プロローグ「とある少女の決意」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、詩乃さん。大至急用意して欲しい物があるから、後で部屋に来てほしいな」
「かしこまりました。では、十分後にお茶をお持ちいたしますので」
「うん、よろしくね」
心臓がばくばくと自己主張するのに耐え、短いようで長い時間を乗り越えた。
いつもの教室でいつものように授業を受けていた筈なのに、今日に限っては全く身に入らなくて、上の空を友人に咎められるほどだった。
「たしか、部屋は一つ空いていたよね。そこを使えばいいかな、うん。一週間あれば……大丈夫、間に合う、はず」
放課後も特に用事も無く、生徒会でやることもない。
昼のうちに他のメンバーにも確認を取ったから間違いは無く、全ての授業が終わってすぐに帰路についた。
可能なら思いっきり走って帰りたかったりしたけれど、流石にそれは自重して、いつものように迎えの車に乗り込み帰宅して、今に至る。
お帰りなさいませ、と。
挨拶に次ぐ挨拶にただいまと返し、廊下を歩いて自分の部屋へ。
左手には通学用の鞄を。右手には、胸の前で抱えるようにして持ち帰ってきた紙袋を。
心臓の鼓動を押さえつけるようにして、持ち帰ってきたそれ。
「一週間、一週間かぁ。短いような長いような。可能な限り調べておいたほうがいいよね……アニマスピリアオンライン、だっけ」
自室へと辿り着いて、扉を開け放って中へ。
真っ直ぐに机に向かい、鞄と紙袋をそっと乗せる。
「ゲームなんて初めてだけど、上手くやれるかな。先輩で会長なんだから、カッコ悪いとこ、見せたくないな」
そのまま制服を脱ぎ捨ててクローゼットを開く。
開けたクローゼットのサイドにある大きな姿見。身長に反して大きな胸と、身長にそぐう幼い顔立ちの自分が映る。
はあ、とため息を吐いて、下着も脱ぎ捨てて新しいものへ付け替える。
身長は伸びないくせに、胸だけは大きくなるのが嫌になる。
普通に街を歩いていても子供に見られる自分の背の低さも嫌いだ。
だからせめて、他のところでは人に負けないように、家の名にも恥じないようにと努力した結果だけは、私の数少ない自慢の一つだ。
「とーま君と一緒にゲーム。悪くない、ううん、嬉しい。断らなくてよかった」
他に誘って欲しい友達がいるんじゃないかと思って遠慮しようとしたのは本心だった。
ゲームには詳しくなかったし、本当に私なんかを誘って、彼は楽しめるのだろうかとも思った……けれど。
ゲームの中では現実の一日が三日になって、お昼寝し放題ですよだなんて言って、誘うのだ。
私は眠るのが好きだ。
三度の食事よりも、誰かと遊ぶよりも、暖かい布団にくるまって眠るのが好きだ。
常に眠たげな表情だと言われてもこれは元からこの顔だとは思うし、常にごろごろ眠っていたいとは思ってもいるけれど。
私の好きなことを引き合いに出してまで誘ってくれた彼に、否と言えるはずもなくって。
「ゲームをやるのに必要なものは教えてもらったけれど、どんな事を調べたらいいか聞くの、忘れてた」
手早く私服に着替え、脱いだものは全て部屋の隅にある籠へ入れておく。
そのまま特注の大きなベッドへと身体を投げ出し、うつ伏せのまま布団に埋まる。
胸が潰れて少し息苦しい。
顔を横にずらして、机の上の紙袋を見た。
「お嬢様、よろしいですか?」
「詩乃さん? うん、入っていいよ」
コンコンと控えめに鳴らされたノックの音と、扉の向こうからかけられる声に身体を起こす。
数迫置いて開かれた扉と、ティーセットを手にして現れたメイド服の女性を迎え入れる。
勉強用の机とは別の、部屋の真ん中に鎮座するただ寛ぐためのテーブルへティーセットが置かれる。
ベッドを後にしてふかふかのソファへと身体を任せ、即座に目の前に差し出されたティーカップを手に取った。
暑い帰路で火照った身体に、アイスのレモンティーが染み渡るようで、ようやく人心地ついたような気がする。
「詩乃さん。その紙袋を」
「はい」
誰も居ない時ならば自分でやるけれど、メイドがいるならば任せるのがルールだ。
それが彼女らの仕事であって、誇りなのだと彼女らが言うから。
「今日の朝にね、その、生徒会の後輩くんに……ゲームをやらないかって、誘われたんです」
詩乃さんに取ってもらった紙袋から、それを取り出す。
アニマスピリアオンラインとロゴの書かれた、ゲームのパッケージ。
詩乃さんに見せるようにテーブルに置いて、同じ紙袋の中から一枚のメモ用紙を取り出して。
「それで、ゲームをやるのに必要なものが、色々あってね。後輩くんにメモして貰ったの。私用の部屋、幾つか空いていたはずだから、その。一つ使って、準備をお願いしてもいいかな。費用は私の口座から使っていいから」
「アニマスピリアオンライン……VRゲームですか。お嬢様がゲームとは、珍しいですね」
「うん。私みたいな初心者でも大丈夫だって後輩くんは言うんだけど、やっぱり、下調べとかはしておいた方がいいよね」
「そうですね。ですが、オンラインゲームをやるのでしたら、まずは全てのネットゲーム共通で使われている知識などを優先したほうが良いかと。マナーや専門用語などはほぼ共通でしょうから、まずは基礎を学ぶべきです」
「ん……それもそうだね。それで、ゲームの準備の方は……間に合うかな? サービス開始が一週間後らしいんだけど」
「メモを拝見したところ、特に問題なく用意できるかと。回線は少し強めの物に変えたほうが良いでしょうが……一週間もあれば、確実に」
「そっか。それじゃあ、お願いします」
「お任せください。では、早速手配して参りますので……お嬢様はこの後如何なさいますか?」
「じゃあ、パソコンで色々と調べてみようかな。集中したいし、夕食は部屋まで持ってきてもらっても?」
「かしこまりました」
灰色に近い白い髪をポニーテールにしたメイドさんは、最後に一杯紅茶を注いで。静かに一礼の後、部屋を出ていった。
二杯めの紅茶を飲み干して、ゲームのパッケージとメモ用紙を紙袋に戻して立ち上がる。
勉強用の机に置かれたパソコンへ向かい電源を入れる。
詩乃さんの言葉を参考にして調べるべき事を頭の中でリストアップして、パソコンが立ち上がるのを待つ。
「夏期休暇が楽しみだな。とーま君はイベントで入賞できるくらい凄いみたいだし……迷惑かけないように、頑張らなくっちゃ」
彼の事を思い出して、再び心臓が自己主張を始めだす。
立ち上がったパソコンの検索窓にネットゲームのマナーと入力して、検索を実行する。
この胸のドキドキは、彼と一緒にするゲームが楽しみなのもあるけれど。
これをきっかけにして、少しでも……彼の近くに行ければいいなと思う、小さな小さな、私の決意の表明だ。
――あ、でも、とーま君、既に恋人がいたりとかするのかな。
好きな人がいるとか……聞いたことは無いから、大丈夫だよ、ね?