第一章『古城街グラオブルグにて』
昔々あるところに、貧民の少女と王族の青年がいました。
二人は星の数ほど存在する生命の中で、なんの運命か同じ国に暮らしていました。
しかし二人が出会うには、これまた国の中から二人を結び付けなければなりません。
それは万が一にもあり得ない話。どこかの本に空想として描かれるような物語。
貧民の少女は、王族の青年ではない人と禁断の恋を。
王族の青年は、気高き貴族の令嬢と見合いを。
ところが、突如現れた魔術師の手で二人の運命は捻じ曲げられます。
灰かぶりの街と呼ばれるこの場所で、儚く、歪んだ想いが紡がれていくのです。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
空がうっすらと明るみ、漂う空気が暖気を帯び始めるころ。
石造りの建物に挟まれた小路を、息を荒くして走る少女がいた。
そこは街灯の一つもない、灰色に塗れた薄暗い路。
夜明けの空に浮かび上がる少女の長い髪。今にも折れそうな華奢な手足を懸命に振りながら、ひたすらに細道を独り走り続けている。
「はぁっ……はぁっ…………はっ…………はっ…………」
石畳を靴底の鋲で打ち鳴らし、生まれた音が残響となって少女を追いかける。
少女はどこかを目指しているかのようだった。
背中に背負った茶色の鞄。今にもはちきれんばかりに膨らんでいて、小さなボタンで皺が引きつっている。
わずかな隙間から見えるのは熟れた林檎のような真っ赤な何か。
大胆に鞄から飛び出しているのは細長い棒状のパン。
また、肩から袈裟掛けにされた水筒が少女の躍動に合わせて上下に揺れる。
見かけはとても重そうな鞄。身の丈に合わぬ荷物を背負い、少女はいったいどこに向かっているのか。
「はぁっ……ふぅっ……もう……すこしっ…………!」
そう言う少女の両側はやはり石造りの壁に挟まれているが、少女の往く路と直行するように光が奔る。
少女の行く道の先──薄暗い路ではない、明るい場所。
走る少女の調子が上がる。徐々に視界が明けていく。
緊張と疲労に強張っていた表情にも、わずかな笑みがこぼれていた。
「着い、た────まぶっ、眩しい⁉」
白に塗れた広い場所。遠い空の向こう側から陽が登り、地を這うような光が大通りを照らし出す。
苔に覆われた石畳が続いていた。閑散とした雰囲気があたりに漂い、通りの側にある石造りの建物も緑の苔や黒ずみに覆われ、もはや廃墟であるかのようなたたずまい。
空は灰色から陽に近付くにつれて青色になるような遷移を映し、羊のような綿雲が気ままに旅をして、水をたっぷり含んだ白絵具を紙の上で傾けたかのように白い筋が幾本も描かれている。
「ううん……急に明るいところに出ると目がチカチカする……」
目を擦り、小さく唸る少女の姿もまた淡い光で浮かび上がる。
天上に広がる蒼空を、そのまま貼りつけたかのような蒼色の長髪。
海の底を映したような碧眼が太陽に綺羅と光る。
飾りのない薄汚れた白ワンピースの裾を微風に揺らし、乾いた泥に塗れた靴が石畳を強く踏みしめる。
「しかしまぁ、今日も良い天気! 警備のおじさんは元気かなぁ」
少女は手のひらをかざしながら昇る太陽の方を見る。
遥か遠い空の先で、陽は強く燦然と輝く──その下半分を真っ黒な外壁に遮られて。
【古城街】グラオブルグ。
その二つ名の通り、少女の住む街は元は巨大な城であった。
その名残に街を囲むようにぐるりと城壁が張られており、各所に在る外門には一つに一人の警備兵が当てられている。外から入るにしろ、中から出るにしろ、必ず外門を通らねばならない。
しかし少女は、街を出ていこうとする人も入って来る人も見たことがなかった。街の安全を確保するためにここにいるのさ、と言っていた警備兵からも、そういった話を聞いたことはない。
──一回でも良いから、外に出てみたいなぁ。
──警備のおじさんに怒られるかな。
少女はしばらくの間、外門の方を見つめていたが、ハッと気づいたように首を横にぶんぶんと振った。
「いけない、こんなこと考えてる場合じゃない!」
そう言うや否や、少女は背中に背負った鞄を背負いなおし、肩から落ちかけている水筒をかけなおして、さっきまでそうしていたように駆け出した。タッタッタッと石畳を軽やかに弾き、静かな古城街の一路を駆け抜ける。そのうちに城壁から全ての姿を見せた太陽がより明るく街を照らし出した。
───ォ─ン……、ゴォーン…………
少女の走る先から鐘を打つ音が聞こえてくる。
太陽が昇り、古城街が目を覚ます時間だ。
閑散とした通りは次第に景色を変え、瞬く間ににぎやかな大通りへと変わっていく。
「おぉ、嬢ちゃん! 今日も元気良いねぇ!」
「あっ、果物屋のおじちゃん! おはようございます!」
「あらぁ、転んで怪我しないようにねぇ」
「服屋のお婆ちゃん、大丈夫だよ!」
通りの端にはいくつもの露店が立ち並ぶ。青果を売る者、肉を売る者、装飾品を売る者と様々。
その中には、少女を見止めて声をかけてくる人たちがいる。それらは老若男女を問わず、少女は快活な笑顔を浮かべてそれぞれに挨拶を返していく。
もうすぐで、少女の目的の場所に辿り着く。
噴水広場が目の前に現れた。円形に広がる広場には数多の人々が行き交い、憩いの場として親しまれている。
「ここをっ、右にっ!」
円形広場に繋がる四本の通りは東西南北に一本ずつ。そのうち東の通りから広場に来た少女は、北の通りへと駆けていく。
北通りに入ってすぐ右手。
太陽の光に映える白塗りの壁面が眼前に広がり、ぜぇはぁと息を荒げる少女を、茶色の両開きの扉が迎え入れる。
少女は周りの人に目もくれず、背負った鞄を扉の横に放り出すと、水筒から勢いよく中身をあおった。
ぬるくなった変哲もない水が乾いた口に溢れ、コクリコクリと喉を波立たせる。口の端からこぼれた水を気にすることなく、少女は水筒の中身をすべて飲み干した。
「ぷっ、はー! 水はおいしいねぇ」
「ぷはー! じゃないでしょ、エスカぁ!」
茶色の扉が内側に開き、出てきた人影が少女の頭に拳を落とした──エスカと呼ばれた少女は水筒を手から放り出し、わずかに口に残っていた水を吹き出す。
「ぐぇっ、ぺっぺっ……何するのよコリン! ゲンコツしなくても良いじゃない!」
エスカは頭を両手でさすりながら後ろを振り向いた。茶色を背景に、白い奔流が目の前に広がる。
「時間に遅れたエスカが悪いの。通りに人が出てくる前に戻ってくるようにって言ったでしょう?」
真っ白な頭髪。腰まで垂れ下がる髪は後ろで一つにまとめられて馬の尻尾のように揺れる。その瞳に宿す暗赤と濃青の虹彩異色の瞳を細め、華奢な腕を腰に当てて見下ろしている様子はまるで怒っているかのようで。しかめられた顔と、吊り上がった瞳の端もそれを物語っている。
「エスカがどうしてもっていうから深夜の外出を許可されたのよ? 本当だったら、いま私が怒る場面じゃないんだからね!」
「むむぅ……そ、それは仕方がないことなの! 途中でおいしそうな木の実が生ってて、高いところにあったけどどうしても欲しくて」
ゴチン、ともう一回エスカの頭にゲンコツが落ちてきた。
避ける間もなく衝撃がエスカを襲い、さっきのと二重の痛みを受けて涙目になる。
「いったぁい…………あ、でもでもコリン! これ見てみてよ!」
エスカは鞄を手繰り寄せると中から何かを取り出した。小さな手の上に、薄く斑模様のついた拳大の林檎のようだ。
市場に出ているものよりは小ぶりではあるが、ツヤのある林檎は真っ赤に彩られている。
「ほら、とてもおいしそうでしょ! 東の通りにあるミエの広場は知ってる? あそこで一番高い針晶樹のてっぺんに生っていたの。とても、とても高いところにあってね」
「わざわざ登って採ってきた、って言うのね」
「うん、そう! ちょっと暗かったけど、簡単に登れたよ!」
エスカは林檎を握った手を突き出して力強く頷く。
コリンは肩を竦めて溜息をつくと、差し出された林檎を手に取った。
その時、開きっぱなしの扉の奥から、二人に近付く一つの陰。
「おや、エスカ帰ってたのかい」
そう言った声は女性のもの。陽の光に照らし出されて、エプロンをかけた老婆が姿を現した。
「あっ、ただいまアリエラ! ほらみて、林檎!」
エスカはコリンの手から林檎をかっさらうと、アリエラと呼ぶ女性に向かって見せつけた。
アリエラは唐突に突き付けられた林檎に眉を吊り上げたがすぐに柔和な笑顔を浮かべ、その林檎を手に取り、眺める。
「これは、ミエの広場にある結晶樹の林檎かい」
「そう! さっきね、取ってきたの! ね、コリン!」
エスカはコリンの方を振り向き、コリンは慌て気味にその首を横に振る。
「その言い方は、私まで行ったみたいになるじゃない!」
「ふぅむ……エスカ、ミエの広場の結晶樹には手を出してはいけないと前に言ったでしょう?」
アリエラは手を上げると、エスカの頭の上にポンとおいてやる。
とっさに目をつむっていたエスカは優しい感触に恐る恐る目を開き、アリエラの顔を見上げた。
「ミエの広場では今、悪い噂が流れている。この話は……コリンも一緒に聞いていたね」
アリエラがそう言うと、エスカの後ろにいたコリンは慌てた様に小さく頷いた。
「あの場所には、とても、とても怖いお化けが住み着いてしまった。それからというもの、食べ物が盗まれてしまったり、子どもがいなくなってしまったりしている」
エスカの頭に置いていた手を頬に移し、その紅色に染まったそれを撫でて。
「私はね、それにエスカが巻き込まれるのが一番怖いんだ。分かってくれるかい?」
アリエラはにこりと微笑んだ。エスカはそれを見、俯いて、
「うん……ごめんなさい」
そう言うと、ぴゅうと扉の奥に走って行ってしまった。もちろん荷物はそのままに、玄関にはコリンとアリエラだけが取り残された。
「……コリン。エスカの荷物を持って行っておやり。そしたら、すぐに朝ご飯にすると伝えておくれ」
それにコリンは頷くと、エスカのリュックを肩に担いで駆けていった。
人々の往来の片隅で一人佇むマナリアは、眩しそうに城壁を見据えると物憂げに溜め息をつく。
「さてさて、いよいよどうしたものかねぇ……ねぇ、エンネアさん」
老婆はそう独り言つと、建物の中へと姿を消していった。