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無彩色の願望  作者: 哀川
第四章 屍の器

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第三十話 心に刻む死

 ×1


「ボールを受け取って欲しかった……それがわたしの本心です」


 九織は狂気を横目に言った。グラウンドの中央には赤髪の彼が居る。

 火駒番と名乗った男。狂気を発現させた瞬間こそ驚いていたものの、今では冷静に見える。桃春と少女が後ろで笑っていたように、この男もまた相当肝が座った人間なのだろう。

 逃げてくれたら良かったのに。


「話には聞いていたが……そうか! 計り知れん──計り知れん!」


 逆効果だった。彼にとっての『正義』を刺激してしまった。

 九織に殺意を向けたまま、


「Xiuhtecuhtli──!」


 叫んだ後、左掌から橙色の二十センチほどの杖を発現させた。

 ──彼の頬が、わずかに焼け落ちる。


「……本当に、それ以外の方法はないんですか?」

「俺はかつて、正義を《絶対的な権利》だとばかり思っていた。権利が世界を統治し、回し、安寧をもたらす。それで俺の周りが笑顔でいてくれるなら、喜んで歯車となってやる。──弟が貴様らのような器に取り込まれる前まではそう思っていた」

「……?」

「正義は個人だ! 正義の対立を解消するのは殺し合い。だから俺はこう付け加える。『生き残った方が正義だ』と。歴史が勝者の綴る記録であるように」

「それは横暴ですよ……」


 どうせ伝わらないと知った九織は独り言のように囁く。

 哀れみの視線。諦めの姿勢。

 どのような言葉だろうと、彼の前では重みも含みも持たない空白に等しい。使う言語が同じと言うだけで話は通じない。

 何をどうすればいいというのか? それは、彼が宣言した通りなのだろう。

 火駒番が杖を振るうと、空へ駆ける勢いで地面から五本の炎の柱が発現した。

 熱風に目を細める。

 ──眼球が溶けてしまいそうだ。


「言い遺すことはあるか、孅媛な名を持つ娘」


 九織は考える。遺言を──ではない。そんなものは思い浮かばなかった。きっと、自分がここで死ぬことはないという直感があるからだ。

 今考えるのは、彼だったら、藍歌姫乃だったらなんと答えるか。


「……ダメだな」


 分からない──というより、この状況で彼が遺言を落とすこと自体が想像できない。


「あなたに伝える言葉はない」


 九織は宣言する。

 予想外の答えを受けた火駒番は「そうか」と残念そうに頷いた。


「ならば、無念を抱いて死──」


 火駒番が杖を振るうよりも先、狂気が開口する。

 五秒間に渡り狂気の音が鳴り響く。火駒番の体ががくりと崩れるとともに炎が弱まる。その隙を見て、狂気は九織を抱えて炎の檻を脱出した。

 足をつき、九織は火駒番を睨む。こちらの思考を隠す役割を担う顔。そう。九織は内心不安があった。遠くの背後の体育館にまで狂気の影響が与えられた──気がしたのだ。あちらの状況が見えずに狂気を乱用するのは諸刃の剣となる。かと言って音の制御はまだ難しい。それを悟らせないためのポーカーフェイス。


「いや……これは素直に驚いた。まさか、これほどの……。しかし、だからこそ『諸刃の剣』と言うべきか」


 見破られた。

 彼はたしかに露骨に動揺して、その足すらわずかに引いていたというのに、それでも冷静さを手放さなかった。


「今の声──いや、『音』か? あまりにも強力だな……。しかし、君の仲間にまで影響があったことだろう。精密な操作はできないと見た。向こうの状況が見えない今、それを使って状況がどう転ぶか……時の運でしかないだろうな」


 まったくその通り。加えて九織は完全な魔術師ではない。あくまで楊絵の遺物が適応しただけで、その他の戦術を持ち合わせてはいないのだ。

 火駒番にしてみれば、狂気を剥がすことさえできれば九織など取るに足らない。

 状況は圧倒的にこちらが不利。

 しかし、どうしてか──九織は負ける気がしなかった。この気持ちの確信の先には彼が居る。

 きっと、彼が生きているから、死ぬ気がしないのだ。


「無茶苦茶だよ……」


 九織は一人、笑顔を作る。

 幻聴は聞こえない。

 狂気は何も答えない。

 当たり前。この世界は当たり前で満ちている。

 常識を打ち砕くための道具はここにある。


「不利という常識は、わたしが破壊する」


 ×2


 白瀬九織の微笑みは、まるで何者かを憑依させたかのように別物の雰囲気を放っていた。無論、彼女にそのような力はない。


“狂っているのか、それとも──”


 火駒番は常に警戒を怠らない。あの態度が道化である可能性は捨てず、狂気がどこまでのことをできるのかを見極める。

 その目論見を壊さんばかりに、狂気は一息で火駒番に詰め寄った。


 かつて。ターゲットとなった器には一般人だけでなく魔術師もいた。当然戦闘になり、そして今火駒番が息をしていると言うことは、その死戦を潜り抜けたことを意味する。数を重ねるごとに自信に変わる過去は、いつしか一つの感情を麻痺させた。

 ──恐怖。

 長らく忘れていた。


 狂気の刃物のような爪が火駒番の首を狙ったその時、恐怖という感情が全身を支配した。

 大きく後退し、炎の柱を最大火力で狂気に喰らわせる。

 あまりにも重い一手の反撃に火駒番は息を切らす。

 狂気という概念は言うまでもなく、白瀬九織が自分から狂気を寄越すことに驚きを隠せなかった。

 彼女は魔術師としての腕は立たないと見ていた──故に狂気という最大の防御をその身から離すことはないと……そう確信していた。


“──このオンナ、死ぬのが怖くないのか?”


 見下していたはずの少女に対し、火駒番は恐怖を自覚する。

 自身も目的達成の為には命を投げ出せる。しかし、白瀬九織のような『女の子』が同じ精神力を持っている事実には素直に恐怖してしまう。

 つい先日に風荻吉野によって痛めつけられた後だと言うのに──


「何故そんな顔ができる……!」


 炎が消える。

 黒く死んだ狂気の向こうで、彼女は華のように微笑んでいた。その目の奥には明確な殺意が含まれている。

 杖を振る。

 九織の足元に展開された魔法陣から炎が発現するよりも先、灰となったはずの狂気がその形を取り戻した。


「このバケモノ──!」


 突進してくる狂気を再び焦がす火駒番。九織の方の術式の展開が完了したその時、既に彼女は回避していた。当然だ。彼女は物言わぬ案山子などではない。

 生きて動く。

 一方で狂気などという異次元の存在を相手にしなくてはならない。『二人』の行動を同時に読み、その上で詰めることは簡単では無い。

 狂気がいつこの炎を飛び出して来るか分からない緊迫感の中、火駒番は冷静に九織を一瞥する。


「……!」


 彼女の足が震えていた。

 のらりくらりと、その様はまるで酔っ払いだ。


「正気を失っているのか……いや、これは……」


 鼻血をこぼした様子を見て確信する。この力は長くは持たない、と。

 狂気という強大な力が白瀬九織の感情を素としているのは明白。狂気の状態や行動が彼女自身に影響を及ぼすことは想像に難くない。


「ならば、これは『詰める』だけだ」


 手順は変わらない。狂気を重点に相手しつつ、その片手間で白瀬九織にも仕掛ける。

 それが火駒番にとっての最善策であり安全策であった。そんな中でも不安要素は存在する。


“白瀬九織の体力がどれだけ持つか。俺の精神がどこまで持つか──”


 立ち上がる狂気を前に確信する。この邪悪を相手にし続けるものなら、たとえ音がなかろうと正気ではいられなくなる──と。

 想圏ですら敗れたことの重大性を今一度思い出す火駒番。

 彼の胸の内では冷静と緊張が入り混じっていた。


 そして、白瀬九織はただただ妖艶にその目を細めるのだった。


 ×3


「まだ、だ」


 鼻血を拭う。ぼやける視界に込み上げる吐き気。

 九織がふと下を見ると、赤い光を放つ魔法陣が現れていた。横に転がり炎を回避する一方で狂気をコントロールする。

 速さだけを求めた狂気の爪に火駒番は多くの傷をつけられていた。軽傷でしかないのだが、その痛みは着実に彼から正気を奪っていく。しかし反撃を欠かさない火駒番──どちらも消耗が激しい攻防が続いて三分が経とうとしていた。

 火駒番はどれだけ狂気に呑まれつつも冷静だというのか──彼は九織を校舎側に追い詰めていた。狂気を相手にしつつ、体育館には近寄らせない器用さは、九織の警戒心を最大に引き出した。

 ──しかし、狂気が殺される度に与えられる死の感覚に、二つの肉体を動かす精神的負担はとうに限界寸前だった。


「……それじゃないんだよ」


 九織は体の負担も考えずに立ち続ける。


「わたしが欲しいのは……」


 狂気がより敏捷な動きになる。

 炎を斬って道をひらき、火駒番の胸を裂く。


「ぐ、はははは!」


 彼の表情が崩れる。後方に大きく跳躍し、右頬の皮膚が全て焼け落ちた。

 今までにない大きさ──半径十メートルはあろう魔法陣がする。狂気がその範囲から脱するよりも先、灼熱の柱は狂気を消し炭とした。

 死の感覚はもちろんのこと、熱風により九織の喉が焼ける。だが、まだ動ける。それは望むところではないのだ。

 九織は彼に嘘が通じないものと確信している。故に己の肉体に真の限界を望む。

 それと同時に彼へ望むものが重なれば、あるいは──。

 狂気と正気の入り乱れる攻防が更に一分過ぎた時。

 九織は地面に倒れ伏せた。蒼白さが増す彼女の顔を見て、火駒番は


「このような幕引きとはな」


 と、狂気を横目に焼き払った。今まで即座に再生していた狂気の回復速度も格段に落ちている。


「本来だな、白瀬九織……おまえの歳で『遺す言葉がない』というのはあってはならないのだよ。死んだように生きなければ──死屍のような人生を歩まなければ、その思考には至らない。戦う前のおまえを見ればわかる。白瀬九織を愛した者は多い。どんな小言でも遺すべきだったぞ」


 彼の言うことは最もだ。九織は地面の魔法陣を見ながら素直に思った。


「残念だよ。良い名前を持ったのにな」


 魔法陣が熱を帯びる。

 抵抗すらもままならない九織は叫んだ。

 九織は叫んだ。

 狂気は叫んだ。

 ──魔法陣の、消失。


「は……?」


 彼の横に立つ狂気。

 口が開いており、その音をふんだんに鳴らす。


「わたしは油断が欲しかった。狂気を即『諸刃の剣』と見抜いたあなたが油断するところを……。初手以外で音を使わずに、わたしが本当の限界を迎える。『白瀬九織は結局何も犠牲にする覚悟を持たずに死んでいく』と印象を与えれば──」


 火駒番の魔力が制御不能となる。杖までも消失し、身体強化も思うようにいかない。

 彼は口端を吊り上げた。


「確実に、逃すことなく、冷静なあなたの反撃を喰らうこともなく、仕留められる」


 狂気が火駒番の首を掴む。


「かははは! おまえ、これからどうする? その力──気に食わん奴を虐殺することだって容易いぞ! 一度、己の能力に気づいてしまえば、それに溺れるのは人間の性! 屍の器がそうであったように! 白瀬九織、おまえはこれからも殺し回るか?」

「わたしは虐殺なんてしない」


 重い体に鞭打って九織は立ち上がる。

 これだけは彼の目を見て言わなければ──使命にも似た感覚だった。


「好きな人を理不尽から守るだけです」

「──おまえが桜内桃春を気にせず『音』を使えた、なるほど自己満足か。それができたのか……狂人め」


 魔力の暴走は計り知れず、ついに火駒番の全身が炎に包まれた。

 狂気は手を離し、彼の体が地面に着くよりも先、渾身の力を振り絞って拳を腹部にめり込ませる。

 火駒番の体はグラウンドを優に越え、遠くの茂みに消えていった。

 視界から消えたにも関わらず、九織は彼の方を見つめたままだった。

 ──最後の最後で勘違いされたままというのが我慢ならなかったのだ。故に九織は口にする。


「自己満足なんかじゃない。信頼です。あなたには分からないかもしれないけれど」


 ×白瀬九織


 彼のような信頼を捨てた人には、わたしの言葉は言い訳にしか聞こえないのだろうか。なにも産まれた時から理不尽が彼を囲んでいた訳ではないだろうに、どうして真っ先に『自己満足』などという発言ができたのか?

 彼はわたしの理解の外側に居た。互いにどれだけ言葉を選んだところで相容れない。


「善悪が生死で決まる訳だ」


 そのやり方が間違っていることは大前提として、わたしは勝った。悪と自覚して逝ってください。

 遠くで炎が消えた。

 手を合わせて目を瞑り、今にも壊れてしまいそうな体で体育館へと向かう。

 そこには誰も居なかった。

 破壊の跡と血痕があるだけ──。


「……まさか」


 嫌な光景が脳裏を過ぎる。

 破壊も血痕も出入り口へと続いていた。最悪の予測を頭に跡を辿る。

 不気味さが一層増す廃校舎。自然と息が上がる。体力の問題ではなく、もしかしたら……桃春の身に何かあったのではないかという予測が、どうにもわたしを疲弊させるのだ。

 彼に勝ったとはいえ、もしも狂気が原因で桃春の敗北を招いたのならば、自己満足と責められれば反論はできない。

 なんとか屋上までたどり着いた。扉は蹴り破られているように見える。

 そこには──桃春が居た。

 さらにその奥にはダンサーのような少女がフェンスに拘束されている。まるで蜘蛛の巣に捉えられた虫のようだ。この糸……桃春の武器だろうか。少女は大量の血を流して気を失っている。


「お。さっきぶり」


 わたしに気づくと、桃春は平気な顔で手を振った。

 彼女の隣まで足を進める。この娘……多少苗色の髪の毛が乱れているが、それ以外に変わった様子はない。


「む、無傷……」


 いや、勿論嬉しい話ではあるのだが……これはこれで予想外だ。


「じゃねーって。よく見ろよ。右腕にヒビが入っちまった」

「見て分かる傷じゃないよ……」

「まあそうか。色々火傷しちまったあんたよりは軽傷ね」


 安堵の息を漏らして座り込む。


「あんた──狂気の叫び声にはヒヤッとしたんだよ? いきなり魔術使えなくなるしさー。しかしまあ、幻術も厄介と言えば厄介だった。けど……音、匂い、形のどれから幻術を仕掛けるかわからない白鏡に比べりゃあこいつはただのヒヨコ。踏み潰しゃ簡単に死んじまう」


 疲れた。楽しそうに肩を組んでくる桃春に対して相槌も打てなくなるほどだ。

 ……少女をよく見ると、両膝と両肘が抉れており、それでいて四肢が引き伸ばされた状態なものだから千切れてしまいそうになっている。だが呼吸はあるようだ。


「トドメを刺さないのは意外だな……」

「そりゃあ、こいつらのアジトがどこか一応聞いておきたいし」

「ああ……たしかに」


 このまま「また明日」なんてことにはまずならない。わたし達がすぐにアジトへ向かうことはあってはならないが……しかし、日付が変わってしばらく経った後ならば勝負はついているであろう。その時すぐに藍歌くんの無事を確かめたい。

 ……家に連絡しておかないと。今度こそ警察に連絡が行くかもしれない。


「まあ、こいつ話通じないっぽいけど。多分どっかしらおかしいんだと思う」と、桃春は自分の頭をとんとんと指した。


「死ぬまでに吐いてくれたらいいけどなぁ。あ。あんたの狂気の音を聞かせ続けたら脳のバグが逆に治るみたいなことってないか⁉︎」

「ごめん桃春。少し寝る」


 わたしは彼女の太腿に頭を乗せた。


「え、マジ。今? この状況で? え……えぇ……」


 意識が落ちる。あの桜内桃春を困惑させたという謎の誇らしさに一寸の喜びを抱えながら。


 ×藍歌姫乃


 思えば《それ》は存在して当然だった。この事態を予測できなかったのは完全に僕の頭が足りなかった。

 赤眼の死体の中に防衛本能を詰め込み造り上げた絶対的な盾。

 しかし、敵が何もしてこないのならば? 或いは死体を破壊されたならば──。

 そう。当然、矛が必要となる。

 赤眼の盾。

 花の矛。

 落下の最中に視える、いくつものみらい。死体とも人間とも断言できない彼女が、口元から上の芍薬をいっぱいに咲かせ、花びらを僕に飛ばしてきたのだ……非常に鋭利な形状をして。


「こんな未来ばっか……」


 だが、一応の情報は落ちた。いずれの死も着地してから『僕が様子を見た後』に訪れた。

 なら、やることは一つだけ。

 落下直後に僕は地面を蹴る。即座にナイフを彼女の首に振るう。やられる前にやるってだけのヤケクソじみた策だが、うまく入った。彼女の首を半分裂くことができた。

 返り血を浴びて殺せる温かさを持つことに安堵する一方、微笑を浮かべていそうな唇のままであることがやはり化け物なのだと思わせる。

 立て続けに首を狙って頭部の切断を試みるが……地下室から大量に伸びてきた茎やツタ(触手と言った方が正しいかもしれないが)を見て、僕は一度身を引いた。

 びびった訳ではない。ただ、首を切り離したところで本当に活動停止に追い込めるのかという不安──しなかった場合、奴の懐に入ったままであれば敗北するであろうという予測は眼を使うまでもなかったということだ。

 しかし、こうして距離を取ったところで次のみらいがやってくるだけ。

 ……切り抜けられるのか? この僕が……。

 決心がついていないにも関わらず、僕は駆け出していた。分裂するもう一つの視界を頼りに、僕の命を刈り取ろうとする植物を切り避けながら。

 またも彼女の懐に入り、なんだ僕もやればできるじゃないかと自己肯定。

 さてどこを切ってやろうかと考えていると──


「あれ……?」


 首の傷が消えていた。そっか、首はダメなんだ。それならばと視線を落とす。彼女の心臓は確かな鼓動があった。

 即座にナイフを彼女の胸へ突き出し、


 ×


 空を舞っていた。教会が七メートルほど下にある。

 何故? 状況が繋がっていない。

 屋根に穴が空いている。

 あー……そっか。思い出した。僕は地下室の更に下から伸びてきた触手に肋骨を突かれたんだった。瞬間、僕は痛みに気を失った訳だ。ナイフを握ったままなのは奇跡だな。


「か、は……」


 上手く呼吸ができていない。

 このまま落下して教会内で戦っても奴の思う壺だ。ここは一度退こう。

 屋根に着地し、息を乱しながらもなんとか山の奥へと走る。

 ……身体強化は正常だ。魔力が十分に全身を駆け巡っている。それでいてあの威力? やばいんじゃないか……。

 勝ちが視えない。


「どうしたもんか」


 僕が彼女の心臓を狙った途端に本気の反撃がきた。つまりはあそこが弱点なのだろう。最初から全力でないのは……警戒しているのか舐めているのか、或いは楽しんでいるのか。

 芍薬の花。

 たしか恥じらいや謙遜の意味があった。花言葉に詳しいようなロマンチシズムを持ち合わせている訳ではないが、どこから手に入れた知識か……一方でよくない意味もあった……と思う。


「花言葉はともかく、見た感じで言ったらそうだ……」


 大樹に背中をあずけて、呼吸と共に思考も落ち着かせる。

 羽澄楊絵がそれを見て《死の奔流》としたように。

 白瀬九織がそれを見て《狂気》としたように。

 僕から見た彼女は──


「憤怒、だな」


 その中に戦いを楽しむ残虐性が含まれているのなら、隙を突くことだってできるかもしれない。



「わたしが二十六の時だ」



 ──教祖の声が聞こえる。まだ距離がある筈なのに、その声が四方八方から反射しているようだ。


「イギリスの魔術開発局に勤めていた。ある日わたしは教育機関に足を運んでね……勿論『裏』のだ。そこで出会ったのだよ。かなめ梨梨りなという日本人に。

 彼女はイギリス人に日本語を教えて生計を立てていた。その一環で英語から日本語への魔術詠唱置換を業務に機関から呼ばれていたのだ」


 いきなりの昔話に戸惑っていると、周囲の植物が異様なざわめきを見せる。

 何かが空を切る音がし、上を見ると、彼女が──芍薬が落下してきた。

 間一髪でそれを避けると、先ほどとは比にならない数の触手が襲いかかる。


「わたしの母が彼女の同郷ということもあって、彼女とはすぐに親しくなったよ」


 視ても視ても終わらない死。先読みができている筈なのに一歩退かされる実力差。


「彼女と結ばれるには二年とかからなかった。わたしには彼女が必要不可欠だろうという蓋然的判断だった。──恋というのはわからんモノだな」


 ダメだ……死を避ける未来じゃなくて、決定機がほしい。じわじわと削られる一方だ。


「命を授かったのは二十九。正体不明に遭遇したのは三十五だった」


 ……やべえ、ちょっと気になる。僕は惑いながらも動きを速める。


「その彼はわたしの娘を誘拐した。妻の携帯を使って連絡を寄越してきたのだ。『一人で今から送る住所に来い。さもなくば妻子の命はない』と。わたしは冷静に一度家に向かった。荒らされた形跡はない。ただ、リビングには妻が横たわっていた。死んでいたよ。その肉体は機能していなかった。

 しかし疑問だったのだ。外傷一つない。魔術の痕跡もない。殺されたにしては美しすぎた。それに、犯人は『妻子』と言っていた。わたしは何かしらの魔術で魂を引き抜かれたと判断してすぐにその住所に向かったよ。解体途中のビルの屋上に彼と娘は居た……娘を猫か何かと思っているのか、雑に首を持ち上げ、一歩退けば五十メートル落下する場所に立って。

 彼はわたしの同僚だった。成果をあげて光が当たるわたしに嫉妬したのだと言う。『それだけのことで──』と口走ってしまったが故に、彼は娘の首の骨を簡単に折って投げ捨てた。失う物がなくなったわたしは彼を殺しに走ったが、そこで彼はわたしの妻と入れ替わったのだ。最初こそ演技と疑ったが、彼女しか知り得ないことや──それ以前に感情表現で妻が彼の中に囚われていることは確信できた。

 彼女は言った。『助けて』と。そして彼は飛んだ。その肉体はしっかりと頭が割れたよ。楕円に変形したそれから中身が溢れるところまでこの目に焼き付けた」

「穏やかじゃないですね」


 僕は答えた。彼には聞こえているのだろうか。


「わたしは警察よりも先に彼の家へと向かった。彼がどのようにして魂を引き出せたのかが知りたかった。しかし、どの研究資料も低俗なものばかり。諦めかけていたところに古い資料を見つけた。そこには、彼の『体質』についての記しがあったのだ。彼はその産まれより魂の感知に長けていた。歳を重ねて力を自覚するにつれ、それは感知の域にとどまらず、干渉へと踏み込んだ。死者生者問わずしてその魂を己の肉体に閉じ込める──彼はそれを《先導の器》と名付けた。

 資料に記されていたことがこれだけならばわたしも自殺して終わったのだがね……器が他にも生きていることがわかったのだよ。途端にわたしは《透視の魔眼》に目覚めた」

「──!」


 透視──不可視の概念、他人の思考……そして、魂のカタチさえも認識することができる希少の魔眼、だったか。

 そうか。だから見抜けたんだな。

 ……あれ? 何か見落としてないか?


「器を殺戮することを誓ったが、しかし無実な人を殺すことは妻が許さん。だからわたしは線引きをした。魂を閉じ込めていたら悪だと。器を殺して五人目で気付いた……彼ら彼女らは器であっても《先導の器》ほどの機能は持ち合わせていない。下位互換──欠陥品……表裏教会では秘密裏にこの存在を《屍の器》と称していた──もっとも、これは想圏の入れ知恵なのだがな」


 酷い人だ。悪意の持たない人を殺すだなんて。と、僕は適当を思った。


「自覚がなければ罪ではないのか? 否! 無知蒙昧であろうと世界は裁きを与えるべきなのだ。先導の器となり得る可能性を持つ死屍の器──彼らが力を自覚した時、また次の犠牲者が現れる。その時の抑止力となるのがこのわたしだ」

「……なるほどなあ」


 壊れ方の理由から行き着いた先まで一貫している。そこは納得した。その上で僕はどうでもいいと思う……僕の目の前に現れなければだが。

 しかし、僕は思ってもないことを口にする。


「あなたも、覚醒した力に溺れて殺し回ったんだな」


 あまりにも気持ちの悪い考えに即刻前言撤回したくなるが、無数の触手を捌きながらなんとか本心を抑える。


「私欲にまみれた世界を言い訳に殺し、存在したかも分からない犠牲者を未然に救ったと錯覚し、奥さんと娘さんを殺した奴の同類に落ちる。ゴドーも大爆笑ですね」


 おっと。ゴドーは居ないんだっけ。


「……仇討ちと正義のつもりなんでしょうけど、そこら辺はやっぱり宗教ですね、押し付けがましい。奥さんと娘さんも地獄で呆れを通り越して笑ってると思いますよ。あ……教祖様。あなたの世界に天国地獄の概念はありますか?」


 試されていると思った。

 彼は自分の過去を語って僕がどんな反応をするのか、それが知りたいのだと勝手な推測した。

 だから、彼の予想外を突いた。


“言葉が通じるのなら、そこから人はいくらでも死ぬ。殺せないのは感情のない生き物だけだ”


 そうでした。あなたにはそんなすり込みもされていました。


「防衛本能に憤怒の心があなたにある時点で感情豊かな人間だ。どれだけ人を殺そうとね」


 花の攻撃速度が増した。

 明らかに僕の発言に釣られて、速さの代わりに精度が犠牲になっている。そこから視える突破口。僕の死の未来が彼女を斬る為の道筋へと切り替わる。多少傷を負うことになるが、信じて辿るだけでいい。

 所詮は奴も人間。

 こんな使い魔を造る時点で。

 あんたの上部だけの心が、僕に余裕を与える。

 未来をなぞる。

 頬が、肩が、脇腹が、腿が裂けても止まることはしない。

 遂に、刃先が彼女の胸を掠める。

 怯んだ隙をつき、僕は彼女に飛びかかって馬乗りになった。

 無数の手数で反撃する彼女。

 解体を続ける僕。



 ところで、無意味に蟻を踏み潰した時間が僕にもあった。昔のことだったか、つい最近のことだったか。それほどまでにどうでもいいことだった。踏み潰すことになんの意味もなく、意義も見出せず、振り返ったところで有益性は皆無な時間。

 ただ一つ。

 とても過ぎるのが早い時間だったこと。

 ──今僕が花と人の形だったはずの肉塊を踏み潰しているように、あっという間だった。

 足の裏の地獄は平かった。

 そして、ついにナイフが刃こぼれしてしまった。早見さんに強化を施してもらったとは言え、所詮はネットショッピングの賜物。そう考えればよく頑張ってくれた物だが。

 ナイフを彼女に投げつける。

 虫の息だったところ、完全に停止した。


「殺せた……殺せたんだから、殺せる……」


 ……よくないな。殺す殺すと繰り返していたら、それはまるで白鏡鈴美さんの言うところの『面白い殺人鬼』だ。

 面白くない人殺し。

 僕の役割はその程度でいい。


「藍歌姫乃」


 教祖が言った。彼は数メートル先、防衛本能を横にして僕を見る。じっと顔を合わせて、その固い表情のまま、ようやくの思いで吐き出す。


「君は最高だ」


 僕はどうもと返して次を視る──

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