第一話「うつ病になった僕」
2007年。僕は1歳になるシーズーのメス「零」を抱えて爆発した。
うつ状態と診断されたのだ。
思えば兆候はあった。
販売接客業なのに笑顔がこわばる、店長の顔を見ると泣き出してしまうなど。
そしてある朝僕は泣きながら仕事を休んだ。休んだところで僕は恐怖しかなかった。
今日は休んでしまったけれど、明日からどうしよう、今日のことを明日怒られるだろうと思うと何もできなかった。
その時ふと頭に浮かんだのが、いのちの電話だった。
僕はいのちの電話に泣きながら電話して、そこで紹介された心療内科に走って、うつ状態で二週間の休息が必要と診断された。
その足で実家に戻り、母と職場に行って仕事を辞めた。僕は犬のゼロと実家の厄介になることになった。
僕が駆け込んだ心療内科は、珍しいことに予約制ではなかった。のちに別の医者にかかることになるのだが、ここには大変救われた。
どこに電話しても予約で数日先と言われるのが心療内科だった。
数日も生きていられない。僕はとにかく今日職場を休んだ証拠が欲しかった。数日先をのんきに待てるならそもそも心療内科に電話しようなどと思わない。
ともあれ僕はそのまま実家で寝たきりになった。
薬の副作用なのか、頭がガンガン痛んで横にしかなれなかった。アイスノンを三個も使ってとにかく頭を凍るくらい冷やして寝てた。
一年間寝続けて2008年、僕はネットを見る程度には回復した。
予約制の心療内科に医者を変えて、薬のコントロールも多少できるようになった。
僕はひたすらネットでうつ病を調べては落ち込んだり喜んだりしていた。と思う。正直この頃の記憶はあまり定かではない。
やがて僕は薬のおかげで回復期に向かい、調子に乗ってアルバイトをして即体を壊した。でもその短いアルバイト代で安いパソコンを買った。
二十代の時の夢だった漫画家への道。僕は安いパソコンとペンタブレットで漫画を描いてネットに上げ始めた。
アダルトな同人の販売サイトを知り、お金欲しさにアダルト同人を始めるようになった。
僕のうつ病は安定し、実家で犬のゼロと父と母と暮らせるようになった。
そして2013年。始まりは母だった。
呆けが進んだような言動が増えて、父と母の関係が僕にもわかるほど奇妙なものになった。
父はやたら母に気遣い「良き夫」をしていて、母はそんな父を不思議と悪しざまに罵った。
良き夫に対してそれは言い過ぎだと僕が小さく父の肩を持つと、母は情緒不安定な状態になった。
まるでうつ病を発症したときの僕のように。
僕は老人性うつの可能性をネットで知って、母に心療内科を勧めていたが、母はなぜか首を縦にしなかった。
2014年になった三月。僕は母から事実を知った。
「お父さん、好きな人がいるんだよ」
青天の霹靂、というよりも信じられなかった。
僕が中学生の頃好奇心で父の書斎を探検しても、エロ本のひとつも出てこなかった父が、60の声を聞いて恋愛しているなど、はっきり言って無職童貞うつ病ニートまがいの僕には受け入れられない現実だった。
僕はさっそくネットで浮気について知識を仕入れ始めた。
なんといってもリアルでは両親と心療内科の先生、コンビニのレジくらいとしか話す相手のいない僕。何をするにもネットだった。
僕はネットオタク、ネット中毒だったが、それでも誇れることはある。
僕は知識を仕入れる時に偏らないことを良しとしていたのだ。
好きな作業は知らない世界の情報を知ること。小学生の頃から広辞苑を愛読書に、高校では戦争中の蛮行はどこまで事実なのかを探しに国会図書館に行き、神田の古書街で戦中の書物を買い漁るほど、僕は知りたい知識に貪欲だ。
一ヶ月もしないうちに僕は浮気博士になるくらい浮気の知識を身につけた。男の浮気、女の浮気、どういう状況が最も多いのか、家庭環境は、収入は、など。当時ネットで読める浮気の話は全部見たと言っても過言ではないと思う。
同時に僕は浮気発覚の手口のプロにもなった。
父が風呂に入っている時を狙って携帯を持ち出し、父へのメールが自分の携帯とパソコンに転送されるように設定して、届いたメールを区分しながら保存しまくった。
カレンダーとにらめっこをして父の行動に矛盾がないか確認し、父に届いた年賀状を三年分漁って交友関係も調べた。
さらに父がネットで趣味の活躍をしている場所へ名前を騙って入り込んでまで監視した。
怪しい女性は母も知っていて、その女性が父と接触しているところだけを見ていればいいなど器用な真似ではなく、完全に掌握したがった。
この頃の行動は今も一部続行しているため、僕は父から離れた場所でも父の行動はよく分かる。安楽椅子探偵状態だった。
母から打ち明けられて二ヶ月もしないうちに、僕はまたうつ病を悪化させた。
ここまでやっておきながら、うつになりたいのは父のほうかもしれないが、とにかく僕はうつ病を発症した時から異様に打たれ弱くなっていた。
元々他人と関われない排他的な性格は家族にも向けられ、僕はさんざん育ててくれた父を敵認定することになってしまった。
そうなれば敵である父のもとで、父の購入したマンションの一室で暮らしていけるわけがない。
僕は父を軽蔑し、嫌い、憎悪すらしていた。そんな父の膝下から抜け出せるほどの生活資金が自分にないことを激しく嫌悪して、僕の体はアンバランスに悲鳴を上げた。
家に父がいること自体が僕のストレスになった。しかもその家は父の家で、僕は居候だ。どうすることもできない。
僕はここでまたネットの力を借りた。
僕がこのストレスから抜け出すための方法。
それはこの家を出て生活保護を受けることだった。
しかし本当に生活保護なんて受けられるのだろうか。聞けば相当に厳しいらしい。
父親が浮気して軽蔑したから保護してくださいなんて、三十代も後半に差し掛かった人間が言う言葉だろうか。
僕は震えながら父に紙切れを渡した。
「この家にいるとうつが悪化するから別の場所にいきたい。毎月8万前後援助してくれるか、生活保護か選んでください」と。
8万というのは僕が貧乏生活をしていたころの生活費だ。風呂なし築40年ならこれでも十分に暮らせることができる額だった。
父は眉ひとつ動かさず
「じゃあ生活保護で」
とラーメンを注文するような顔で言った。
僕はさっそく近所の社会福祉センターに相談に行った。
実際に家を借りたはいいが保護下りませんでしたじゃ自殺しか道がない。
こんな理由でも保護は受けられるのか、センターの職員にじっくり話をした。
まずは世帯を分けてから。改めて申請してくれとの話だったが、職員は僕の理由を聞いても馬鹿にしなかった。僕は即、不動産屋に走った。
うつ病であること、生活保護を受けるつもりであると話すと、若いお兄ちゃんはやっぱり僕を馬鹿にすることなく、安いアパートを紹介してくれた。
「生活保護なら家賃滞納がないからね、逆に考えましょう」
そんな考えもあるのかと、僕は不動産屋のお兄ちゃんの言葉に眩しさを感じた。
微々たる稼ぎと母からの援助。まずは取るものも取らず夜逃げ同然の荷物の少なさで僕は犬とパソコン、それに毛布を抱えてアパートに転がり込んだ。
改めて社会福祉センターに行くと、次から次へ書類を見せられ、言われるままに記入していたら、生活保護の申請ができていた。
僕の地域の担当ケースワーカーは、柔和な顔のお兄ちゃん。三十代後半の僕からすれば、もうほとんどの社会人が年下のお兄ちゃんだ。
大福みたいな可愛い顔のお兄ちゃんは僕の話をよく聞いてくれて、僕が犬を飼っていることも認めてくれた。
犬がいることで心の安定が保てるならという理由だ。
僕にとって犬のゼロは嫁だ。甲斐性のない夫だが、嫁と離れるくらいなら心中してやると思うくらい可愛いがっている。
そして三週間後、僕は晴れて生活保護者になった。
大福さんが書類と現金の引換券を渡してくれて、区役所内の銀行で保護費を受け取った。久しぶりに見る諭吉に腰が抜けそうだった。