第3章 キルムリー・トライアル -15-
深夜。真っ暗で時刻を確かめることはできないが、おそらくそういう時間帯。
クロノは、ふと目を覚ました。眠りの深いクロノとしては珍しい。
今日は無駄に活動的な一日を送り疲労がたまっていたうえ、これ以上ないほど食べまくった。快適な睡眠の条件は見事に整っていた気もするが、それでもなぜか目を覚ましてしまった。
クロノは横になったまま、首を小さく動かす。
テントの布地越しに、外がぼんやりと明るい。火はすべて消してあると思われるので、月明かりだろう。
耳を澄ます。いくつかの寝息が聞こえた。
男女別のテントには、年齢的にキャラバンで一番下のグループであるキーリン、デゼルト、リブラに、クロノとヘイズが混ざって眠りについた。肌掛けだけ配って、あとは雑魚寝。少し窮屈ではあったが、適当に押しあいながら落ち着く場所を確保すると、ほとんどお喋りすることもなく夢に誘われた。
しかし、そのときより少しスペース的にゆとりがあるような気がした。
誰も起こさないよう注意しながら背後を確かめる。フードを被って寝ているのは、ヘイズだろう。テントの端の方で小さく丸まって寝ている。
足元で寝息を立てているのは、デゼルトのように見えた。さらにその隣で、真っ直ぐ行儀良く寝ているのは、リブラのようだ。
そして、それ以外に人の姿はなかった。
クロノは静かにテントの外に出た。
気温は下がって少し肌寒かったが、空気が澄んでいて気持ち良かった。天気は良く、空に浮かぶ月はその輪郭をくっきりと際立たせていた。
テント村の近くの木立は静かだった。風はほとんどなく、フーマ湖の水面も穏やかに見えた。その動きに合わせて、光がたゆたう。
見たところ、出歩いている人はいないようだった。
(どこに行ったんだ?)
別に用はないのだが、こうなるとなんだか気になってくる。クロノは人の気配を探る。
(いないっぽいな。外にいないとなると………まさか!)
脳裏に一つの可能性がよぎる。クロノは気配を消して、女子のテントに向かった。
(さすがにな……)
女子のテントも静かだった。完全に寝静まっている。
そのとき、視界の隅で何かが動いたように見えた。それは、フーマ湖の方向だった。
夜空の光の点を逆さまに映し出した光景に、小さく黒い影が重なって見えた。それが繰り返し動いている。
「こんな時間に何やってる?」
キーリンが振り向かずに言った。
「それはこっちの台詞だ」
クロノが答える。
キーリンは、両腕で丸太を水平に抱えたまま、さらに別の丸太の上でスクワットをしていた。
足元の丸太は平らな地面の上におかれている。キーリンが動くと、その下でぐらぐら揺れた。
(不安定な足場でよくやるなあ)
キーリンは一定のペースで上下運動を繰り返す。クロノはそれを黙って眺めていた。
「夢を見たんだよ」
キーリンが急に話しだした。ペースは崩さない。
「どんな?」
クロノは惰性で答える。
「ミランが、アンタが負けだよって言う夢」
「ああ……さっきの勝負の? 実際は引き分けだったんだから別に……」
「でも、一気に目が冴えたぜ」
「お前、意外とナイーブなんだな」
「ははは……」
キーリンは、乾いた笑いを返す。
「直接戦ったのは俺なんだから、俺が一番分かってる。あそこでサマルさんが止めなければ……」
「止めなければどうなっていたかは、神のみぞ知るという感じだが……。少なくとも、お前の方は日中からかなり激しく動いていたわけだし、大きなハンデを負っていたと思えば、どうということもないだろ?」
「そういうわけにはいかないんだな、俺の気持ちとしては」
「それは面倒なことだ」
クロノは嘆息して、湖面と夜空の境を眺めた。キーリンはトレーニングを続ける。
会話は途切れ、丸太が地面に擦りつけられる音とキーリンの深い吐息とが、交互に規則的に響いた。
静かな湖面から伸びる葦は、ほとんどそよがない。とにかく穏やかな夜だった。気を抜くと現実感が遠のき、そのままどこかに吸い込まれてしまいそうな気がした。
「お前らさ……」
「ん?」
「だから、お前ら五人だよ」
「ああ」
「五人揃って、なかなか凄えな」
「ふうん」
「反応薄いな」
「……凄いのか?」
「少なくとも、俺はそう思った」
「そうか……」
「ま、俺は偉そうなことを言えるようなもんでもないけどな」
キーリンのトレーニングは終わらない。暗く静かな世界で、そこだけ熱く眩しく感じられた。
「俺たちがどうかはいまいちピンとこないけど、お前も十分凄いだろ」
「そりゃどうも」
「なんか、久々にかなり熱くなった気がするし」
「それ、凄いっていうのと関係あるか?」
「大ありだ」
「………ま、いっか」
クロノは元来、一人で延々としゃべれるタイプではない。そのため、キーリンが話を切ると、あたりは再び静寂の色が濃くなった。触れそうなほどに静寂が強く感じられるようになる。
時間の感覚が希薄になっているので、どれだけ経過したのか定かではない。しかし、たっぷりと余白を挟んでから、クロノが口を開いた。
「静かだな。ここは、いつもこんな感じなのか?」
「そうだな。他にもキャラバンがいたりすると、もう少し雰囲気は違うけど、うちらだけのときはこんな感じだったかな」
「他にもいたりするのか」
クロノは背後を見渡した。確かに、これだけ広くて平坦だと、いくらでも泊まれそうだ。
「うちらが一番来てると思うけど、たまに他のがいたりするな」
「ふうん」
「お前、キャラバンはうちがはじめてか?」
「そうだな」
「そうか。じゃあ一応忠告だけど、よそのキャラバンは、うちとは違うぞ。わりと友好的なところも多いけど、逆にやたら好戦的だったり、普通に悪事を働くところも多いから、見かけたら警戒は怠るなよ」
「忠告どうも」
お前らもある意味、かなり好戦的だったと思うが……と言おうかとも思ったが、言わないでおいた。
代わりに、めまぐるしかった今日という日を思い返してみる。クロノは、つくづく翻弄されっぱなしの一日だったなと思った。
「よそのキャラバンのことは知らないけど、ミグラテール交易団が、少なくとも俺たちにとって他と違うっていうのは、なんとなく想像つくな。詳しい事情は知らないけど」
「そうだな。実は、俺もよく知らないけど」
「ミラン……というか、わりと上の年代の人たちは、セントケージにちょっとした思い入れみたいなのがある気がしたな」
「魔法使いのコミュニティじゃ、セントケージの名はそれなりに知られてるっぽいからな。お前たちはあんまり分かってないみたいだけど」
「こっちはずっと壁に囲まれて生きてきたからな。その外の人たちが自分たちのことをどう思っているかなんて、わざわざ考える機会もないし」
「なら、良かったな」
「何が?」
「狭い世界から出られてさ。壁の中に閉じこもって生きるなんて窮屈だろ?」
「あんまりそういうふうに思ったことはなかったかな」
「どこまでも広がる世界に生まれ落ちたんだから、あちこち行ってみなきゃ勿体ないんだよ」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ」
ジャリ……。
背後で地面に転がる小石を踏む音がした。
「あ……」
クロノたちが振り返ると、そこにはヘイズが立っていた。テントで寝ていたときのまま、すっぽりフードを被っている。
「や、やあ」
ヘイズは、なんだか申し訳なさそうな様子で縮こまっている。
「ごめん、邪魔しちゃったかな……」
「別に、大した話をしてたわけじゃないぞ」
クロノが答えると、ヘイズは表情を和らげて近くに寄って来た。
「こんな時間にトレーニング?」
「まあな」
キーリンは、相変わらず一定のペースで丸太の上で丸太を抱えたスクワットを続けていた。
「まったくむさ苦しいやつだよな」
「じっとしてると肌寒いから、ちょうどいいんじゃない?」
「そういうお前は結構寒がり?」
「別にそうじゃないけど?」
ヘイズはフードを被った完全防備で言う。
「ま、いいか」
ヘイズは、クロノの近くに転がっていた大きめの石に腰を下ろした。それから、ゆっくりした動きで空を見上げ、湖面を眺め、深呼吸をした。
しばらく静かな時間が続いたが、やがてぽつりとヘイズが言った。
「学園長とここは、どういう関係なんだろ?」
「俺は、セントケージの学園長と面識がないからなんとも言えないな」
キーリンが答える。
「サマルさんは、多少事情を知ってる感じがしたな。あと、ミランについては、もっと個人的な繋がりがありそうな感じだった」
クロノが言う。
「そうだな。少なくともミランは面識があるんだろうな」
「学園長がわざわざ手紙を送ったわけだしね」
ミランに手紙を出すのは、キャニーの国境管理局に手紙を出すのとはわけが違う。
「そう言えば……」
クロノは言葉を切った。キーリンとヘイズの視線が向けられる。
「どうした?」
「いや、ちょっと質問なんだけどさ、ミグラテールの団員に手紙を出したい場合、どうすればいいんだ?」
「確かに……」
ヘイズが言う。
「キャラバンって、やっぱり家とかないんだよね?」
「そうだな。だから、手紙は誰かが届けないと無理だろうな」
「探し出して手渡しってことか」
「手紙出そうって人は、そうそういないと思うけどな」
キーリンが答えると、三人は黙った。それぞれが考えていることは、おおよそ同じことだろう。そして、その答えが今この場で導けない種類のものであることも明らかだった。
「ミランはこのキャラバンで最年長だし、当然、他の人が知らないことも多くあるわけだよ」
「それ言うと、うちの学園長もそんな感じだな。まったくの謎だらけだ」
三人で「うーん」と考え込むような声を発し、再びの沈黙。
そして、キーリンはようやくトレーニングをやめた。
「終わりか?」
「さすがに飽きてきた」
キーリンは、足場にしていた丸太に寝転がり、そのまま脱力する。
「風邪ひくよ。テントに戻る?」
ヘイズはそう言って、テントの方を見た。
「誰か来た」
暗がりの中に人影が見えた。こっちに向かってくる。
キーリンは、寝返りを打つように身体の向きを変えた。
「どうしたリブラ。まだ朝じゃないぞ?」
「そんなこと知ってるよ」
リブラは、三人の顔を順番に見る。
「こんな時間に揃って何してるの?」
「内緒のトレーニング」
「寝てるだけじゃん」
「今さっきまでしてたんだよ」
キーリンが主張する。
「俺は………何してんだろ?」
「僕は、二人がいなかったから、ちょっと気になって」
クロノとヘイズも一応答えておく。
「俺は、リブラが出てって一人残るのも微妙だったから」
「わっ!」
リブラは、背後に立っていたデゼルトに驚き跳びのいた。
「結局、うちのテントの人間は全員集合ってわけか」
真夜中だというのに、五人はその場で落ち着いてしまった。何をするでもなく、時々思い出したように言葉を発する。その隙間を、静かな時間が緩やかに通り過ぎていく。
場繋ぎ的な会話の中で、クロノたち一行とミグラテール年少組の年齢も整理された。
最年少はイコナ。13歳で、セントケージの学生なら中等部の四年に相当する。
学年的に一つ上、つまり高等部一年にあたるのが、シェル、ミスティー、そしてリブラ。
そのさらに一つ上が、クロノとヘイズとエミル。
キーリンはさらに一つ上で、デゼルトはさらにその一つ上にあたる。
「俺の方が先輩じゃねえか。敬語使えよ」
キーリンがクロノに言う。
「年齢は一緒だから気にするな」
先月誕生日を迎えていたクロノが言い返す。
「キーリン……お前、よくそんなこと言えるな」
敬語を使われることのないデゼルトも呆れ顔で言った。
少しすると、さらに一人やって来た。
「げ……」
「お前ら、揃って何してるんだ」
サマルだった。
五人は、怒られるかと思って神妙な顔をする。サマルはそれを一通り眺めると言った。
「連れションか? 随分、仲良くなったもんだな。用足したら、とっとと寝床に戻れよ」
サマルはそれ以上追及することもなく、その場を立ち去っていった。
いつの間にか、少し風が吹くようになってきた。
「そろそろ戻るか」
デゼルトが立ち上がると、他のみんなも立ち上がった。
クロノは広い夜空を見上げた。明るい月は、だいぶ西に移動していた。
「外もそんなに悪くなかった……かな」
一人呟いた言葉は、夜の静寂に溶け込んでいった。
*
翌朝、睡眠にあてるべきだった時間を浪費してしまった面々は、眠気をおして幕営地の端に集結していた。
「みなさん、随分寝むそうですねー」
いかにも目覚めの良さそうなエミルが言う。
「実際、相当眠いからな……」
クロノは、眩しい朝日に目を細めながら言った。
「でも、そっちもお前以外みんな寝むそうだぞ」
「私は別に眠いわけじゃないです」
ミスティーが答える。
「確かに、普段通りだな」
一方、シェルは立ったまま寝ていた。相変わらずの高等テクニックだ。
「朝から随分だれてるね。もっとシャキッとしな!」
ミランだった。サマルとギド団長もいた。
「私らも、お前らと遊んでいられるほど暇じゃないんだ。とっとと行っちまいな」
「俺らも、さっさと撤収して出発しないといけないからな」
サマルが言う。
「それなら手伝って―――」
クロノが言いかけたところで、ミランが遮る。
「お前たちは、物見遊山の旅をしてるんじゃないんだよ。あまり寄り道せず、先を急ぎな」
「ま、そのうちどこかで会うこともあるだろう。それまでのお別れだ」
サマルは白い歯を見せてニッと笑った。
「昨晩は、なかなか面白いものを見せてもらった。また会える日を楽しみにしている」
表情が豊かなタイプには見えないギドも、軽く微笑みかけた。
「キーリンが数々の無礼を働いて悪かったな」
デゼルトはそう言うと、背後にいたイコナに促す。イコナは一歩前に出る。
「今度は、もっとたくさんお喋りしようね」
エミルは、寝癖のついたイコナの頭をポンポンと撫でた。
「僕ももっといろいろお話したかったんですが……またの機会に」
額に装着したゴーグルに手を当ててリブラが言った。横目で〈アイちゃん〉を見ている。
「君らが来てくれるのをいつでも待ってるよ」
キーリンは、静かに距離を取ろうとする女子組に微笑みかけた。その横でデゼルトが呆れている。
それから、キーリンはクロノの方に向き直った。
「次はきっちり白黒つけようぜ」
「いや、お前の勝ちで良いよ。俺は不戦敗ってことで」
「それじゃ俺の気が済まないんだよ」
「知るか」
それを聞いてミランが笑う。サマルも笑い、ギドも微笑んでいる。
「お世話になりました」
ヘイズが言ったのに合わせて、セントケージの五人は会釈をした。あまり堅苦しいのも違うだろうし、こんなもんだろう。
「じゃあな」
街道に戻るべくキルムリーに向けて歩き出そうとしたとき、その背中に向かってキーリンが言った。
「またな」
クロノは振り返ることなく、右手をあげて答えた。
(第3章 おわり)
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