緊張だった。
しかし、意外なことに先に折れたのは東条さんだった。……いや、呆れられただけなのかもしれないが。
「分かった」そう言って肩を竦める。「でも、その実害が出たらちゃんと言うこと」
いいねと有無を言わさない言い方をされてしまったら、僕としてはどうしようもない。
出来る限りこの人に心配はかけたくなかったのだが……。
──何故?
どうでもいい。今回は色々と疲れた。自分なりに小難しいことを考えて……もうたくさんだ。たまには何も考えずに思うことも許されるだろう。
この人に迷惑をかけたくない。この気持ちに意味と理由を見出すことはない。
「……分かってるよ。その時が来たら、問題は全部東条さんに丸投げするさ」
「うん。ならよし!」
そう言って眩しい笑顔を見せてくる。
そうか。この人は依頼もなしに赤の他人を助けるような人だった。
きっと、僕が思っている以上に、この人は異常な正義感を持っている。
「さ、帰ろっか」
東条さんに続いて少し後ろを歩く。
彼女の背中に見慣れたわけじゃない。知り合ってからそこまでの時間が経ったわけではないし、それは当然だ。
けれど、どうしてか。
どこか懐かしく、不思議と安堵の気持ちで溢れるようだった。
×
「はあ、あ」
制服を着た少年が死に物狂いで走っている。それだけならば、特に異様と言うこともない。けれど、頭部から爪先まで無数の切り傷があったのならば話は別だ。
傷口から溢れる血などは気にせず、彼は必死に生きようとしている。
次第に彼が行き着いたのは人気の全くない路地裏。日の出ているうちでも闇に呑まれる場所だ。
「くそ! なんでっ……!」
持っていた鞄を投げ捨て、さらに奥へと進む。中から飛び出た生徒手帳に書かれた名前は……《大山和人》。四年前、法号みずきが壊れるまで強姦した男だ。
「おいおいおいおい……」
廃ビルに囲まれた空間に辿り着いた──否、辿り着くしかなかった。
生死がかかっている状況だ。それなのに、わざわざ相手を誘い込むようなことをする意味はない。和人には自殺願望があるわけではないし、生存意欲があるからこそ、諦めようとする身体にムチを打って走り続けた。
当然、最初は人通りの多い方向へと走った。けれど、その方向へ向かった途端、和人は体のあちこちが切り刻まれた。目を凝らしてみると、そこには巨大なクモの巣のようなものがあり、自分を傷つけたのがそれだと分かった途端、追跡者への恐怖が増大した。
それから何度も何度も切り刻まれ、まるで誘導されるように逃げ回った結果が今だ。
安心安全などとは程遠い、追跡者のためのテリトリー。
「あ? ここ……って」
古い記憶が蘇った途端、
こつん、と。
「そう。あんたがえっちぃことをしたところだ」
和人をこの場所まで追い詰めた人物の足音が響く。
振り向いた途端、和人の指先から爪先、そして首までも全体的に何かが巻きついた。
動いたら、死ぬ。
直観で理解した和人は、声を上げることすらもできなかった。
「もう日付けが変わるってのに、どうして遊び歩いてたんだあ?」
そう言って、握り拳を引く。
同時に和人の体も締め上げられる。
「な、っんなんだよてめえ……」
「例えば。あたしがあんたの兄貴をぶち殺したとしよう」
「!」
「その時、あんたはあたしを憎むはずだ。『殺したい』と思うほどに憎む。けどさあ、あんたにその権利はあんの?」
和人が追跡者の顔をとらえる。
「もちろん、ねえよなあ?」
苗色のセミロングに青漆の瞳。可憐で凶悪な少女──桜内桃春。歪みに歪んだ微笑みに和人は恐怖で身を震わせた。
桃春はポケットから何かを取り出し、和人に向かって投げた。彼の胸に当たり、地面に落ちた時——和人は絶句する。
それは、眼球であった。
「あんたの兄貴のもんだ」
和人と同い年かそれ以下の少女……そうだと脳で理解していても尚、桃春に対する恐怖感は増すばかり。
「ど、どうして……」
「『どうしてこんなことをするんだ?』ってか? 答えは簡単……『キモチイイ』からだ」
桃春は人差し指を和人に向けて答える。
「あんただってそうだっただろ? キモチイイからヤったんだろ? あたしも同じだ。悪人をぶち殺すのがたまらなく快感なんだ。強姦の記憶のせいでまともに生きて来れなかった彼女の思い。そんな彼女を救おうとして死んだ人の思い。全部あんたの体に刻み込んでやんよ」
「なら! なら、おまえはどうなんだよ! おまえだけは殺人が許されるってのか⁉︎」
桃春が拳を自身の顔の前まで運び、
「それを考えるのは、あたしじゃねえ」
そう断言した。
直後に和人の悲鳴が響き渡るも、それはほんの数秒の出来事だった。
×
「さてさて。お仕事終了だな」
血溜まりを見て桃春は呟く。
そこの中心にあるのは死体ではなく、死体になりかけのモノ。辺りに大量の血液や抉れた肉が散乱としており、その光景から和人の状態が酷いものだと理解できる。
しかし、和人の傷はある程度縫い合わせられており、最低限度の応急処置は施されていた。酷い状態とはいえ、それは『死』からはかけ離れていると言える。
「紅葉から受け継いだ魔力がこんな使われ方をしちゃあ、あいつも浮かばれないよなぁ……。……こいつからあたしと出会った記憶は消したか?」
どこを見つめるわけでもなく、桃春は言った。
“とっくに”
と、彼女にだけ聞こえる無機質な少女の声。その正体は桃春の精神的負担を全て請け負う彼女の肉体の中のもう一人。
「どう思う?」
“主語”
「こいつが言ってただろ。『おまえはどうなんだ』ってよ。あたしは弱っちい思考ができないんだ……あんたに任せてるからな。知ってるだろ? だから、教えてほしい。あたしは──いや、あたしたちは罰を受けるのか?」
“幸せになれない”
「ふん……相変わらずの語彙力なことで」
つまらなそうに呟き、桃春は路地裏を後にする。
『幸せになれない』──それを苦痛と感じるのは、幸せを願う人間だ。自信を幸せだと思ったこともなければ、幸せでありたいと願ったことすらない桃春にとっては本当に些細なことである。
しかし、彼女の中のもう一人は違う。少女は肉体の主導権を盗むことが叶うのなら、幸せへと一直線に向かおうとする。
長い間同じ時間を過ごしていて、その思いに気付かない桃春ではない。
だから──
「そん時が来たら一緒に死んでやるよ。だから文句言うな」
遠い目をして夜空を見上げるも、雲が星々を隠して退屈な景色が広がるばかり。桃春は大きくため息を吐いた。
藍歌姫乃。心の底を隠しているようで、何を思考しているのか不鮮明な人間。そんな彼と同じような言葉を吐いた事実に桃春は自虐的に微笑んだ。
「一応の問題は解決したってのに……ほんっと天気は空気読まないね……」
桃春は雲一つない夜空に見える星々を睨んだ。
それでもすぐに軽快な足取りになって進み、彼女はどこか寂しげに息を吐く。




