私が死んだら、こうやって憑りついてあげる
こちらは長岡更紗様主宰『アンハピエンの恋企画』参加作品です。
メリーバッドエンド(受け手の解釈によって幸福と不幸が入れ替わる結末)です。
苦手な方はご注意くださいm(__)m
「だーれだ」
大学構内を歩いていると、突然背中にずしりと重みを感じた。
誰かが僕の背中におぶさってきたらしい。
いや、誰かなんていうのはわかっている。
「この重さは奈津美だね」
「“この重さ”は余計です」
ビシバシとチョップをかまされながら振り向くと、やっぱりそこにいたのは奈津美だった。
黒色のジーンズパンツに白色Tシャツ、デニムの袖なしジャケット。
180㎝ある僕よりも2㎝だけ低い彼女は、今日もばっちり決まっている。
背中まで届く長い黒髪に白いキャップはなぜかその姿にマッチしていて、「可愛い」というよりは「かっこいい」という形容詞がよく似合う。
「あのねぇ、溝口くん。女に“重い”って言うのは禁句だよ?」
「だったら毎回毎回背中におぶさって来るの、やめてくれない?」
「だって溝口くんの背中を見ると、抱きつきたくなるんだもん」
わけがわからない。
別に彼女とは恋人でもなんでもない。
大学1年の春に知り合っただけの単なる同期生だ。
それでも、彼女はことあるごとに僕にちょっかいを出してきた。
それも身体を密着させてのスキンシップだ。
20年あまりの人生で一度も彼女ができなかった僕にとって、彼女のこの行為は刺激が強すぎた。
「だったらその……僕の許可を得てから抱きついてよ」
「えー。それじゃあビックリさせられないじゃない」
「ビックリさせたいから抱きついて来るの?」
「ううん、抱きつきたくなるから抱きつくの」
どっちだよ、と思ったけれど、彼女の笑顔がまぶしくてそれ以上は聞けなかった。
奈津美と初めて出会ったのは大学1年の講義の時だった。
卒業までの必修課目で、大勢の学生が講義室を埋め尽くす中、隣に座ってきたのが彼女だった。
「隣、いいですか?」
僕は初めて彼女を見た時、目を見張った。
バイクで通学しているのだろうか、ライダースーツに身を包んだ彼女は明らかに周囲から浮いていたからだ。
そして僕が答える間もなく隣に座る無遠慮な態度に、僕は少なからず嫌悪感を覚えた。
けれども。
講義が始まるや否や、真剣にメモをとる彼女の姿に、目が釘付けになってしまった。
なんて……なんて綺麗な横顔なんだろう。
すらっとした鼻、整った眉、意志の強そうな瞳。
すべてが僕が今まで出会ったどんな女性をも凌駕していた。
僕がずっと見つめていたからだろうか、彼女も僕に顔を向け、
「なに?」
と聞いてきた。
その時、僕はなんて答えたか正直もう覚えていない。
でも、それがきっかけで僕らはよく話すようになった。
「次の講義は最悪だね」とか「来週は休みらしいよ」とか。
当たり障りのない会話ばかりだったけれど、僕にはそれがすごく嬉しかった。
そうこうするうちに、彼女が僕の背中に抱きついてくるようになった。
「だーれだ」
彼女にとってはなんてことのないお遊びだったのだろうけど、初めて抱きつかれた時は心臓が縮み上がるくらい驚いた。
「ぎゃああぁ!」
周囲の学生が振り向くほどの叫び声に、奈津美のほうが逆にビックリしてひっくり返りそうになっていた。
「な、な、な、奈津美……?」
「ぷくく、溝口くん驚きすぎ」
「いやいや、驚くよ。だって……」
「だって?」
「……いや、なんでもない」
「言いなさいよ、このー!」
再度のオン・ザ・バックに、きっと周りの人たちは「リア充爆発しろ」とか思ってたに違いない。
なにはともあれ、これがきっかけで彼女はよく僕の背中におぶさるようになった。
「ねえねえ、溝口くん」
「なに?」
「溝口くんってさ、保育士さん志望なの?」
僕らの通う大学は、保育士志望の学生が多い。
そのための履修も組まれていて、実際、僕と彼女もその課目を選んでいた。
「……いや、特には。保育士の免許があったほうが就職に有利かなーとか、その程度」
そんな志の人間では保育士になんてなれないことは百も承知だったから。
「奈津美は?」
「私はなりたい。保育士」
彼女ならなれると信じて疑わなかった。
姉御肌で、かっこよくて、頼れる存在。
きっと幼児からも慕われるだろう。
「奈津美が保育士さんなら、きっとみんな楽しいだろうね」
「溝口くんが保育士さんでも、みんな楽しいと思うよ」
「僕はほら、引っ込み思案だし」
「そこが好かれるんだよ。抱きつきたくなるし」
最後のそれが意味不明だ。抱きついてくるのは奈津美だけだ。
すると彼女は「えいや」と僕の背中に飛び乗ってきた。
甘い吐息が首にかかってくすぐったい。
「それに、きっといいパパにもなれると思う」
「なんだって?」
「ううん、なんでもない! ハイヨー、シルバー!」
ぺシぺシと頭を叩いてくる奈津美。
僕は馬か、と思った。
でもそんな彼女を背負いながら「ぶひひーん」と雄たけびをあげてやるとすごく喜んでくれた。
それが嬉しかった。
「ねえねえ、溝口くん」
「なに?」
「私が死んだらさ、毎日こうやって憑りついてあげるね」
恐ろしいことを言ってくる。
彼女なら本当にやってきそうで怖い。
「いやだよ」
「なんで?」
「重いから」
「殺す」
手のひらではなく、グーで頭をポカポカ叩く奈津美。
この瞬間は本当に幸せだった。
こんな幸せがずっと続くと思っていた。
けれど、次の日──。
──────────彼女が、死んだ。
※
どうやら横断歩道を渡っていた園児を助けようとして車に轢かれたらしい。
即死だったそうだ。
そしてその車の運転手はかなり酒に酔っていたとも報じられた。
僕はそれを聞いた時、放心状態だった。
何がどうなってるのか、さっぱりわからなかった。
奈津美が死ぬわけがない。
飲酒運転の車に轢かれるなんて、あり得ない。
そのうちひょっこり「だーれだ」なんて言って現れるに違いない。
そう信じて疑わなかった。
だから通夜も告別式も行かなかった。
絶対に何かの間違いだと思った。
けれども。
大学に行っても彼女の姿はなかった。
「だーれだ」と言って来るあの気配も感じられなかった。
あの眩しい笑顔。
人をおちょくりながらも楽しげに笑う姿。
僕の背中に飛び乗った時の温もり。
すべてが塵のように消えていた。
僕はしばらく大学に通ったものの、それから数日して行くのをやめた。
※
どれくらい経ったろう。
日がな一日、ボーっと過ごす日々。
僕にとって、奈津美のいない毎日は苦痛で仕方がなかった。
いまだに彼女を失った事実を受け止められないでいる。
周囲の人間が心配してお見舞いに来てくれたこともあった。
誰だっけ? と記憶をたどってみたものの、思い出せなかった。
奈津美の友人、と言っていたような気がするけれど、どうでもよかった。
「あの子ね、よく溝口くんのこと話してたよ」
そんなことを言う彼女の目は真っ赤に腫れ上がっていた。
きっと相当泣いたんだろう。
すごく泣いたんだろう。
まるで他人事のように、僕は奈津美の友人と名乗る彼女の顔を見つめていた。
「ねえ、一緒にお墓参り行きましょう? あなた、通夜も告別式も出なかったでしょ? 奈津美が会いたがってるよ」
その言葉に、僕は鼻でせせら笑った。
会いたがってる?
本人でもないのに、よくそんなことが言えたもんだ。
「奈津美、ああ見えてすごく寂しがり屋でさ。でも見た目があんなだったから、誰も近寄って来なかったんだ。大学で溝口くんと知り合って、毎日がすごく楽しいって言ってた。溝口くんと会えるのをすごく楽しみにしてた」
黙れ、と思った。
過去形で話される彼女の話題はこれ以上聞きたくなかった。
「あの子、溝口くんのことね、すごくすごく……」
「……出てって」
「え?」
「悪いけど、今すぐ出てって」
「ちょっと溝口く……」
言いかける奈津美の友人を部屋から追い出して、鍵をかけた。
動悸がする。
息切れがする。
眩暈がする。
奈津美の話題を振られると、ものすごく辛かった。
そして、以降誰からの訪問もないまま、さらに日数が経った。
※
お墓参りに行こうと思ったのはなぜだろう。
行きたくもないし、行く気もなかった僕は、なぜか強烈にそう思った。
彼女が呼んでいる、そう感じたのかもしれない。
食料を確保するため以外の外出は二か月ぶりだった。
以前、僕を見舞いに来てくれた彼女の友人から場所のメモだけは渡されていた。
そのメモを頼りに電車に乗る。
窓の外は普段とまったく変わらぬ景色。
あたりは以前とまったく変わらぬ日常。
彼女の死など、あってなきが如し。
それがただただ悲しかった。
電車に乗って約1時間。
静かな田園風景が広がるその場所に、彼女が眠る霊園があった。広々とした場所で、たくさんのお墓が並んでいる。
勝手に入っていいのだろうか、と思ったけれど、立ち止まっていてもらちが明かない。そっと足を踏み入れた。
どこに彼女のお墓があるのだろうかと辺りを見渡すと、一人の女性が墓の前で立っているのが目に見えた。
見覚えのある顔だった。
あれは確か……以前、僕を見舞いに来てくれた奈津美の友人じゃなかったか。
「み、溝口くん!?」
近寄ると、彼女は僕を見て驚きの声をあげた。
それはそうだ。
お墓参りに行くのに、あれだけ拒絶の意志を示したのだから。
僕はあの時の光景を思い出して、申し訳なさで頭がいっぱいになった。
「来て……くれたんだ……」
ゆっくり彼女の前に歩み寄る。
そして、深々と頭を下げた。
「あ、あの時はごめん……。君に酷いこと言った。せっかく心配して見に来てくれたのに……」
「ううん、いいの。私の方こそごめんなさい。あなたの気持ちも考えずに無理やり引っ張り出そうとして」
「君が謝る必要はないよ」
そう言って、奈津美の墓に身体を向ける。
『塩崎家之墓』
彼女の苗字が刻まれた墓石だった。
きっとご先祖様と一緒に供養されているのだろう。
「ここにね、奈津美が眠ってるの」
彼女の言葉を受け、僕は墓の前にしゃがみこむと線香に火をつけた。
そしてそっと墓石の前に立て、手を合わせる。
瞬間、彼女との思い出が頭の中を駆け巡った。
「だーれだ!」と言いながら抱きついてきた奈津美。
「次の講義は最悪だね」とささやいてきた奈津美。
「溝口くんが保育士さんでも、きっとみんな楽しいと思うよ」と励ましてくれた奈津美。
たくさんの彼女の姿がフラッシュバックする。
僕の大好きだった奈津美。
いつもそばにいてくれた奈津美。
でも、もういない。
自然と目から涙があふれ出た。
「奈津美……。君ともっともっとしゃべりたかった……」
奈津美と過ごした2年間。
どれもこれもが光り輝いていた。
キラキラキラキラと幸せに満ち溢れていた。
たった2年間だったけれど、今までの僕を大きく変えさせる2年間だった。
「君ともっともっと触れ合いたかった……。もっともっと一緒に……生きたかった」
彼女の温もりが忘れられない。
僕は墓の前でうずくまると、今まで我慢していた想いがせきを切ったかのようにあふれ出してきた。
「奈津美……うぐふうぅぅ……奈津美ぃ……」
こうなってくると、もう止められなかった。目からとめどもなく涙があふれてくる。
今まで見て見ぬフリをしてきた奈津美の死を、僕は今、ようやく実感している。
そうだ、僕は逃げていたんだ。
彼女の死から目を背けていたんだ。
けれども、こうして墓の前に立つと嫌でも受け入れざるを得ない。彼女は死んだ。もう二度と会えない。
僕は墓の前でうずくまりながら奈津美の名前を呼んだ。
何度も何度も。何度も何度も。
「溝口くん……」
隣で彼女の友人のすすり泣く声が聞こえた。
その時。
ふわりと何かが背中に覆いかぶさってきたように感じた。
はっと顔をあげた。
でも背中には何もない。
しかし重さは感じる。
この感覚は……。
そして、ささやくような声が聞こえてきた。
『だーれだ』
「な、奈津美……?」
僕の言葉に、隣にいた奈津美の友人が「え? なに?」と尋ねてくる。
でも僕にはそれどころではなかった。
背中に奈津美がいる。
奈津美を感じる。
「……な、奈津美なの?」
つぶやく声に、背中にいるものが『そうだよ』と返事をした。
「なんで……どうして……」
疑問を口にしようとして、「あっ」と思い出した。
「私が死んだら、こうやって憑りついてあげるね」
彼女が死ぬ前日に言った言葉だ。
もしかして……憑りつきにきてくれたのか?
さすがに奈津美の友人が「ねえ、大丈夫?」と顔を覗き込んできた。
どうやら彼女には奈津美の声が聞こえていないらしい。
「奈津美が……奈津美がいるんだ。僕の背中に……」
「ちょっと何言ってるの? 変な冗談やめてよ」
「本当なんだ。奈津美が……」
すると奈津美が彼女に声をかけた。
『すずちゃん、彼をここまで連れて来てくれてありがとう』
声が聞こえていない奈津美の友人は怪訝な顔で僕を見つめている。
僕は奈津美の声を代弁した。
「すずちゃんっていうの? 僕をここまで連れて来てくれてありがとうって言ってる」
すずちゃんと呼ばれた奈津美の友人が、目を見開いて僕を見た。
名前を呼ばれたことに驚いたらしい。
「ど、どうして私の名前を……。まさか本当に……?」
さらに耳元で奈津美がささやく。
僕はそれを伝えた。
「それから……姪御さんのことは気にしないでって言ってる」
「ほんとに!? ほんとに奈津美なの!? 奈津美がいるの!?」
ガバッと僕の袖をつかんで顔を寄せてきた。
その表情は真剣そのものだった。
「う、うん。見えないけど、僕の背中におぶさってる」
「ごめん! ごめんね、奈津美!」
すずちゃんは叫んだ。
僕にではなく、僕の背中に向かって。
「私の姪を助けようとしたんだよね!? 姪を助けようとして、かばってくれたんだよね!? 私、後悔してる! あの日、あなたに姪のお守りをお願いしたこと、すっごく後悔してる!」
僕に詰め寄ってくるすずちゃんに、彼女は優しく声をかけた。
『すずちゃんは全然悪くないよ。だから自分を責めないで』
「すずちゃんは全然悪くないって。だから自分を責めないでって……」
彼女の言葉を代弁すると、とたんにすずちゃんは僕の懐で泣きだした。
「奈津美ぃ、ごめんね……ごめんね。ありがとう……」
泣きながら崩れ落ちるすずちゃんを見て、彼女も心に傷を負っていた一人だったんだなと改めて気づかされた。
『それから溝口くん』
「なに?」
『最後にあなたに会えてよかった』
最後という言葉に、足が震えた。
「最後ってなに? ……僕に憑りつくんじゃなかったの?」
『だって私、重いでしょ?』
「そんなことないよ! 君がいないほうが……ずっと重い……」
『ごめんね』
ゴウッと強い風が吹く。
瞬間、僕の背中にあった重みが消えた。
「待って! 行かないで! 僕の背中に憑りついてよ! お願いだから!」
『今までありがとう、溝口くん。大好きだったよ……』
「奈津美いぃッ!」
僕の叫び声とともに、彼女の気配は消えた。
あとに残ったのは、静寂に包まれた霊園だった。
今のは夢だったのか、幻だったのか。
隣で泣きながらうずくまるすずちゃんの姿を見て、僕はまた涙を流した。
※
あれから5年。
僕はすずちゃんとともに今日も墓参りに訪れていた。
「おはよう、奈津美。いい天気だね」
「ねえ聞いてよ奈津美。彼ったらこの前、自分の勤めてる保育園で園児に泣かされたんだよ? それでも保育士かっての」
「ちょっと、すずちゃん。それは言わない約束……」
「でも、そんなところが奈津美も好きだったんだよね? わかるわかる」
褒めてるのか、けなしてるのか。
僕は何も言えなくなった。
そんな彼女のお腹の中には僕らの子どもがいる。
エコー検査で女の子とわかった。
生まれてくるのはもう少し先だけど、二人で考えた名前はもう決めてある。
「奈津美」
それがこれから生まれてくる子の名前だ。
彼女のような女の子になって欲しいと願って。
優しい風が頬をなでてきた。
それはまるで奈津美が祝福してくれているように感じた。
お読みいただきありがとうございました。