第1話 裏稼業
さびた鉄の匂いのする金網。
路地裏の奥で、はぁはぁと息を荒げている男女……。男女の影が街灯に揺れる。
瑞々しく艶めかしい女の唇が、男の唇から離れると、一筋の糸が光って見えた。
その数秒後、男はその場で力なく沈み込んだ……。
「けっ!くそまずぅ!」
千秋は悪態をつきながら、レースのハンカチで、自分の唇を何度も何度も拭った。
穢れたものを落とすかのように……。
《吸精》
これがサキュバスの能力だ。
芳村千秋の場合、強力な魔力がゆえ、触れただけでも《吸精》できるが、相手のほとんどの精力を奪ってしまうのには、接吻か交わる事が一番効率的だ。
『お嬢様……。今更ではありますが、どんな強い相手でも、交わってしまえば一発なのでは?嫌いな接吻もせずに済みますし』
(そ、そ、そんな。ま、ま、交わるとか……で、できるわけないでしょ!汚らわしい!)
『……かんでますよ……今時、人間でもそんな事言いませんよ……。ウブですな』
(うっさいわね!四十雀!初めては好きな人って決めてるんだから!)
『……そんなロマンティックな……そんなこと言ってると行き遅れますよ』
(黙れ!それより、ちゃんと姿を表しなさいよ!話しにくいったら、ありゃしないわ!)
しばらくすると、闇の中から愛らしいスズメのような鳥が飛んできて、千秋の肩に止まった。その鳥は頬の部分が白く、胸の部分が灰色だ。《シジュウカラ》と呼ばれる鳥だ。
(ようやく姿、表したわね!くそ作者!)
『お嬢様……こちらでは鳥の姿でいるようにと、リリス様がおっしゃられるので、こうしているだけですよ』
(ふん!お似合いね)
そういって、そっぽを向く千秋にその鳥は甘えるように鳴いた。
『……あのお嬢様……私は夜、見えないので……できれば、このまま肩に乗せたまま、ご一緒したいのですが……』
(……ちっ!しょうがないわね。そのままでいなさい)
***
芳村千秋は苦学生だ。
学生にとって、身内がいないというのはイコールお金がないという事だ。
現実世界は厳しくって、身銭を稼がないと、今晩のおかずにも事欠く。
もちろん、授業料も自腹だ。
通常のバイトだけでは、当然家計は火の車なので、裏稼業をしていた。
その裏稼業が、女性を泣かせた奴の恨みを晴らす事だった。
サキュバスとしての能力をいかんなく発揮できるし、精力をいただけるし、お金もいただける。その上、大抵悪い奴なので、千秋としては気分も晴れる。
ある意味、いい事づくめだ。
ただし、獲物が男性の場合は……だ。
必ずしも女性を泣かせるのが、男性とは限らない。
嫉妬や妬みで、同僚や同級生を貶めたりすることは珍しくない。
身バレするのは困るので、できる限り、同じ学園内の案件は受けたくはなかったが……。
明日の夜の獲物は、学園内の女生徒だった……。
(憂鬱ね……。明日、依頼主と接触して確認しなきゃ……。)
***
昼休み、千秋は2年生の棟に来ていた。
ここの屋上で、依頼主の逢坂はるかと会う予定だったからだ。
「……芳村先輩……ですよね……。こ、こんにちは……」
目の前に現れたのは、メガネをかけたおさげの子だった。
気弱そうに、千秋の顔色を伺ってもじもじしていた。
「そうだけど?貴女が、2年3組の逢坂はるかさん?」
「……はい」
(ふ——ん。確かにいじめられっ子って感じね。でも復讐してやろうって印象は薄いわ)
「逢坂さん。貴女のお母様から、お話は聞いたわ。どうしてもその人に復讐したいの?」
千秋は、はるかを観察してみる。
一応、娘はるかの性格は、彼女の母親から聞いている。
そもそも今回は最初、はるかの母親からの依頼だったからだ。
僅かに拳が握られ、薄い唇がキュッと結ばれた。
そして千秋の方をしっかりと見据えて言った。
「もちろんです……。あの子は……絵美は、私の弘くんを奪ったんだ!許せない!」
そう訴える声は震えていたが、彼女の瞳には、ありありと憎悪の念が浮かんでいた。
それとも嫉妬なのか……。
(やれやれ……。男を取られたのね……。だからって、友達を恨むなんて……)
四十雀に下調べさせてみたところ、この依頼者・はるかが復讐したいのは、同級生のようだ。
それもただの同級生ではなく、親友だと思っていた相手……。
(面倒くさいなあ……。だから学園内での仕事は嫌なのよ……)
『お嬢様……。そんな仕事選んでる場合ですか?今月の授業料、バイトだけじゃ足りませぬ』
(あ——。うるさいなあ。わかってるわよ。はいはい。お仕事、お仕事……)
憂鬱な気分……。
でも仕事だから!人助けだから!
そう千秋は自分に言い聞かせると、いつも通り依頼主に尋ねた。
「確認していいかしら?」
どうしても千秋は、確認しなければならなかった。
特に今回は依頼主も獲物も、千秋と同じ学園内の生徒だ。
ここは念入りにしておかないと、ここにいられなくなってしまう……。
「……なんでしょう?芳村先輩。受けてくれますか?」
「受ける前に確認よ……。この依頼を私が受けるということは、絵美さんも貴女にも、私の催眠術を受けてもらうわ」
「催眠……術ですか……」
「そう。セラピーだと思ってちょうだい」
「……セラピー……ですか」
はるかは催眠術という言葉を聞いて、不思議に思ったらしい。
頬に人差し指を添え、小首を傾げる。
《記憶操作》を使うと言ったら、余計に怪しまれるため、千秋は催眠術と言っただけだ。
魔術なんて、今時の人間は信じないからだ。
「そう。セラピーよ。貴女は特に傷ついているもの……」
「……はい。わかりました。芳村先輩……」
いつまでも押し問答するのも面倒だ。それに昼休みも終わってしまう。
千秋は手っ取り早く、《魅了》を使って、従わせてしまった。
《魅了》はサキュバスなら、誰でも自然と使える特権だ。
(はあ……。記憶操作をかけるってことは、大好きな彼や親友との思い出も、消すってことなんだけどな……。憂鬱だあ……)
『……お嬢様……そろそろ午後の授業が……』
(げ!とっとと、そこのぼーっとしてるはるかさんを置いて行きましょ!)
「はるかさん!ほら!授業よ!」
そう言いつつも、結局、千秋ははるかに一声、かけてしまうのだった。
***
(はあ……癒されるわあ……佳之くん……)
5限目、千秋は隣の席の佳之を見つめながら、自分を癒していた。
佳之はそんなにイケメンってわけではないけど、優しいし、気も効くし……。
授業中の鉛筆持って、ノートをとっている仕草や、男友達と話してる時の笑顔……。
その全てが千秋には輝いて見えた。
(サキュバスの《魅了》使って、誘惑しちゃおうかな……。でもなあ……恥ずかしい……)
自分がサキュバスとして、妖艶で淫美な姿で、愛しい佳之くんを誘惑してることを妄想した。
顔が自然と赤くなっていくのが、自分でもわかる。
(きゃあ……。佳之くん……そんなこと……)
身を悶えさせるような妄想がクライマックスを迎えたところで、バタン!と、千秋は後ろに倒れて意識を失った……。
千秋は羞恥のあまり、のけぞって椅子ごと仰向けに倒れたのだ。
『……お嬢様……。なんて申しましょうか……乙女なのはいいのですが……はあ』
教室の窓から見えるイチョウの木の枝には、シジュウカラが鳴いていた。




